詩歌の森へ (12) 高浜虚子・金亀虫(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな
2018.8.23
金亀虫(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな
高浜虚子
虚子のこの句を知ったのは、いつのことだったろうか。中学生のころの、国語の教科書に載っていたのではなかったろうか。初めて知って以来、忘れられない句となった。
この句のだいたいの意味は、「部屋の中に飛び込んできたコガネムシをつかまえて、窓の外へ放り投げたら、虫は闇の中に消えていき、庭の闇の深さを感じた。」といったところだろう。たとえば、『俳句の解釈と鑑賞事典』(尾形仂編・旺文社1979刊)では、この句担当の村松友次は、次のように解説している。
《句解》こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。それを、窓から外の闇へ向かって力まかせになげうった。こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。
《鑑賞》明治41年8月11日「俳諧散心」(日盛会)、第11回、34歳の作である。
こがね虫を窓の外へ投げるというようなことは日常よくあることである。そういう日常的な行動をとらえながら、〈闇の深さ〉という一語でかすかにではあるが、形而上の世界を連想させる。
この人間を取り巻いている暗黒というものは、人知をもってはかることのできぬ、深いものである。しかもそれがごく日常的な行動に直接につながって、窓の外に深ぶかと存在しているのである。俳句のおもしろさの一つの典型である。
日常のすぐ近くにある「闇」を、卑近な行動を描く中で見事に浮き彫りにしたということで、この句を高く評価しているわけで、それがまあ標準的な解釈なのだろうが、ぼくは、どうにも納得がいかない。
まず、《句解》にある「こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。」というところ。これでは、「なぜ、こがね虫なのか?」が分からない。確かに、「こがね虫が自分でどこかへ突き当たって落ちた。」というようなことは夏の夜にはよくあることだろう。(「自分でどこかへ突き当たって落ちた。」というのは、変な解説だけど。)多くの虫は、光に向かってくるから、暗い庭から家の灯りめがけて飛び込んできて、ふすまかなんかにぶつかって、畳の上に落ちる、ということはよくあるわけで、これは実際に起きたことだろう。そのこがね虫を、手でひろいあげて、窓の外に捨てた。村松さんは「力まかせに」と書いているが、別にそれほど力を入れなくてもいいことで(入れたっていいが)、とにかく、投げた。で、村松さんは「こがね虫を投げこんだがために窓外の闇の深さが実感として感じられる。」と説明するわけだが、やはり、じゃあ、投げたのが、「こがね虫」じゃなかったら、「闇の深さ」は実感されなかったのかという問題が生じるのである。
食べようとして落としてしまった饅頭を庭に投げたら(まあ、そんなことはしないだろうが)、「闇の深さ」は感じられなかったのだろうか、という問題である。そんなことはバカバカしい屁理屈で、これが「こがね虫」という夏の季語だから、俳句になるんじゃないかと言われるかもしれないが、ぼくが言いたいのは、そういうことではない。
これは、やはり「こがね虫」だからこその「実感」なのだ。つまり、こがね虫は、饅頭とちがって、羽根があるので、投げられたあと、「飛んだ」のだ。ここがこの句の「肝」である、とぼくは確信している。(村松さんは、たぶん、こがね虫が「飛んだ」とは考えなかったので、わざわざ「力まかせに」と書いたのだろう。そうしないと「闇の深さ」が出ないからだ。しかし、こがね虫は「飛ぶ」とすれば、ぽいっと投げたっていいわけで、むしろそのほうが「捨て方」としては自然だ。もちろん、虚子がこがね虫が大嫌いだったら別だけど。)
庭に饅頭を投げた場合、数秒しないうちに、ガサッとか、ゴソッとかいう音が聞こえてくるはずだ。投げたのが石で、それが庭石に当たったのなら、コツッという音が聞こえるはずだ。けれども、このこがね虫は、投げられた瞬間、羽根を広げ、飛んだので、何秒たっても落ちた音がしない。つまり「手ごたえ」がないのだ。
こがね虫は、暗い闇の中に飛んでいってしまった。ひょっとしたら、ブーンという飛ぶ音がかすかに聞こえたかもしれない。けれども、眼前には、まっくらな庭があるばかり。姿の見えないこがね虫が、そのまっくらな庭の「闇」をどこまでも広げていく。そこに虚子は、ちょっと驚いたのだ。
ぼくは、初めてこの句を読んだときに、たぶん、そう感じた。(「たぶん」と言うは、ひょっとしたら、国語の授業で、先生がそういう説明をしたかもしれないと思うからだけど、今となっては確かめようがない。)それは、昼間だけど、つかまえたこがね虫(あるいは別の甲虫類)を投げたことがあるからだ。手を放れた虫が、空中にさっと羽根を広げて軽々と飛んでいく様を、なんども見たからだ。
虚子がこの句を作ったとき、その素朴な驚きをそのまま詠んだのではなかろうか。「形而上の世界」を垣間見たと思ったわけではないだろう。日常のすぐ近くにある「闇」の発見、といった「読み」「解釈」は、あとからのもので、虚子の驚きとはなんの関係もないんじゃなかろうか。
俳句に限ったことではないが、俳句は特に言葉が少ないので、さまざまな「解釈」が可能となるし、それがまた魅力なのだが、あまり深読みすると、本来の素朴な面白さを見失ってしまうこともあるのだ。「深読み」は、時として、具体的な事物を捨象して、観念の抽象に陥る危険がある。
少なくともぼくにとっては、この句における「形而上の世界」なんてどうでもいい。むしろ、夏の庭の闇に消えてゆくこがね虫の羽音と、手のひらにかすかに残ったこがね虫の匂いと、あたり一面にすだく虫の声と、うっとうしいほど茂る草木の匂いと、その隙間をぬって吹いてくる涼しい風、そんなものを「いつまでも」感じていたい。