是諸衆鳥和雅音
鶯の初音のみかは宿からにみななつかしき鳥の声かな
半紙
筆・黒文字楊枝
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【題出典】
是諸衆鳥、昼夜六時、出和雅音(『阿弥陀経』)
この諸もろの鳥、昼夜六時に、和雅の音を出す。
【通釈】
聞くべきは鶯の初音ばかりであろうか。宿が宿だけに(ここは極楽であるから)皆慕わしい鳥の声だよ。
【考】
この世で最も美しい鳥の声は鶯の声。極楽浄土にもその鶯がいるという。
さらに極楽では鶯に劣らない様々な鳥が法をさえずるのだ。
極楽に身を置き、そこでの風景を詠むのは、俊成の「極楽六時讃歌」と同様の手法。
春の鶯の初音をはじめ、様々な鳥のさえずりが、そのまま極楽浄土の妙音として聞こえてくる。
いずれも、『全釈』による。
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『寂然法門百首』の構成については、『全釈』では次のように解説しています。
『法門百首』は、仏典の句を題とした法門歌による百首歌で、
春・夏・秋・冬・祝・別・恋・述懐・無常・雑の十の部立ての中に十首ずつを配し、
その一首一首の左に注文(左注)を伏したものである。
したがって、この歌の後にも、「左注」があるわけですが、割と長いので引用はしていません。
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「百首歌」とか、「百物語」とか、あるいは「百人一首」とか、よく「百」という単位が使われますが
ぼくもかつて、「100のエッセイ」というシリーズを書いていたことがあります。
「100」は適度な量といえるのかもしれません。
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この極楽浄土のイメージというのは、キリスト教の天国とはまったく雰囲気が違います。
キリスト教の天国では、「鶯」は鳴きません。
そればかりか、鳥など登場しない。
それでは味気ない国なのかというと、そうでもなくて、
生物の影はないけれど、「愛」という精神的なものに満ちています。
どちらがいいかということじゃないことは確かです。
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「鶯の初音のみかは」に注目。
「この世で最も美しい鳥の声は鶯の声」だとされていても
その「最高」のものだけが、「聞くべき価値」を持っているわけではないというわけです。
極楽では、すべての鳥の声が美しいのだから、
極楽ならぬこの世でも、私たちは「鶯」ばかりを愛でるのではなく、
すべての鳥の声を「極上の声」あるいは「法を説く声」として聞くべきではないのか、
というこの考え方には共感します。
なにか「一番」のもだけが素晴らしい、というのではなく
意味もない価値の序列化をやめて、
すなおな目で、耳で、「この世」を味わいたいものです。