日本近代文学の森へ (44) 岩野泡鳴はどう見られていたか
2018.9.26
今ではすっかり忘れさられている岩野泡鳴だが、同時代的にはどう見られていたのかは、非常に興味深い。
「平野謙全集」に入っている追悼文を読んでいて、たまたま知った浅見淵(あさみ・ふかし 1899〜1973)に興味を持ち、その著作集を買ったのだが、そこにも泡鳴論が入っていた。彼は、泡鳴の欠点を指摘しながらも、高く評価している。
泡鳴の自伝小説を一読して、何よりも気附<ことは、センチメンタリズムの些かも無いことである。時によれば涙さえ零している直情径行な性格、立ちどころに溺れて了う女性に対するナイーヴテは、自伝小説のどれにも躍如としているが、それでいてセンチメンタリズムは皆無なのだ。
その点、同じ自然主義の作家でも、田山花袋、島崎藤村などとは趣きを異にしている。花袋の作品には一種の甘さが附纏っているが、又、藤村の作品には、現実を余りに詩情の中に溺れさしているものが多いが、泡鳴は「人間を離れて自然もない。」或いは「自分の悲痛な思索は自分の直接経験だ。」(「放浪」)と誇らかに宣言し、告白しているように、ひたむきに現実を追求しているだけ、刳出(注:こしゅつ=えぐり出す)的で、単なる写実に陥らずリアリスティックで、年代が経ってもそう古臭い感じは抱かせない。生々しさが残っている。
尤も、一方この傾向は、正宗白鳥も指摘していたように、花鳥風月趣味の極端な排斥となり、引いては余情を喪い、余りに露骨になり過ぎて、読者の支持を勘なからず無くしていることも事実である。気品、それから情緒的なものに於て、全く欠けているのだ。
浅見淵『泡鳴の自伝小説』昭和8年7月
泡鳴には「センチメンタリズムは皆無」だという指摘に注目したい。主人公の義男は、そのまま泡鳴ではないと泡鳴自身が言っているにもかかわらず、作品を読めば、義男が「客観的」に描かれていないことはすぐに分かる。といって、作者べったりでもない。時として、やや「客観視」しているような書きぶりも見られるのだが、すぐに義男は泡鳴その人になって、突然演説を始めたりする。
泡鳴は、主人公を外側から冷静に書くという作業をしていないのだ。だから、時には「私小説」そのものと言ってもいい様相を呈するわけだが、それでも、その筆致は「センチメンタリズム」からは遠い。どうしてなのか。
センチメンタリズムというのは、感情に流れ、感情に溺れる様をいうのだろう。そういう意味では、泡鳴ほど「感情的」な人も珍しい。感情のままに行動し、感情をそのまま言葉にしてしまう。けれども、「感情に流れている自分」を泡鳴は決して美化したり、甘やかしたりしない。
たとえば、浅見が言う花袋の「一種の甘さ」は、その『田舎教師』の最初の方を読んだだけでもすぐに感得される。
村役場の一夜はさびしかった。小使の室にかれは寝ることになった。日のくれぐれに、勝手口から井戸のそばに出て、平野をめぐる遠い山々のくらくなるのを眺めていると、身も引き入れられるような哀愁(かなしみ)がそれとなく心をおそって来る。父母のことがひしひしと思い出された。幼いころは兄弟も多かった。そのころ父は足利で呉服屋をしていた。財産もかなり豊かであった。七歳の時没落して熊谷に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。母親の泣いたのを不思議に思ったのをも覚えている。今は一兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家庭の関係についても、他の学友のような自由なことはいっていられない。人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。こう思うと、例のセンチメンタルな感情が激しく胸に迫ってきて、涙がおのずと押すように出る。
田山花袋『田舎教師』(三)
風景も思い出も、ことごとく涙に濡れている「甘い」文章である。「人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。」という表現には、そういうわが身を自ら哀れみ、その哀れみの感情の中に、ただただ涙を流し、そういう「薄倖」の自分を感情的に肯定している様がはっきりと伺えるわけである。
一方、泡鳴はどうか。『泡鳴五部作』の最後の『憑き物』で、義男とお鳥の「心中未遂」はこんなふうに書かれる。厳寒の豊平川に二人が飛び込む場面だ。
「あぶない!」かう叫んで、義雄はかの女に抱き附いた時は、然し、もう、どうせ死ぬんだと覺悟してゐた。
二人は、抱き合つて薄やみの中を落ちた。
義雄はこの場に、自分の一生涯にあつたことをすべて今一度、一度期に、一閃光と輝やかせて見た。然しそれは下に落ちるまでの間のことで、──落ちて見ると、溺れる水もなかつた。怪我する岩石もなかつた。この冬中の寢雪(ねゆき)として川床に積み重なつた雪のうへだ。
二人は抱き合つた手を放した。そして、別々に起きあがつた。
お鳥が自分の肩から下の雪を兩手でふり拂つてゐると、義雄はまた鳥打ち帽をかぶり直し、自分の洋服のをふり拂つてゐる。然し、月はもうその光りを見せる隈がないほど、そらは一面にかき曇つて、風がおほひらの雪をぽたり/\と二人の顏に投げ打つのである。
川床を札幌の方へ出るにはどうしても一つの細い流れを渡らなければならない。お鳥を脊中に負ぶつて、義雄は編みあげ靴のままその流れをざぶ/\渡つた。
川を出てからも、矢ツ張り、無言で、歸途を急いだが、お鳥は、ふと、降る雪の中に立ちどまつて、手を前髮の上へやつて見た。そして、動かない。
「どうした?」義雄が先づ聲をかける。
「櫛がないぢやないか?」かの女は泣き聲だ。きのふ、東京から屆いた蒔繪の櫛を云ふのだ。
「身代りになつたのだらう、さ──また買へばいい。」
「金がないのに、買へやせんぢやないか?」
「そんなこともないだらう。」
「買へやせん! 買へやせん!」からだをゆすぶりながら、「探して來い!」
「馬鹿を云ふな!」かう、義雄は叱りつけた。そして、さくり/\と積つた雪の中をさきに立つて急ぐ。
餘りひどく降つて來たので、渠はインバネスを脱いで、かの女にかけてやつた。
川へ飛び込んで死のうとしたのに、間抜けなことに根雪の上に落ちて怪我ひとつしない。二人は、「別々に」起き上がり、家に帰ろうとする。そのとき、二人は何をどう感じていたのかまるで書かれていない。義男をお鳥を背負って冷たい川を渡り家路を辿るが、お鳥は「櫛がない」と相も変わらぬだだをこねる。こんなふうに書ける作家はそういるものではない。
花袋のような文章は、そこそこの作家ならいくらでも書ける。けれど、どんな作家でも、泡鳴のようには一行だって書けはしない。
根雪の上に落ちて死ねなかったことにたいして、泣きもしなければ、笑いもしない。そんなことまでしなければならないほど追い詰められて自分たちに対する哀れみの情のカケラもない。花袋だったら、「私たち二人は、生まれながらにしてすでに薄倖の運命を得てきたのである。」とでも書くところだろう。それを泡鳴は絶対にしない。「センチメンタリズムは皆無」な所以である。
浅見淵は更にこんなふうに記す。
自伝小説に現われた泡嗚の人生観、恋愛観などには、現代から観て不満があるし、見解の相違も勘なからずあるが、所謂自然主義作家としては、最もその主義に忠実な作家であったように思える。そうして、痴情を描いてこれ程深く達した作家は、明治、大正に掛けて、そう沢山は無いであろう。いや、泡鳴が第一人者では無かったろうか。徳田秋聲は彼が一流の作家であったことを述べ、今に再吟味される時が遣って来るに違い無いと断言していたが、筆者も全く同感である。
浅見淵『泡鳴の自伝小説』昭和8年7月
このように、浅見は述べるのだが、それから85年も(!)経った今、泡鳴が「再吟味」されている気配はどこにもないように思われる。