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日本近代文学の森へ (217) 志賀直哉『暗夜行路』 104 文学は楽しい 「後篇第三  九」その2

2022-05-14 14:30:06 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (217) 志賀直哉『暗夜行路』 104 文学は楽しい 「後篇第三  九」その2

2022.5.14


 

 その翌日二人は時間を早めに停車場へ行った。
 「多分三等だろうと思うの」こういってお栄は下関までの汽車賃を謙作に渡した。
 「あの人だけですか?」
 「岐阜から、《こども》を連れて来るでしょう」
 「子供があるんですか?」
 「本統の子供の事じゃ、ないの……」お栄は仕方なしに苦笑した。「──京都からも一緒になるのがあるかも知れない」
 年のよく分らない脊の低い、眼瞼(まぶた)のたるんだ一人の女が華美(はで)ななりをし、大きな男の人形を抱いて、先刻(さっき)から、その辺をうろついていた。それに二人の連(つれ)だか見送りだかの女がついていた。謙作は何という事なし、それが京都からのいわゆる《こども》に違いないと思った。
 皆がプラットフォームに出ている所に下りの汽車がついた。三等客車の、一つからお才と他の二人の若い女が顔を出していた。そして、眼瞼のたるんだ女は五十余りの女に手を惹かれながらその方へ急いでいた。お栄がこういう連中の一人になる事は謙作にはちょっと堪らない気がした。彼は見知らぬ二人の見送人と一緒に三等客車の窓の前に一足退がって変に空虚な心持で立っていた。
 見送りの若い方の女が一人で、しきりにはしゃいでいた。先年は泣かない約束で来て、泣いてしまったが、今こう自分がはしゃげるのは今度こそ成功なさる前兆だろう、などといった。こんな話を聴くにつけ謙作はお栄のために危なっかしい気がした。
 「そんな附景気ばかりいってないで、ちっと、お前さんの資本を此方(こっち)へお廻しなさい」お才はその若い女に椰楡(からか)った。「お前さんの六百円の電話を売って、それだけでもいいからお廻しなさい」
 つけつけいわれて若い女は不安そうな顔をした。お栄はお才の後ろで、黙って穏やかに微笑していた。そして、それが見かけは大変よかったが、同じような心持でお才から勧められ、それにうまうま乗せられ、これから冬に向かって天津くんだりまで金を失いに出掛けて行くのだと思うと、謙作はその若い女よりも「馬鹿だな」と頭ごなしにいってやりたいような気持になった。
 「ちょいと、これは上へのせた方がいいよ」とお才にいわれると無智らしいその女は黙って、その手を離し、大きい男人形を上の網棚へのせ、そして直ぐまた、元のように坐って、年寄った女の手を取上げ、さも、離せないもののように、それへ頬を擦りつけていた。

《  》部は傍点を意味する。

 

 

 前回の最後の引用部分だが(最後の一段落は前回はカットしてしまっていたので、それも入れた。)、「分からない」の連発になってしまった。

 なにかと気ぜわしい状況で書いていたので、最後の方にきて、めんどくさくなってしまって、丁寧に読み込むことができなかったのだ、という言い訳もできるが、ぼくの読解力のなさの現れでもある。

 アップしてすぐに、旧友Aから、こんなメールが届いた。

 

《こども》っていうのは天津の置屋であずかって、春をひさがせる(これ、日本語としてあってるかな?)女の子なんじゃない? それから、お栄が「京都からも一緒になるのがあるかも知れない」って言ってるんだから謙作も想像ができてておかしくはないと思うけど。ただ「汽車賃」の件は、確かに疑問といえば疑問。素直に読めば謙作が切符を買いに行かされたんだろうけど、そんなパシリに使うとは思えないし。

 

 なるほど、言われてみれば、その通りだ。それなのに、ぼくは《こども》って何を意味しているのだろう? とか、「岐阜から、《こども》を連れて来るでしょう」とお栄が言ってるのに、「それが京都からのいわゆる《こども》に違いないと思った。」というのは、書き間違いなのか? とか、トンチンカンなことを書いている。

 《こども》と傍点付きで書いてある意味が、ぼくにはパッと分からなかったのだ。このメールの後、電話で話したことだが、当時は、人身売買的なことが横行していて、貧しさ故の「身売り」など珍しくなかった。だから、売られてきた(買われてきた)少女が、天津まで連れて行かれるということも当然あったわけだ。だから、「子ども」ではあるけれど、売春をさせられる少女という意味で、隠語的に傍点を付けて《こども》と表現されているわけだ。

 お才は、岐阜から京都へやってくる。その時に、《こども》も連れてくるだろうと、お栄は謙作に言っているわけだ。その岐阜から連れてくるであろう《こども》とは別に、「京都からも一緒になるのがあるかも知れない」というのだ。つまり京都でも《こども》が合流するかもしれない、ということだ。別に、志賀直哉の「書き間違い」ではない。

 まったく、読解力がないこと甚だしい、と、嘆いていたその夜、別の旧友Bからもメールが来た。その全文を引用してみる。

 

 汽車賃を謙作に渡す理由は分からないんだけど、謙作がこれから切符を買うのかなあ。
 で、「こども」は例の店ではたらく娘だとおもうよ。だから、はっきり言わないと謙さんには分からないのね、こまったお坊ちゃんだこと、てな具合で「仕方なしに苦笑した」。「京都からも一緒になるのがあるかも」と言われて、さすがの謙作も気づいたということでありましょう。
 「眼瞼のたるんだ」「華美ななり」の、因果を含められたようにおっきな「男の人形」をかかえて、そこらを「うろついて」いる、ちょっと知恵遅れだかの女の子、って寺山修司の映画だったら、ありそうだなとおもった。寺山修司のばあいでは、すでに陳腐だけど、志賀直哉では、あざやかな描写かも、とおもいました。その白痴みたいな子が、見送りの50ばかりの女の手の甲に頬すりよせるから、この子でも先行きの不安、だからこその別れの嘆きは感じているのに、お栄にはそうした不安・嘆きと無縁らしい、としたら、読者は、謙作の怒りが、お栄に対する危うい感じ、から、さらに憐れみへと変わるだろう、ことを予測するんじゃないかなあ。バカだなと頭ごなしに怒鳴りつけたいけど、そんなことを思ってもみないなんて、お栄はなんてかわいそうな女なんだ、って謙作は考えてしまう。だろうと、読者はおもってしまうのでした。

 


 実に見事なものである。特に「仕方なしに苦笑した」の解釈。まだ頑是無い子どもに売春をさせるということへのはばかりから、わざわざ「こども」とほのめかしたのに、謙作にはちっとも分からない。(その点、ぼくと同じだ。)「はっきり言わないと謙さんには分からないのね、こまったお坊ちゃんだこと。」というお栄の内心の説明は、そうか、そういうことだよね、と納得させる。お栄からすれば、謙作は、「こまったおぼっちゃん」なのだ。でも、大事な息子のような、「おぼっちゃん」なのだ。「仕方なしに苦笑する」しかないではないか。それでも、「京都からも一緒になるのがあるかもしれない」と言われて、謙作は、ハッと気づくのだ。さっきから大きな男の人形を抱いてうろうろしていた女が、その「子ども」に違いないと。

 ここで、一挙に、謙作の前に事態は明らかになる。Bが言うように、一種異様な感じの女の子は、寺山修司の世界に出てくるようなたたずまいだが、そんな子どもも、売られていく。しかも、その子は、とても不安そうだ。そんな「連中」を見ている謙作は、どんな気持ちだったか。Bの解釈で、ほぼ言い尽くされている。

 こんな読解力を身につけたかったとしみじみ思う。

 Bは更に、「愛子」問題にも、きちんとした解答を与えてくれている。

 お栄が、謙作の結婚相手の写真を見て、愛子と比較して何か言ったのに対して、謙作が腹を立てる場面である。そこについて、ぼくは、よく分からないと書いているのだが、Bはこう書く。

 


お栄は「愛子さんなんかより、よっぽど、よさそうな人ですね」とでも、いったんじゃない? 愛子の周辺の人々に、あのときの悔しい思いをぶつけるつもりで、あのとき、ああなって、かえって、よかったかもしれないですね、とかお栄は言いたかったんじゃないでしょうか。愛子は、まったく判断にタッチしてないんだからそれに、愛子への思いは、けなされたくも、けがされたくもない謙作にしたら、愛子の名を出さなくてもいいのに出したのは、不愉快で、でも、それとは別に、やはりあのときの腹立たしさがよみがえって、「黙っていた。」

 


 そうか、そう考えればいいのか。完璧である。

 まあ、AにしろBにしろ、中高時代の友人だが、ぼくなんかよりずっと頭がクリアな人間だから、今更感心してもしょうがないのだが、それにしても、自分の頭の回転がどうも近ごろ鈍くなってきているのを実感するものだから、オレと同じように老いてもなお明晰な頭脳を持つ友人に恵まれていることをありがたいことだと思いつつも、忸怩たる思いもつのるというわけである。

 ただ、AもBも、そしてぼくも、同じように「切符問題」に関しては、ちゃんとした解答ができないのは、志賀直哉のせいだということになるだろう。謙作がお栄のために、下関までの切符を買いにいくのだというところに落ち着くのだろうが、謙作がお栄の「パシリ」に使われるわけないだろうし、というAの言葉も気になるところで、いや、謙作なら「パシリ」もやるかもよ、ってぼくは言ったけれど。

 

 文学は楽しい。こうやって、旧友と、60年近く付き合ってきた間も、なにかと話題を提供してくれる。文学に限らない、音楽でも、野球でも、なんでもいいのだ。興味の共通するものについて、ああでもない、こうでもないと、語り合うことができるということは、やはりなんといってもシアワセなことである。

 

 

 


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