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日本近代文学の森へ (40) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(4)断橋』その1

2018-09-07 17:03:15 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (40) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(4)断橋』その1

2018.9.7


 

 義男は、東京へ帰ろうかと思うのだが、まだ北海道各地を見て歩きたいという思いがあった。そこへ「北海メール」という地方新聞の主筆巖本天聲の誘いがあり、北海道巡遊へ出かけることとなる。その旅の記事を同紙に掲載するという条件だった。

 義男は、どうせ地方紙に過ぎないという思いもあるが、やはり、自分の記事が地元の人にどう読まれるかを思うと、いい加減なことはできないと気を引き締める。めちゃくちゃな行いが目立つ義男だが、根は真面目なのだ。

 いよいよ巡遊の旅に出るという間際になって、東京に残してきたお鳥から電報が届く。この時の気分がこう描かれている。


 朝、七時二十分の汽車に間に合ふ樣、義雄は薄野(すすきの)を出て、車を走らせる途中、旅かばんを取りに、ちよツと有馬の家へ寄り、靴を脱ぐのが面倒臭いから、障子が明いてゐるのを幸ひ、靴脱ぎのそばに立つて、
「有馬君」と、聲をかけた。勇がまだ學校へ出かけはしなからうと思つたからである。然し、「もう出かけました。」お綱さんが臺どころから來て、あがり口に膝をつき、片手を障子のふちに當てながら、「ゆうべから心配してをりましたですよ。お鳥さんから今行くから青森まで迎へに來いといふ電報が來ましたので──」
「え、電報が!」義雄は棒立ちになつた。と云ふのは、殆ど忘れてゐたお鳥の羽根ある鳩の如く飛んで來る姿が見える樣で、その戀しさがふと一時に電流の如く身を打つたからである。
「お留守にあけて見たのはいけませんでしたか知れませんが──」お綱さんは電報の本紙を取つて來て、坐わつて義雄に渡し、「急用ででもあつたら、あなたにお知らせしないのは却つて惡いからと申して、うちのが明けて見たので御座います。」
「いや、それはかまはないのですが──」義雄が默讀して見ると、
「イマタツアヲモリマテムカヘニコイ。」



 薄野遊郭の遊女敷島とねんごろになっている義男だが、やはりお鳥のことが忘れられないのだ。

 天聲との約束があるので、それを断ってお鳥を青森まで迎えにいくわけにはいかない。義男は、一人で札幌へ来いという電報を打って、旅に出るのだが、なかなかお鳥とは連絡がとれず、今頃は、どこかで困っているんじゃないだろうか。あの病気が悪くなって、どこかに入院でもしているんじゃないか、とか、それとも、旅の途中で新しい男ができたんじゃないかとか、いろいろと気を揉みながら、やっぱりオレはアイツが好きなんだと実感するのだった。

 北海道巡遊の記述が、この後長くつづくのだが、そこを読みつつ、びっくりしてしまった。

 というのも、その旅の舞台が昨日(9月6日)の北海道胆振地震で震度7を記録したその地だったからである。

 札幌から汽車で岩見沢へ行き、そこで別の汽車に乗り換えて、「胆振の沼の端」で汽車を降り、あとは馬車でいく。その辺りの描写は、シャープな映像を伴って迫ってくる。


 〈岩見沢で〉再び汽車に乘つて、稻穗のよく實る水田が廣がつてゐる栗山や由仁(ゆに)を通過する時、義雄は一種のおそろしみを感じた。ほかでもない、この邊にお鳥の實兄が刑事探偵をしてゐるのである。かの女がやつて來て、義雄の待遇の具合によつては、或は、燒けを起して、恥ぢも何もかまはず、すべてを兄にぶちまけてしまふかも知れない。かの女の苦しんでゐるいやな病氣は、元は、義雄から移つた。それが知れたら、兄はかの女を怒ると同時に、どんな復讐を義雄にするか分らない。向うの人物が分らないから、一層それが義雄には思ひやられるのである。
「然しその時はまたその時だ」と、義雄は心であきらめをつけた。
 夕張炭山線の分岐點なる追分を過ぎ、安平(あびら)、早來(はやきた)、遠淺(とほあさ)など云ふ驛を經て、膽振(いぶり)の沼の端に至つて、一行は汽車を降りた。
「馬車があればよう御座いますが、なア」と、遠藤は義雄のことを思つて呉れてゐたが、がたくり馬車があつた。義雄等はそれに乘つて、樽前山をずツと後ろにして、一面の火山灰地なるイリシカベツ原野を殆ど一直線につけてある長い道路に添ひ、勇拂(ゆうふつ)を通つて鵡川(むかは)に進み、そこにその日の宿を取つた。
 平野にいぢけくねつた槲の木、海濱に赤い實を結んだ濱なす、どこまでも一直線に氣持ちいい道路、木材流送の爲めに毎年汎濫して沖積土の堤防をずぶ/\解き崩す鵡川などが義雄の心に最も深い印象を與へた。
 十月四日、鵡川に初霜があつた。薄雪の樣に白い道を進んで日高に入ると、さすが馬産國だけに、親馬が通ると、そのあとへ必ず小馬がてく/\ついて行くのに出會ふことが多い。そして、沙流(さる)川にかかつた九十五間のおほ橋の欄間には、驅け馬を切り拔いてある。また、アイノ人(注:アイヌのこと)の本場平取村が近いだけに、髯武者のアイノや口のあたりに入れ墨したメノコを見ることが多く、その一セカチ(男兒)の如きは、義雄等の馬車について一二町も走つた。
 門別から荷馬車に乘り換へたが、その村を拔ける時、後ろを返り見ると、遙か西方に膽振の樽前山の噴火が見えた。眞ツ直ぐに白い煙りが立つてゐるかと思へば、直ぐまたその柱が倒れて、雪と見分けが附かなくなつた。
 義雄はそれを見て考へた、あれほど活氣ある火力を根としながらも、空天につツ立つた煙りは周圍の壓迫に負けて倒れるのであるから、地腹に隱れた火力は、丁度、義雄自身が發展の出來ない鬱憤であらうと。
 がうツと、一と聲物凄い響きが渠のあたまの中でしたかと思ふと、その火山の大爆發當時のありさまが暝目のうちに浮んだ。その時、西風が吹いてゐるのであらう、日高の方面へ向つて、その噴出した熔岩の灰が雲と發散して、御空も暗くなるほどに廣がつた。
 その結果が、今、義雄の目を開らいて見る火山灰地である。數百年もしくは數千年以前に出來たその地層がまざ/\と殘つてゐて、膽振から日高の一半に渡つて地下六七寸乃至一尺のところに、五寸乃至一尺の火山灰層となつて、その白い線が土地の高低を切り開らいた道路の左右に郵便列車の中腹の如く、くツきりととほつてゐる。



 昨日テレビで見た、あの胆振地方の山の崩れ方に震撼させられたが、この記述を読むとそうだったのかと納得される。この辺いったいは、火山灰層なのだ。そのうえ、その崩れた山の斜面には、いちめんにまだ若い杉の植林だった。『放浪』にも出てきたが、樺太の材木を伐採して一攫千金を考えたことも義男はあったのだ。樺太ならぬこの胆振地方でも、材木の伐採はさかんに行われたのだ。自然災害には違いないが、その背後には人事の長い「歴史」があるわけだ。

 それにしても、遠い明治の、ほとんど忘れかけられている小説を読んでいて、こんなに「今」とシンクロするなんて、ほんとに驚愕した。

 北海道開拓の歴史には詳しくないが、こんな記述もあって、これにも驚いた。



 その翌朝、雨を冐(をか)して馬上、新冠(にひかつぷ)の御料牧場を見に行く途中で、染退(しぶちやり)川荒廢の跡を調べ、中下方(なかげはう)に於ける淡路團體の農村を見た。この村を見ては、義雄は自分の故郷淡路に關する記憶を呼び起さずにはゐられなかつた。
 王政維新の頃、淡路に於いて稻田騷動なるものがあつた。阿波藩の淡路城代稻田氏が藩から獨立しようとする逆心があると誤解し、阿波直參の士族どもが、城代並びにその家來(阿波藩から見れば、「また家來」)を洲本の城に包圍した。そして、義雄の江戸から引きあげて來た父並びにすべての親戚は包圍軍の方に加はる關係であつた。
 それが爲めに、稻田がたの士族の子弟(全くの田舍者だ)が勢力ある小學校に於いては、義雄は「江戸ツ子の民」として、いつも排斥され、迫害されてゐた。同國の民が「ねツから、ね」と云ふからである。義雄の孤立的な陰鬱性と傲慢な獨立心とはこの間に養はれたものだと、義雄自身もさう考へてゐるのだ。
 ところが、稻田がたで淡路にゐ殘つた士族どもは殆どすべて意久地なしばかりで、その他はみな明治四年(まだ、義雄の生れない時)、明治十八年(義雄が小學校を出た頃)の兩度に、その城主に從つて北海道へ移住した。そして、渠等には淡路をなつかしい故郷と思ふ樣な氣がなかつたと云ふのは、かの騷動の時、渠等のうちには、その妻女は直參派の爲めに強姦されたり、姙婦はその局部を竹槍で刺し通されたといふ樣な目に會つてゐるものがあるからである。
 この鬱憤並びに主君と同住するといふことが渠等の北海道開拓に對する熱心の一大原因であつたらうと、義雄は考へた。第一囘の移住者等が國を船出する時は三百戸ばかりあつたが、紀州の熊野沖で難船し、百五十戸分の溺死者を生じた爲め、半數だけ(それが、現今では、僅かに三十戸)が北海道開拓の祖である。それが中下方にあるが、第二囘の五十戸は、今、同じ川添ひの碧蘂(るべしべ)村にある。兩村は實に北海道の模範村になつてゐる。
 一見して、耕耘(かううん)に熱心なことや永久的設備をしてかかつたことなどが分る。
 石狩原野の如きは、札幌でも、岩見澤でも、矢鱈(やたら)に無考へで樹木を切り倒したり、燒き棄てたりして、市街地や田園などに風致がなくなつたばかりでなく、風防林までも切り無くして、平原の風を吹くがままにしたところがある。然し淡路人の村には、大樹のところ/″\切り殘して風致を保つてゐる上に、家屋も他の方面で見る樣な假小屋的でなく、永久的な建築をしてある。

 


 歴史に疎いから、この淡路島の騒動のことなどまったく知らなかったのだが、それがこの泡鳴の出自にもかかわり、そしてこの北海道の胆振地方にも深く関わっているとなると、「歴史に疎い」などと、のんきなことは言ってられないなあと思う。

 岩野泡鳴は、淡路国洲本の生まれだということは、その年譜を見て知っていたが、こんなに根深い「歴史」があったのだ。そして、そのことが、泡鳴の性格や生き方にまで大きな影響を与えていたのだ。


 小説は「時代をうつす鏡」だと言われることがあるが、確かに、この泡鳴の小説は、明治時代の北海道の風景や、そこに暮らす人々の姿を鮮明に記録している。もちろん、そこには泡鳴の主観も色濃く入ってはいるのだが。


 


 




 


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