不自惜身命
かりそめの色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはせし
半紙
小篆
【題出典】『法華経』寿量品
【題意】 不自惜身命
自ら身命を惜しまざれば
【歌の通釈】
はかなさと縁のある恋でさえ、逢うことに身は惜しんだだろうか。ましてや仏に逢うためならば惜しむことなどないはずだ。
【考】
はかない恋のために身を捧げることができるのなら、永遠の仏に会うために身を惜しまず修行することなどたやすいことだろうという趣向。恋心を昇華して仏道を求める心に仕向けようとする。勝命法師の「かりそめのうき世ばかりの恋にだにあふに命を惜しみやはする」(玉葉集・釈教・二六六六)、また法然の「かりそめの色のゆかりの恋にだにあふには身をもおしみやはする」(空華和歌集)と、酷似する歌が見られる。この歌が唱導的な内容であることから、他の高僧のものとして伝わっていったのだろう。また、定家は『殷富門院大輔百首』「寄法文恋五首」の中の「我不愛身命」題で「あぢきなやかみなき道ををしむかは命をすてん恋の山辺に」(拾遺愚草・二九七)と詠んでいて、これも影響歌であろう。そもそもこの「寄法文恋」というような題自体が、『法門百首』恋部の試みに剌激されてのものである。
(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)
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▼恋の想いを神への想いに昇華するということは、すでに旧約聖書に見られます。つまり「雅歌」と呼ばれるのがそれです。人間の考えることというのは、実は、みな「同じ」なのかもしれません。結局は「一つの種」なのですから。