27 ぼくの「最終講義」その1
2015.3.28
大学の教授ともなれば、退官にあたり「最終講義」というものがあるらしい。現に、3月7日には、学芸大に赴き、畏友嶋中道則のそれを聴いてきたばかりである。しかし、中学や高校の教師の場合は、その類のものはまずない。
ぼくの場合は、42年の教師生活のうち、最初の5年を都立忠生高校、その後の7年を都立青山高校、そして残りの30年を栄光学園で過ごしたわけだが、そのいずれでも、これといった「最終講義」的なものはなかった。
ぼくの場合、ほんとうの「最後の授業」となったのは、栄光学園での2学期の期末試験の返却の授業だった。いわゆる「試験返し」というやつで、生徒に採点した答案を返し、正解を解説し、採点間違いなどがあれば訂正するといったいわば事務的な授業であり、時間もいつもよりも短いので、自分ではこれが「最後の授業」であることは分かっていたけれど、生徒の方は、まだ3学期があると当然思っていて、いつもどおりのワイワイガヤガヤ。ぼくの方は、翌日に行くことになっていた市大病院での精密検査のことで頭がいっぱいで、「最後の授業」への感慨どころのさわぎではなかった。
そして、生徒にとっても、親にとっても、まさに「寝耳に水」の3学期のぼくの突然の休職。そして、そのまま次の新学期を迎えることなく、ぼくは栄光学園を去ったわけである。栄光学園では、退職教員は、3学期の終業式で校長から「退職」の発表があるだけで、とくに退職教員の挨拶があるわけでもない。ただ、講堂のいちばん前に座って、校長の紹介で立って、生徒の方を向いてピョコンとお辞儀をしただけである。42年間の長きにわたって、いやいやながらも、それでも教師を続けてきたというのに、なんともしまらない結末で、感じとしては、「フェードアウト」であった。
そのぼくが、この前の日曜日、3月22日、「最後の授業」をしたのだから、オドロキである。
ことの発端は、一通のメールだった。去年の9月の末、青山高校の教え子から、来年の3月にクラス会を開くことにしたのだが、その時に、先生に授業をやっていただくことになりました。既に青山高校とは交渉して3月22日に教室を借りてありますので、よろしくお願い致します、というような内容だった。
普通はこんなメールはありえない。来年クラス会をやりたい、まではいい。その時に、先生に授業をしていただきたいのですが、いかがでしょうか。もしOKなら、学校と交渉して教室を借りたいと思います。というのがモノの順序ではないか。ところが、すでに学校とは交渉済み、やるもやらぬもない、有無を言わせぬ一方的な「通知」である。
ぼくは、もちろん、ひるんだ。ひるんだけれど、やられた! って感じだった。何しろ、このクラスというのは、ぼくが青山高校に赴任して2年目に初めて担任したクラスで、1年、2年と連続して持ったのである。ぼくは、その時、まだ29歳でしかなかった。その2年間、担任としていったいどんな仕事をしたのか、とんと記憶がない。せいぜいクラスノートを書かせたくらいではなかったろうか。授業も独りよがりの自己満足的なもので、家内との馴れそめなんかを得々として語ったりしてひとり悦に入るといった有様で、詩の授業などに至っては、「先生は詩が専門だと言いながら、授業はぜんぜんダメじゃないですか。」などと批判される始末。ぼくは、自分の教師としての至らなさを実感するばかりだったが、それはそれとして、とにかく彼らがぼくが経験したこともない「楽しい高校生活」を満喫していることだけは強烈に印象に残った。
ぼくは栄光学園で中高時代を送ったのだが、中学時代には、昆虫採集に明け暮れる「黄金の日々」があったけれど、高校に入ると、まわりが男ばかりであることにふと気づいて急に途方もない空しさに襲われたり、大学受験に脇目もふらずに邁進する友人たちに激しい反発を感じたり、「文転」を余儀なくされたことで文学部を志望したにもかかわらず、文学部志望の友人たちと比べて自分のあまりにも文学的な未熟さに絶望したり、まあ、とにかく「楽しい」なんて日々ではなかったのだ。だから、彼らを見ていると、オレの高校時代はいったい何だったんだ! オレの青春を返せ! と心の中でいつも叫んでいたような気がするのだ。それほどまでに、彼らの日々は輝いて見えた。
そのクラスは妙に仲がよくて、卒業していった後、たびたびクラス会を開いては、その都度ぼくを招いてくれた。ぼくが還暦を迎えたときなどは、「山本洋三先生の還暦を祝う会」と称して、青山のレストランを借り切って盛大に祝ってくれた。ぼくの似顔絵をアレンジした大きなポスターまで作り(それがお店の前に貼り出されていた)、ぼくの似顔絵が印刷された「チロルチョコレート」まで作って配るという念の入れようだった。クラス会の幹事は、何度も集まり、企画を練り、そしてその都度完成度の高いクラス会を実現してきたのだった。
その幹事たちが、そう言ってきたのだ。ぼくの「許可」とか「承諾」をとってからにしようなどと思うわけがないではないか。もし、そんなことを言ってきても、ぼくが「絶対」に、「うん」と言わないぐらい、彼らは百も承知だったのだ。「なんで、今更授業なんてやらなきゃならないんだ。」とか「めんどくさいから、いやだ。15分ぐらいお話をする、というのでいいじゃんか。」「昔、クラス会で、出席だけとったことがある、それでいいじゃん。」とか、グダグダ言って、ちっとも先へ進まないに決まっている。会場を借りてしまったといえば、きっとやってくれるよ、ということだったのだろう。
そういう判断を彼らができたのも、結局、長い、そう、出会ってから37年という長い長い年月を重ねてきた「間柄」であればこそだったのだ。もう一度授業なんて、どうすればいいのだろう、という戸惑いは確かにあったけれど、彼らがそういう企画をしてくれたことが、何より嬉しかった。何とかなる。声も出るようになったし。そう思った。
(つづく)