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日本近代文学の森へ (41) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(4)断橋』その2

2018-09-16 15:23:18 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (41) 岩野泡鳴『泡鳴五部作(4)断橋』その2

2018.9.16


 

 泡鳴五部作の第4部『断橋』は、義男の北海道での日々を描くが、中でも、「北海メール社」の仕事としての「北海道巡遊」が、当時の旅行記として、異彩を放っている。

 男女の仲をえげつないまでに描き尽くす泡鳴だが、こうした「紀行文」は精密で、所々に、自身の感想を交えながら、当時の彼の地の様子を生き生きと伝えている。

 10月3日に札幌から汽車に乗った義男ら一行は、「夕張炭山線の分岐點なる追分を過ぎ、安平(あびら)、早來(はやきた)、遠淺(とほあさ)など云ふ驛を經て、膽振(いぶり)の沼の端に至つて、一行は汽車を降りた。」その後は馬車で、「勇拂(ゆうふつ)を通つて鵡川(むかは)に進み、そこにその日の宿を取つた。」

 10月4日、鵡川出発。厚別(あつべつ)からは、馬に乗り、日高地方を行く。「稲田騒動」を思い出させる「淡路団体の農村」(静内であろう)を通り、浦河へ。襟裳岬付近を通って、帯広に着いたのが10月10日。

 ここまで来たのだから、釧路まで行きたいと義男は思うのだが、「北海メール社」には金がないということで、やむなく帰途につくことになる。帰途は汽車だ。帯広を出発したのが、10月14日で、旭川を通って、10月16日に札幌に帰り着いた。

 この旅は、泡鳴の年譜によれば、明治42年のことなのだが、当時の北海道の鉄道はどうなっていたのかが気になるところだ。調べてみると、明治44年の鉄道図が見つかった。こういうことを研究している人も当然いるわけで、この図を見ると、帯広から札幌まで、ちゃんと鉄道が出来ていたことがわかる。

 明治になって40年そこそこで、もう北海道にこれだけの鉄道があったということに、今さらながら驚く。


 十四日、帶廣を大雨の中に出發し、ヘケレベツ(アイノ語、清い水)をとほつて、新得(しんとく)から、十勝國境ののぼりになり、義雄等の列車に汽關車が前後についた。このあたり、ナラ、カシハが多く、その葉が赤くまた黄ばんでゐる間を、たまに榛(はん)の木の葉のどす青いのがまじつてゐた。見渡せば、右も左も黄葉紅葉の賑ひで、その中に、蝦夷松または椴松(とどまつ)の霜にめげない青針り葉の姿が、ここかしこ、枝をかさねて、段々にとがり立つてゐる。
 このいい景色の大谿谷を義雄等の汽車は、大小六曲りも七曲りもして、雪よけトンネルをくぐりながら、のぼつて行く、雨は晴れてゐた。窓から首を出すと、列車がうはばみの如くうねつてのぼる、そのうねりの跡が幾度にも折れて見え、ただレールが渦道を畫がいてゐないのが違ふだけで、丁度、ロキイ山中の谿谷鐵道の寫眞の樣だ。わが國第一の大工事と云ふのは、まことに嘘ではない。
 七曲りも曲りのぼつて、第一の實際トンネルを拔けると、十勝原野の秋色は、遠く義雄の視線と直角に横たはつた薄墨の低山の一直線に限られ、近い野山はゆふ空と共にほの赤くかすんで見える。丸で雄大なおほパノラマの樣な幻影だ。義雄はこの幻影によつて實際の北海道を内的に抱擁してしまつたと思ふ。
 この時、またおほ吹き降りがあつたが、第二のトンネルを通り拔けると、もう、石狩の國へ這入つたので、汽車は細いナラ、カシハ、ハンの木、松や清い小流れの間をそろ/\とくだり出すのである。


 うっとりするような北海道の広大な風景の中、鉄道旅の気分を味わえるいい文章だ。

 札幌に帰りついた義男は、すでにやってきているお鳥と再会するのだが、とにかく「病気を治せ」の一点張りの彼女に恋も冷める思いだが、それでも病気を治してやるために入院させる約束をする。一方で、薄野の遊女敷島とは縁を切るのだった。

 というわけで、『断橋』はこれでおしまい。いよいよ最後の『憑き物』へと入る。


 



 

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