田母神論文に「……しかし私たちは多くのアジア諸国が大東亜戦争を肯定的に評価していることを認識しておく必要がある。タイで、ビルマで、インドで、シンガポールで、インドネシアで、大東亜戦争を戦った日本の評価は高いのだ。そして日本軍に直接接していた人たちの多くは日本軍に高い評価を与え、日本軍を直接見ていない人たちが日本軍の残虐行為を吹聴している場合が多いことも知っておかなければならない。日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある……」とある。しかし、下記に抜粋した文を読めば、それがウソであることが分かる。現地住民に告発され戦犯として処刑された者も少なくないのである(チモールのクーパンで処刑された者だけで6名だという)。そして、このような事実はいたるところにある。日本の空幕長が嘘つきであることが情けないし、恐ろしい。
「チモールー知られざる虐殺の島」(彩流社)の著者は(田中淳夫)そのあとがきに書いている。『……だから私の旅は、チモールを自分の膚にする過程だったということもできる。実際にインドネシアとチモールの土を踏み、そこに住む人々と交わり、さらに日本とチモールの歴史を追いかけることによって、遠い南の島を身近なものにする──「痛み」を知るための旅だったのだ。今、旅の道程をふり返ってみると、少しは「日本とチモール」の姿がみえてきたような気がする。そして「痛み」ととみに、「責任」も浮かび上がってくるのを感じた。』と。同書は知る人の少ないチモールに実際に足を踏み入れての貴重な調査報告書であり、歴史書であると思う。同書の中の「Ⅱ 旧日本軍の足跡」の中から、何カ所か抜粋する。
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慰安所と反日チモール人
一般の兵士にとって、休日の最大の楽しみは慰安所だった。
慰安所と慰安婦──ようするに軍が赤線を経営したわけであるが(形式的には御用商人の経営である)、まさに他国に類を見ない制度である。これは日本陸軍に部隊を常に後方と交代させる余力がないことが生み出した醜部といってよい。後方にあるべき歓楽地のエッセンスだけを前線まで持っていったのだ。
チモールにも慰安所は開設された。
公式記録には「朝鮮人50人」とされているが、実際にはジャワ島あたりからどんどん渡っていた。ジャワやマライ半島の軍人が減るにつれて、女たちも最前線へと向かったのだ。(ガダルカナル島へさえ行こうとした記録がある。)
人種的には、日本人慰安婦(沖縄の女性が多かった)は高級将校用となり、朝鮮人やインドネシア人などが一般兵士用だった。
100人足らずの慰安婦に2万人が群がった。とうてい足りないため、チモール人からも集めた。といっても希望する者などまずいないから、酋長に供出を頼む。さすがの親日チモール人も喜んで出したわけではないだろう。
しかも、集めた女たちを軍医が検査するとほとんどが病気だった。100命中2名しか合格しないありさまである。
岩村中尉(1944年5月昇官)が命令によりバギアに慰安所を開設することになった時は、付近の住民の女は全員失格だった。そこであちこちから中国人やインドネシア人の女が集められたが、その中にキサル島の女たちもいた。キサル島とはチモール島東端の少し北にある小島である。
この島に討伐にいった小原正大中尉が、ある村の男を皆殺しにし、女たちを連れてきたのだという。〔注・このキサル島討伐については確認がとれていない……〕
慰安所だけでなく、チモール人における強姦事件もところどころで起こっている。
このような日本軍の軍政に対して、立ち上がったチモール人も多くいた。……(以下略)
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道路師団長というニックネーム
第48師団が機械化師団であることは先にふれた。500輛近い車両を持っており馬は司令部用にわずかにいるだけだった。
もっとも、内実は、装甲車や砲車の牽引車以外は徴発したフォードやニッサンの中古とらっくであり、いささか現代の機械化部隊のイメージとはちがう。
ともあれ、2万名の兵力が台湾に近い面積の島に散っているのだから、もし敵の反攻があれば、すぐに上陸地点に部隊を大移動しなければならない。そのような機動力こそ、機械化師団のお家芸なのだ。
ところが、チモールには道路がなかった。西チモールではくーパンから内陸の高原を抜けてアタンブア、そして、海岸のアタンププまで。東チモールではディリから北岸をバウカウ、らが、ラウテンまでのびているのが一応の幹線で、他は道とは名ばかりの踏み分け跡だった。特に南北に縦貫している道がなかった。
そこで島の一週道路と南北を連絡する6本の自動車道路の建設が計画された。この決定を下した土橋勇逸師団長はこのため道路師団長というニックネームがつくのだが、それほど師団あげての道路工事であった。
工事の始まったのは、1943年の後半と思われるが、決して楽な作業ではない。雨期と乾期に分かれる気候は自然を激変させた。雨が降れば道は川になり、橋は流される。東チモールだけで延長8キロにおよぶ架橋が行われ道路延長は1000キロに届こうという代物である。
当然、資材も労働力も軍だけでは足りず、現地住民が動員された。馬や木材も現地調達である。
これらは強制的に割り当てられ、作業中は監視がついた。食料は一応軍で手当するようにしていたが、その量が極端に少なかったり、不足したりすると自前になった。
チモール人の主食はジャゴンと呼ばれるトウモロコシである。一本が日本で普通に見られるものの半分もなく、粒も小さい。それを1日に5本か6本の割り当てでは足りるはずなかった。しかも強制動員だから、勝手に村へ帰ることもできず飢える者が続出した。
チモール人は、見かけによらず体力はない。もともと収穫の端境期になるとあばら骨が浮き出るような状態の生活だったから、重労働は向いていないのだ。力も、日本人あら片手で持つような石をようやく一つ持つありさまだったという。
いやがる者を、宣撫物資をわたしなだめているうちはよかったが、とうとう餓死者を出すまでに至った。
岩村中尉が大隊副官に任ぜられ、バギアからアリアンバタまでの25キロの道路建設を命じられた時は、6000名のチモール人を動員した。
・・・
時はもう1944年も押しせまっており、食料事情も、極端にわるかった。動員した6000人には宣撫物資どころか軍票さえ支払われなかった。すでに軍票の流通は維持できなかったのである。しかも食料は自前であった。
「何度も酋長が来て飢えて死ぬ者が続出していると訴えていた。だが、どうしようもない。完成まで3、4ヶ月かかったが、毎日そんな調子だった」
・・・
建設されたのは道路だけではなかった。陣地構築にもまた膨大な手間と人手をとられた。普通の陣地では爆撃にやられるから、その多くが地下にもぐったのだ。
特にラウテンの飛行場陣地には、延べ数キロのおよぶ洞窟陣地がつくられた他司令部のあったクーパンにも複郭陣地構築が突貫工事で行われた。地下に野戦病院から発電施設、武器弾薬食料集積所までつくられたのだ。また後には司令部の移されたディリ郊外のチバル──日本軍は千早城と呼んだ──にも最後の拠点陣地が築かれている。
そしてこれらの工事にも多くのチモール人が動員されたのはいうまでもない。
だが、いずれも食料の不足で作業力は半分以下に低下する中での工事だった。また材料もないため、教会まで壊してその資材を利用するありさまだった。
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二万人の島流し
・・・
飢餓は、日本軍の中だけで起こったわけではない。
もともと自然採集に頼るところの多かったチモール人社会に、壮青年男子が2万人もやってきて、やがて補給が途絶えたのだ。
最初は気前よく宣撫物資をばらまいていた軍も、時とともに苛烈な収奪者と変わってきた。
あちらこちらので略奪事件が起きた。チモール人の畑や家畜が荒らされ、供出を命ぜられた。かれらのヤシの実やサゴヤシ、バナナ、トウモロコシなどが対価なく奪われた。
さらに野生の動物も全滅状態まで狩り尽くされた。猿まで獲って食われた。家畜と野生の区別が判然としないチモール人にとってはこれも大変な痛手だったろう。
他、道路や陣地構築に動員された多くのチモール人が飢餓に陥った。
チモール島の2万人は、戦線から取り残され、巨大な島流しになったも同然だった。戦況の悪化は誰の目にも明らかで、これまで恭順の意を表していたチモール人にも変化が見え出した。野盗団さえ出没した。島は動き出したのだ。
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えたり、読点を省略または追加したりしています。また旧字体は新字体に変えています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・
」や「……」は、文の省略を示します。
「チモールー知られざる虐殺の島」(彩流社)の著者は(田中淳夫)そのあとがきに書いている。『……だから私の旅は、チモールを自分の膚にする過程だったということもできる。実際にインドネシアとチモールの土を踏み、そこに住む人々と交わり、さらに日本とチモールの歴史を追いかけることによって、遠い南の島を身近なものにする──「痛み」を知るための旅だったのだ。今、旅の道程をふり返ってみると、少しは「日本とチモール」の姿がみえてきたような気がする。そして「痛み」ととみに、「責任」も浮かび上がってくるのを感じた。』と。同書は知る人の少ないチモールに実際に足を踏み入れての貴重な調査報告書であり、歴史書であると思う。同書の中の「Ⅱ 旧日本軍の足跡」の中から、何カ所か抜粋する。
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慰安所と反日チモール人
一般の兵士にとって、休日の最大の楽しみは慰安所だった。
慰安所と慰安婦──ようするに軍が赤線を経営したわけであるが(形式的には御用商人の経営である)、まさに他国に類を見ない制度である。これは日本陸軍に部隊を常に後方と交代させる余力がないことが生み出した醜部といってよい。後方にあるべき歓楽地のエッセンスだけを前線まで持っていったのだ。
チモールにも慰安所は開設された。
公式記録には「朝鮮人50人」とされているが、実際にはジャワ島あたりからどんどん渡っていた。ジャワやマライ半島の軍人が減るにつれて、女たちも最前線へと向かったのだ。(ガダルカナル島へさえ行こうとした記録がある。)
人種的には、日本人慰安婦(沖縄の女性が多かった)は高級将校用となり、朝鮮人やインドネシア人などが一般兵士用だった。
100人足らずの慰安婦に2万人が群がった。とうてい足りないため、チモール人からも集めた。といっても希望する者などまずいないから、酋長に供出を頼む。さすがの親日チモール人も喜んで出したわけではないだろう。
しかも、集めた女たちを軍医が検査するとほとんどが病気だった。100命中2名しか合格しないありさまである。
岩村中尉(1944年5月昇官)が命令によりバギアに慰安所を開設することになった時は、付近の住民の女は全員失格だった。そこであちこちから中国人やインドネシア人の女が集められたが、その中にキサル島の女たちもいた。キサル島とはチモール島東端の少し北にある小島である。
この島に討伐にいった小原正大中尉が、ある村の男を皆殺しにし、女たちを連れてきたのだという。〔注・このキサル島討伐については確認がとれていない……〕
慰安所だけでなく、チモール人における強姦事件もところどころで起こっている。
このような日本軍の軍政に対して、立ち上がったチモール人も多くいた。……(以下略)
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道路師団長というニックネーム
第48師団が機械化師団であることは先にふれた。500輛近い車両を持っており馬は司令部用にわずかにいるだけだった。
もっとも、内実は、装甲車や砲車の牽引車以外は徴発したフォードやニッサンの中古とらっくであり、いささか現代の機械化部隊のイメージとはちがう。
ともあれ、2万名の兵力が台湾に近い面積の島に散っているのだから、もし敵の反攻があれば、すぐに上陸地点に部隊を大移動しなければならない。そのような機動力こそ、機械化師団のお家芸なのだ。
ところが、チモールには道路がなかった。西チモールではくーパンから内陸の高原を抜けてアタンブア、そして、海岸のアタンププまで。東チモールではディリから北岸をバウカウ、らが、ラウテンまでのびているのが一応の幹線で、他は道とは名ばかりの踏み分け跡だった。特に南北に縦貫している道がなかった。
そこで島の一週道路と南北を連絡する6本の自動車道路の建設が計画された。この決定を下した土橋勇逸師団長はこのため道路師団長というニックネームがつくのだが、それほど師団あげての道路工事であった。
工事の始まったのは、1943年の後半と思われるが、決して楽な作業ではない。雨期と乾期に分かれる気候は自然を激変させた。雨が降れば道は川になり、橋は流される。東チモールだけで延長8キロにおよぶ架橋が行われ道路延長は1000キロに届こうという代物である。
当然、資材も労働力も軍だけでは足りず、現地住民が動員された。馬や木材も現地調達である。
これらは強制的に割り当てられ、作業中は監視がついた。食料は一応軍で手当するようにしていたが、その量が極端に少なかったり、不足したりすると自前になった。
チモール人の主食はジャゴンと呼ばれるトウモロコシである。一本が日本で普通に見られるものの半分もなく、粒も小さい。それを1日に5本か6本の割り当てでは足りるはずなかった。しかも強制動員だから、勝手に村へ帰ることもできず飢える者が続出した。
チモール人は、見かけによらず体力はない。もともと収穫の端境期になるとあばら骨が浮き出るような状態の生活だったから、重労働は向いていないのだ。力も、日本人あら片手で持つような石をようやく一つ持つありさまだったという。
いやがる者を、宣撫物資をわたしなだめているうちはよかったが、とうとう餓死者を出すまでに至った。
岩村中尉が大隊副官に任ぜられ、バギアからアリアンバタまでの25キロの道路建設を命じられた時は、6000名のチモール人を動員した。
・・・
時はもう1944年も押しせまっており、食料事情も、極端にわるかった。動員した6000人には宣撫物資どころか軍票さえ支払われなかった。すでに軍票の流通は維持できなかったのである。しかも食料は自前であった。
「何度も酋長が来て飢えて死ぬ者が続出していると訴えていた。だが、どうしようもない。完成まで3、4ヶ月かかったが、毎日そんな調子だった」
・・・
建設されたのは道路だけではなかった。陣地構築にもまた膨大な手間と人手をとられた。普通の陣地では爆撃にやられるから、その多くが地下にもぐったのだ。
特にラウテンの飛行場陣地には、延べ数キロのおよぶ洞窟陣地がつくられた他司令部のあったクーパンにも複郭陣地構築が突貫工事で行われた。地下に野戦病院から発電施設、武器弾薬食料集積所までつくられたのだ。また後には司令部の移されたディリ郊外のチバル──日本軍は千早城と呼んだ──にも最後の拠点陣地が築かれている。
そしてこれらの工事にも多くのチモール人が動員されたのはいうまでもない。
だが、いずれも食料の不足で作業力は半分以下に低下する中での工事だった。また材料もないため、教会まで壊してその資材を利用するありさまだった。
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二万人の島流し
・・・
飢餓は、日本軍の中だけで起こったわけではない。
もともと自然採集に頼るところの多かったチモール人社会に、壮青年男子が2万人もやってきて、やがて補給が途絶えたのだ。
最初は気前よく宣撫物資をばらまいていた軍も、時とともに苛烈な収奪者と変わってきた。
あちらこちらので略奪事件が起きた。チモール人の畑や家畜が荒らされ、供出を命ぜられた。かれらのヤシの実やサゴヤシ、バナナ、トウモロコシなどが対価なく奪われた。
さらに野生の動物も全滅状態まで狩り尽くされた。猿まで獲って食われた。家畜と野生の区別が判然としないチモール人にとってはこれも大変な痛手だったろう。
他、道路や陣地構築に動員された多くのチモール人が飢餓に陥った。
チモール島の2万人は、戦線から取り残され、巨大な島流しになったも同然だった。戦況の悪化は誰の目にも明らかで、これまで恭順の意を表していたチモール人にも変化が見え出した。野盗団さえ出没した。島は動き出したのだ。
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えたり、読点を省略または追加したりしています。また旧字体は新字体に変えています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・
」や「……」は、文の省略を示します。
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