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一日一書 1436 困難は分割せよ

2018-04-29 19:27:24 | 一日一書

 

困難は分割せよ

 

半切二分の一

 

 

以前にも、書いたことのある言葉です。

その時も紹介しましたが、

この言葉に関するエッセイです。

 

 

 

 

 

 

 


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詩歌の森へ (5) 室生犀星・ふるさと

2018-04-29 09:08:45 | 詩歌の森へ

詩歌の森へ (5) 室生犀星・ふるさと

2018.4.29


 

   ふるさと


雪あたたかくとけにけり
しとしとしとと融けゆけり
ひとりつつしみふかく
やはらかく
木の芽に息をふきかけり
もえよ
木の芽のうすみどり
もえよ
木の芽のうすみどり

   

『抒情小曲集』所収


 生まれも育ちも性格も真逆の朔太郎と犀星だったが、不思議なことに、生涯の友人だった。相反するものほど惹かれるということだろうか。

 この詩と、朔太郎の『五月の貴公子』を読むと、ふたりの資質の違いがよく分かる。簡単に言えば、朔太郎は病的だが、犀星は健康的だ。犀星のこの詩に、病的な部分はどこにもない。

 お金持ちの家に生まれて何ひとつ不自由のない生活をしてきた朔太郎が病的な神経に悩まされ、「女中」の子として生まれ、すぐに里子に出され、母の愛も知らずに継母にいじめ抜かれて育った犀星が、こんなにも健康的な精神に恵まれているとは、ほんとに皮肉なことだ。

 詩風も違う。『五月の貴公子』に描かれた「自然」は、決して「自然そのもの」ではない。人工的、幻想的に作り上がられた「自然」だ。しかし、この犀星の詩にある「自然」は、「自然」以外の何ものでもない。

 「雪あたたかくとけにけり」──単純なようでいて、なかなかこうは表現できない。あたたかくなったから、雪がとけた、のではない。雪が「あたたかく」融けたのだ。こうした感覚は、南の国にそだった人間には持ちようがないだろう。「雪がとけはじめた」ことに対する喜びが、心の底から、いや肉体の隅々から、わき上がってくる感覚。金沢という北の国に育った犀星ならではの感覚だろう。

 「息をふきかけり」というのは、もちろん「息をふきかけた」ということだが、文法的には間違いだ。「り」という完了の助動詞は、「ふきかく(ふきかける)」という下二段動詞にはつかない。完了にしたいなら、「ふきかけぬ」「ふきかけたり」などとするべきところ。

 犀星の詩には、こうした文法的な誤りがけっこうある。それは、彼が、ほとんど学校教育を受けていないからだろう。何しろ、犀星は、14歳のとき、高等小学校を「退学」になっているのだ。

 そのころ芝居に夢中になっていた犀星は、教室で、授業の始まったのにも気づかず切腹のマネをしていたところ、入ってきた教師に注意されたが反抗した。教師が「もう一度やってみろ!」と怒ったら、ほんとうにナイフを腹に突き立てたというのだ。もちろん、深くは刺さなかっただろうが、血ぐらいは出たのだろう。それで退学となったという。このエピソードがどこまで本当かはよく分からないが、とにかく、退学になったことは事実で、彼はその後、金沢地方裁判所の給仕として働くことになる。その後の「学歴」はいっさいないのだ。

 こんな粗暴な少年で、しかも「家庭環境」は最悪だったのだから、普通なら、その後の人生はすさんだものになるところだ。それがそうならなかったのは、勤め先の裁判所に、俳句をよくする上司がいて、犀星に俳句を作ることを教えたからだ。そこから犀星は、文学的に開花していく。

 金沢の自然とともに、金沢という都市がもっていた文化が、犀星を救い、犀星を文学者に育てたともいえるだろう。人間が育っていくのに、環境(自然環境・文化環境)っていうのは、ほんとに大事だ。

 けれども、きちんと学校で学んでいなかったから、犀星の使う言葉には、文法的な間違いがあったり、方言が混じってしまったりして、どこか泥臭い表現となっていった。しかし、それが、また独自な言葉の世界を作りあげていったのだと思うと、「言葉遣いが間違ってる」とか「言葉が汚い」なんてこと、簡単に言えないなあと思うのだ。

 「もえよ/木の芽のうすみどり」にも注目したい。「もえよ」と呼びかける対象は「木の芽」ではなくて、「うすみどり」だ。この頃の犀星の詩を細かく見ていくと、「みどり」という言葉に犀星が込めた意味が特別なものであったことが分かる。それは、「みどり」は単なる色ではなくて、自然の生命力、あるいは自然の本質そのものなのだ。(この辺の考察がぼくの大学の卒業論文のテーマだった。)

 だから、「もえよ/木の芽のうすみどり」というのは、単に、木の芽よ大きくなれ、といった次元を越えて、自然の生命力でこの世界を満たしてくれ、この自分に力をあたえてくれ、といったような呼びかけであったのだ。

 自然におびえ、自然に寂しさばかりを感じる朔太郎にとっては、この健康的な自然観を持つ犀星がどんなに羨ましかったことだろう。朔太郎が犀星に惹かれたのは、そういう事情もあったのではなかろうか。

 

 


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