詩歌の森へ (14) 三好達治・雪
2018.8.28
雪
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。
三好達治
三好達治の『測量船』という詩集は、高校時代から大好きだった。ぼくみたいな、もともと理系志望の人間にとっては、国語の授業だけが、ただ一つの文学への入口だったわけで、理系(生物系)進学を諦めた後、途方にくれたぼくを文学部へと誘ってくれた国語の先生たち(「お前、文学部へ行け!」と言ったというのではなくて、授業を通して文学へと導いてくださったという意味で)には、ほんとうに感謝している。もちろん、文学に目覚めかけたぼくの前には、根っからの文学好きの友人がたくさんいて、ぼくは、彼らを文字通り目標にしてぼくなりにケナゲに頑張ったものだ。
「頑張る」というのもなんか変だけど、こんな本を読んだよ、とだけ言うにも、彼らを前にしては、非常に勇気が必要だった。いつでも、けなされるんじゃないか、バカにされるんじゃないかという不安なしに、彼らと文学の、あるいは映画の話を出来たためしがなかった。そして、実は、それは今もまったく同じなのであって、ぼくは、何についても、「自信をもって」モノを言えたためしがない。
なんだ、自信たっぷりに書いているエッセイだってあるじゃないかと言う人もいるかもしれないけど、それはあくまで「演技」である。いつも語尾が「ではないかと思う。」「ではないだろうか。」「そうではないとはいいきれない。」などといった自信なさげな、後で言い訳できそうな、そんな言い方ばかりのエッセイなんて、役人の答弁みたいでイライラするではないか。といいつつ、そんな自信なさげな、逃げ道ばっかり用意している言い方をけっこうしているのが実態なのだが、それでも、時には、「である。」「なのである。」などとキッパリ断定してみることもあるのだ。
そう「キッパリ断定」したからといって、そのことをぼくが信じて疑わないというわけではない。いちおうそう断定してみることで、自分の意見もはっきりと見えてきて、もし、後で読むようなことがあれば、その時、その断定が間違いだったら、間違いだと、はっきり分かるという寸法だ。
現役のころに、小論文の指導をしたことがあるが、そのときも、どっちみち君たちの知識や経験では、何一つ断定できはしないんだ。だけど、今、そう思うなら、思い切って断定してみようよ。そうしなきゃ、いつまでたっても意見なんて書けないよ、みたいなことを言ったような気がする。(こういう「気がする」は、記憶に自信がないからで、断定をさけているわけではありません。)
前置きが長くなったが、この三好達治の詩である。かつてはこの詩がよく中学校あたりの教科書によく載っていたわけだが、これを授業で扱おうとすると、大変なのだ。
大分前に書いたぼくのエッセイだが、ここに引用してみたい。題は「眠らせたのは誰か」。書いたのは2002年6月。
国語の教師になって三十年近くになるが、「国語教育」の専門書というものは、どうも恐ろしくてあまり覗いたことがない。ところが先日、国語科の研究室に、ある国語教育学者らしい人の著作集がドサッと置かれていた。若い教師が興味を持って注文したらしい。せっかくなので、何冊かを手にとってページを繰ってみた。
「○○論文の誤りは、○○なところにある。」「○○氏は引用もせずに私の論文を批判しているがけしからん。」などといった穏やかでない言葉が、チカチカと目に入ってくる。やっぱりこわそうなトコロである。国語の授業の方法論や、教材の是非などをめぐって口角泡をとばすような激論が「国語教育界」では日々闘わされているのだろう。
中には目を疑うような議論もある。
目次に「眠らせたのはだれか。」というヤクザ映画みたいなタイトル。何ごとかと思えば、三好達治の有名な『雪』という題の詩についての論争である。
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ。
たった二行のこの詩は、中学校の教科書などによくとられてきたので、どこかで誰もが読んでいるのではないかと思う。静かに雪が降り積もる中、スヤスヤと眠る子どもの姿が印象的な詩で、谷内六郎の絵のような趣がある。そんな静けさとか、子どものあどけなさが感じ取れればいい詩なのだが、これを教室で扱うと、大混乱。
それは教師の「誰が太郎や次郎を眠らせたのでしょう?」という心ない質問から始まる。しなくてもいい質問である。やれ雪だ、母親だ、いや父親だ、違う、作者だと、収拾がつかないことになる。収拾をつけようとすると、一編の論文ができるというわけである。
驚くべきことに、この本で初めて知ったのだが、教室では「眠らせたのは母親である。」と教える先生が多いというのだ。そばにいた若い国語教師も、そう言えば昔そんなふうに習った記憶があるという。
冗談じゃない、雪に決まってるじゃないかとぼくは思うのだが、中には文法的にこの詩を解析して、主語は母親以外に考えられないと結論づける学者もいるらしい。しかし谷内六郎なら、その絵の中にわざわざ母親の姿を描くだろうか。そんな野暮なことはしないよ、と彼はいうだろう。どうしても母親のイメージが必要なら、母親の形をした小さい雪をたくさん描くだろうなと、彼は言うだろう。
詩の授業はむずかしい。せめて生徒の詩の心を眠らせないようにしたいものだ。
これを書いてから既に16年経っていて、国語教育もずいぶんと変化した。最近では、テーマを決めて話し合うというような、いわゆるアクティブラーニングが盛んだから、さしずめこの詩などは、討論の材料にはもってこいなのかもしれない。
「誰が太郎と次郎を眠らせたのか?」どころではない、「太郎と次郎は兄弟なのか?」「兄弟だとして、何歳ぐらい違うのか?」「なぜ『太郎の屋根』『次郎の屋根』というように区別するのか。」「『太郎の家の屋根』とどうして言わないのか?」「区別している以上、二人は隣同士の子どもなのではないか。」「それならどうして太郎と次郎というような名前なのか。」などと、きりもなく討論の材料は出て来る。
実際には、こんなテーマで討論やらディベートなんかをするわけはないが、少なくとも、16年以上前に、「誰が太郎や次郎を眠らせたのでしょう?」という教師が問いかける現場というのはあって、そこで恐ろしいことだが、なんらかの「結論」が出たらしいのである。
その結論の一つが「眠らせたのは母親である」というヤツだ。
解釈に「正解」はないが、それにしても「眠らせたのは母親である」というのは、16年経った今でも、間違いだと確信している。
文法的にどうこういうまえに、どうして子どもを寝かしつけるのが「母親」なのか、という問題もある。父親かもしれないじゃないか。両親がのっぴきならない用事で海外に出かけたためにその子どもを預かった叔父夫婦かもしれないじゃないか、なんて言い出したらきりがない。
つまり、「誰が眠らせたのか」という問いそのものが間違いなのだ。
詩は「理由を問う」ものではない。あくまで味わうものだ。秋の虫が鳴いているのを聞いて、「あの虫はなぜ鳴いているのか?」と問うのは、科学の問題で、そう問うことで、すでに「詩」から離れている。(もちろん、その科学の答えから、「詩」が生まれるということもありうるけれど。)この詩を「味わう」ということは、この詩が描いている情景、それも視覚だけでなく、あたりの「静けさ」といった聴覚から、野外の「寒さ」といった触覚までを含めての「情景」の「中」に「わが身」を置いてみる、ということだ。そこで何を感じるかは、それぞれの自由である。「なぜ?」を封じて、この詩の中で「生きる」こと。それ以外に、詩を味わう手立てはないのだ。と断定しておく。