日本近代文学の森へ (4) 斎藤緑雨『かくれんぼ』
「現代日本文学全集 5」筑摩書房
2018.4.23
緑雨の代表作ともされ、緑雨本人にとっても自信作だったようだが、それほど面白くない。『油地獄』のほうが、混沌としているだけ面白い。当時の評判も、それほど芳しくなかったらしく、どうして? って緑雨は不満だったらしい。
話としては、『油地獄』と大差なく、いわゆる「狭斜小説(遊郭を描いた小説)」で、主人公も、最初はウブな若者だが、芸者遊びで身を持ち崩すというストーリーも同じ。『油地獄』の方は、男が一人の女に入れ込んだあげく、結局相手にもされず、悔しさのあまり気が狂うという話で、考えようによっては哀切な面があるのだが、『かくれんぼ』の方は、男が、最初はウブでも、いったん遊びに目覚めると、とんでもない遊び人となって、次から次へと芸者を漁りまくるという話で、哀切さなんてどこにもなくて、読み終わっても鼻白むばかり。人気がなかったのも、仕方のないところだ。
最初の芸者が、「小春」で、その次がその小春から紹介された「お夏」で、次が「秋子」で、次が「冬吉」、更に、「小露」「雪江」「お霜」と続く。季節の名前という趣向だが、それぞれの芸者の個性が際立っているわけでもなく、「源氏物語」の登場人物などとは比較にならない薄手の人物造型。
ただ、やっぱり、面白いのは文体で、「宇宙広しと雖(いえど)も間違ッこのないものは我恋と天気予報の『所に依り雨』悦気面に満て四百五百を入揚げたトドの詰りを秋子は見届け然らば御免と山水と申す長者の許へ一応の照会もなく引取られしより俊雄は瓦斯を離れた風船乗天を仰いで吹かける冷酒五臓六腑に浸渡り……」なんていう文句は、まあ、読みにくいけど、面白い。
ただ、これを面白いとみるか、陳腐だとみるかは、やはり読者の「教養」によるのかもしれない。
緑雨はどう評価されてきたのかということが、ちょっと気になっていて、「明治文学全集28 斎藤緑雨集」がたまたま手に入ったので、その解説のところをみると、篠田一士の批評が載っている。
篠田は、緑雨は今までほとんど論じられてこなかったといいながら、過去に、緑雨に言及している人として、正宗白鳥の名を挙げていた。さいわい、正宗白鳥の全集が、まだ売られずに家に残っていたので、ひもといてみると、いくつかの文章が確かにある。
白鳥が、緑雨をどう評価しているのか、実に興味深く思って読んでみると、これがまったく評価していない。緑雨をこれまで読んでこなかったので、読んでみたが、がっかりした、なんて書いている。所詮緑雨は江戸時代の戯作者の亜流に過ぎず、凝った文体とか言っても、それなら、本家の為永春水なんかのほうが余程おもしろいし、人間もよく書けている。緑雨の本領は批評にあるというから、そっちも読んでみたが、これもつまらない。江戸文化に通じていることを鼻にかけ、明治の文化を批判しているが、浅薄な批判にすぎないと、にべもない。
江戸時代の戯作文学をさんざん読んできた白鳥には、今さら、その模倣にすぎない緑雨の文体などちゃんちゃらおかしいということだろう。
けれども、篠田一士は、緑雨を高く評価する。こんな具合だ。
今日の大方の読者は、おそらく、これらの戯文を読んで、その阿呆らしさに腹を立て、その浅薄さをあざけり、また、いささか卑俗とみえる作者の思考に高邁な表情をこわばらせるだろう。ぼくとても、いまさら、ここで緑雨の観察眼の透徹さをたたえたり、また、人間心理の理解の深さをもちあげるつもりはない。卑俗ならば卑俗でよし、浅薄なら浅薄でよし、阿呆らしければ、阿呆らしいとぼくも読者と声をあわせて言おう。(中略)緑雨をの存在を無視させ、ついに忘却の彼方へ追いやったものは、この作品に端的にみられるように、いわゆる人生観の欠如であった。ここには、読者に教え、また、訴えるべき作者の人生観はもとよりない。もちろん、アイロニーはある。しかし、そのアイロニーを作者の人生観めいたものとなんらかの関わり合いをもたせるには、あまりにも、緑雨の文章は見事であり、それ自体すでに完結していて、異質な闖入物をよせつけようとしない。
ほとんどが否定的な言辞を連ねていながら、最後で、「文章の見事さ」で緑雨を擁護している。そして、「緑雨にとって、文学とは(彼は文学という言い方をほとんど使わなかったが)言葉によってつくられるもの以外、ほとんど何も意味しなかったようである。」と言う。
これはたぶん、篠田の文学観で、文学が「言葉によってつくられたもの」である以上、「文体」は何よりも大事だということになる。そういう意味では、文学者はまず何よりも「文章家」でなければならないとして、「文章家」と言いうる、あるいはそれを目指した作家として、森鷗外、泉鏡花、芥川龍之介、堀辰雄を挙げている。それに対して、「『文章家』の存在を強引に無視」したのが、自然主義作家だと言っている。
これらの篠田の言い分は、半分わかるけど、今改めて自然主義の作家の作品を読めば、それなりに「文章家」であったと納得できるのではないかという気もする。
緑雨の作品が「言葉によってつくられたもの」として、見事に完結している、という篠田の言い分も、それは緑雨だけのことではなくて、白鳥風に、為永春水のほうが、よほど高度に完結してるじゃないかと言われれば、どうも分が悪い。批評家としては、白鳥のほうが一枚も二枚も上手のようだ。
けれども、白鳥みたいなそっけない、みもふたもない批評は、何も生み出さないのもまた事実で、多少強引でも、篠田のように、「いいところ」を見つけていく態度のほうが、なんか楽しい。
酸いも甘いもかみ分けて、江戸文学にも通暁している文学通が、なんだ、緑雨なんてくだらねえと呟いてるのを聞くより、江戸文学なんてたいしてよく知らないけど、緑雨の文体に感激して、どうしてこんな人が埋もれてるんだろうって興奮して話すのを聞くほうが、ずっと気持ちがいいし、生産的だと思うんだけどね。
ぼくとしては、江戸文学についての教養もないから、単純に、緑雨の文体は面白い。