春陽之日遊戯原野
千歳ふる松もかぎりはあるものをはかなく野べに引く心かな
半紙
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【題出典】
願春陽之日遊戯原野。(『法華文句記』)
春陽の日に原野に遊戯するを願う。
【歌の通釈】
千年を経るという松にも限りはあるのに、はかなく子の日の野遊に心を奪われ、小松を引くことだよ。
『全釈』による。
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「題」については、前後関係が分からないとむずかしいところ。
普安という王様が、隣の国の四人の王様と話をしていたのだが、
普安は四人に、あなた方はそれぞれ、最も願うことは何か? と尋ねた。
すると、一人の王が、「春陽の日に原野に遊戯するを願う。」と答えた。
つまり、私は、暖かい春の日に、野原で遊びたい、ということだ。
それを聞いた普安は、それを批判して、
私は、「不生不滅不苦不楽を願う。それこそが仏の教えだからだ。」と言った。
それを聞いて、四人の王は、みな悟りを開いたというお話。
寂然は、このことを、「野遊」を
「子の日の遊び」(正月最初の子の日に、野に出て若菜をつみ、小松を引いて(引き抜いて)長寿を祝う風習。)
に置き換えて、歌にしたわけです。
千年生きるという松だって、命に限りがあるというのに、
それよりはるかに短い命しか持たない人間が、
野原で遊んでいてよいものだろうか、ああ、情けない、ということでしょうか。
4人の王様はみな普安に感化されて、仏の道を歩んだのでしょうが、
さて、この世の遊びに心残りはなかったのでしょうか。
限りある命なのだから、さっさとこの世の楽しみは捨てて
仏の道に精進せよという教えを、頭では理解できながら、
それでも、なかなか、捨てきれない。
「春陽之日遊戯原野」を願うのは、煩悩でしょうが、
また、魅力的だからこその「煩悩」だと言えるでしょう。