木洩れ日抄 36 みんななくなっちゃった
2018.4.5
作品社が出した「日本の名随筆」というシリーズがあって、漢字一文字の題──例えば「魚」とか、「愛」とか、「貧」とか、そういった題のもとに、随筆が集められている。編集は、その巻によって違うがそれぞれそれに相応しい人選がなされていて、とても魅力的なシリーズである。
この全100冊になるシリーズ全巻を、ずいぶん前に、ネット古書店でそれこそ破格の値段で買ったのだが、たまにこの中の一冊を取り出してパラパラ読むのは、なかなか楽しいことだ。
この春は、ずっと寒くて、いきなり暑くなるなど、ちっとも春らしくない日々が続いていて、春らしい日々を謳歌できないので、このうちの一冊「春」(山本健吉編・昭和59年刊)を取り出してちょっと読んだ。
目次には、およそ60名の名前があって、そのほとんどが故人である。井上靖、安藤鶴夫、柳田国男、森田たま、網野菊、串田孫一、中村汀女、などなど、どこまでいっても、生存者がいない。存命中なのは、かろうじて篠田桃紅、桶谷秀昭ぐらいだろうか。(篠田桃紅は105歳、桶谷秀昭にしても86歳。)
まあ、過去の文学者の随筆もたくさん収めているわけだから、こういうことになるのも当然かもしれないが、なんとも不思議な気持ちにもなる。
なんだか、「みんないなくなっちゃった」感がものすごいのだ。そういえば、平成だってもう終わりなのだ。そのことにも実感がない。
教師なんていう世の中と隔絶した職業を40年以上にもわたって、のうのうとやってきたせいで、世間の動きが分からぬまま馬齢を重ねた。退職してからは、世間知らずに更に磨きがかかって、何が何だか分かんなくなってきている。
それはそうと、「春」ということでいえば、例えば、生方たつゑという人が、春になると、桃の花のお風呂によく入ったものだなんて、思い出話を書いている。桃は中国では強い霊力をもっているとされていて、その影響か、厄除けとして桃の花のお風呂という習慣もあったらしい。
「あの明るい夕暮れのさし込む湯船に、桃の花杖を浮かべた湯を満たして、ゆあみさせてくれた母の行いが、ひよわかった私の幼児の、大きい厄除けであったかもしれぬ。」(花杖というのは、花のついた枝のころらしい。)
美しい習慣だなあ。
今では、春といえば、とにかく桜で、それもソメイヨシノ一辺倒で、気象情報でも、まるでそれが国民の義務であるかのように、「お花見、お花見」の大合唱だ。その陰で、こうした風習など見る影もなく廃れている。桃が厄除けになるなんて事実すら、知るものは少ない。
かく言うぼくも、そんなことすっかり忘れていて、今改めて気づかされたのだから、どうしようもないのだが、こういうことに気づかされるというのも、また読書の効用だろう。
それにしても、「みんないなくなっちゃった」と同時に、「みんななくなっちゃった」感もものすごい昨今である。