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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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軍隊慰安所 元日本兵の証言 NO1

2019年08月13日 | 国際・政治

 日本はかつて、世界の平和を脅かす「軍国主義」の国として受け止められていたと思います。そして、今また日本はそうした非難を受ける国になろうとしているのではないかと心配です。

 先日、北方領土のロシア人住民と日本人の元島民らが相互に往来する「ビザなし交流」の日本側訪問団に同行した丸山議員が、「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」などと質問し、「戦争はすべきではない」と答えた団長に対し「戦争しないとどうしようもなくないですか」等と発言したことが報道されて驚いたのですが、それ以上に驚いたのが、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の展示に対し、大阪府の知事が、「愛知県知事は、自らの公権力を行使し、一方的に反日政治活動を後押し、慰安婦像の設置、天皇の写真をバーナーで焼き、踏みつける映像を展示。公共として責任問題にならない方がおかしいと思う」と発言し、少女像などの展示は「反日プロパガンダ」だと指摘したことです。この指摘からは、考え方や感じ方の違いを、事実に基づいて、話し合いによって乗り越えるという民主主義の精神が全く感じられません。

 また、河村名古屋市長の「日本人の心を踏みにじる」とか、松井大阪市長の「表現の自由とはいえ、たんなる誹謗中傷的な作品展示はふさわしくない。慰安婦はデマ」という発言も、丸山議員の戦争発言とそれほど変わらないものではないかと思います。「日本人の心を踏みにじる」とはどういうことでしょうか。「慰安婦はデマ」という言葉で、何を訴えようというのでしょうか。地方行政のトップが、こうした感情的な言葉で、国家の対立を煽るような発言をすることは、日本が、新たな戦争国家への道を進み始めていることを示しているのではないかと思います。

 国連人権委員会から二度にわたって勧告を受け、国際法律家委員会(ICJ)からも勧告を受けている日本軍「慰安婦」の問題を、一方的に完全否定するようなこうした言動は、丸山議員の戦争発言と変わらないのではないかと、私は思います。
 勧告を受け入れられないのであれば、堂々と国際社会に向かって、話し合いを要求し、その根拠を示して勧告の取り下げを訴えるのが筋ではないでしょうか。
 相手を理解しようとせず、また、相手に理解してもらおうとしないで、勢いや力で自分の思うことを実現しようとすることが、戦争への道につながるのだろうと、私は思っています。

 また、日本政府による韓国に対する輸出規制の問題も、相互理解を無視し、韓国の急所を突く力ずくの政策であると思います。そういう意味では、武力をともなわない戦争がすでに始まっているような気がします。 

 下記は、「性と侵略 [軍隊慰安所]84か所 元日本兵らの証言」「おしえてください!『慰安婦』情報電話」報告会集編集委員会(社会評論社)から抜粋したのですが、慰安所を利用した元日本兵の証言は、元慰安婦の証言が「嘘」ではないことを示していると思います。
 方言混じりの会話を、そのまま文章にしたようなので、少々分かりにくい部分もありますが、証言(1)のいやおうなしですわねえ」などという言葉が、望まない性行為を強要されていたことを明らかにしていると思います。また、「すべてが監視つきいうことで、相当窮屈なことは窮屈でしたやろなあ。それとまあ、第一、体がもちませんわ。もう、休みの日、ほとんど二十人近く相手にするんですからあね、ひとりが」という言葉や証言(39)のほんで、その着るもん、いらへんもん。慰安所っていうのは着るもんいらへんわけや。そうでしょ。あんまり、外歩くんとちがうから。みな、内らにおるのやから。みな、監視されてるんやからね。外へ出られへんもん。そうでしょ」という言葉が、慰安婦が奴隷的状態に置かれていたことを示していると思います。そして、それは国際法違反の戦争犯罪なのです。
 大阪府知事や大阪市長、名古屋市長には、戦時中の事実を直視し、冷静で建設的な対応をしてほしいと思います。

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 証言(1)
 場所…No5・偽満州国/勃利
 年代…1944~1945
 証言者…68歳/男/大阪府
 満州国第五軍隷下六〇六部隊
 兵技兵(代用衛生兵)/一等兵

● ─── 14、5名の韓国の慰安婦の人がひきあげて
 私あの、今の黒竜江省やと思いますけど、前の東安省の勃利(ボツリ)にね、軍隊で行きました。昭和19年の、だいたい暮でしたね。10月以降でしたねえ。それから、私が勃利におったのが、20年の3月ごろまでですからね。その間です。
 (部隊は?)満州の第五軍隷下。シンガポールの山下本部が、終わって満州へ引き揚げて来て。その隷下ですわ。部隊は六〇六部隊です。(階級は?)私は一等兵ですわ。歩兵ちゃいまっせ。技術兵やから。兵技兵。兵隊の兵に技術の技。(年齢は?)68歳、満で。
 あのね、黒竜江省のね、勃利というところですわ。駐屯地がそこでね。私の知っている範囲で、だいたい十四、五名の韓国の慰安婦の人がおられました。(全部韓国の方ですか?)はい。
(慰安婦の方の年齢は?)だいたい、はたち前後ですねえ。名前はおぼえてませんけどねえ。名前はもう、ほとんど日本名にかえておられましたからねえ。
 それと、日本人の慰安婦の方が五名ぐらいいてたですよね。韓国人と日本人のなにはもう、別のところなんですけどね(日本人の慰安所は?)勃利の町のなかにあって、建物が別で。慰安所はね。
 ほいでまあ、確かにあの、たいへんな、あの、状態であったことは事実ですね。ええ。
 私らはまああの、初年兵やったんでね。そういうなに、まああの、一期の検閲が終わった時にはあの、一、二回行きましたけどね。ちょうどあの、慰安所はね、映画館みたいにね、入口が木戸口になってますねん。そこであの、とにかくあの、お金、あの当時確か五円やったと思いますけどね。五円、あの、木戸口、映画館のなにみたいな所へ、出してね、切符をもらうわけですわ。切符をもらって奥へ入っていきますと、部屋がね、各部屋が十五、六ほどあったでしょうな。

● ─── 相当な疲労だったと思いますわ
 もうその十五、六も、正直言ってね、(慰安所が)そこだけですので、勃利には部隊がようけありましたんで、ひとつの部屋の前に、だいたい五、六人から七、八人並んでますねん。
 そいでもう、そんな状態で私も入ったんですけど。ほんとに、朝の九時になってから外出するわけですけど、昼前にはね、「もうすでに何人かなにした」言うてね。慰安婦の方もほんまに、ただもう。
 慰安婦の方に切符をわたすわけですわ。その切符をね、「今日はこんだけや」言うて、よう勘定しておられたんですけどね。
 そういうような状態で。ほんであの、ま、ほとんど、休むのが日曜日が主なんですけどね。そういうことで、ほんとにあの、あれだけの部隊の人間のなにをやっていくんですからね。相当な疲労だったと思いますわな。
 一日に何人くらい受け持たれるかということですか。まあ、そうですな。部隊の帰営まででしたら、だいたい二十人ぐらいするんじゃないですか。
 部隊は全部山のほうにあるんですから。であの、外出の時、約四キロ離れた町のほうへ行くわけですわ。そこで、中央に一か所、そういうなにがあってね。

● ─── 軍医が毎週検査に行くわけです
 (慰安所の経営は)軍隊になってます。なぜ私がそれを言うかいうたら、私は衛生知識もないのにね、「衛生兵が足らん」いうて、衛生兵にさせられましてん。「代用衛生兵になれ」いうてね。
 ほいであの、毎週、各部隊の軍医が衛生准尉将校一名とそれから衛生兵がついて、あのなに、慰安所へ検査に行くわけですわ。そういうなんで、ちょっと知ってましたんで。軍隊の経営なんです。
 それであの、日本人のなには、下士官の人とか将校連中でないと入れませんのでね。
 検査いうてもね、ほとんど軍医がさせるわけで、私らはもう、ただ軍医のかばん持って行ってるだけです。軍隊のなんで、検査してね。ほいでまあ、仮にあの、病気のある時はもう、それはできませんからな。そういう検査で。検査する時は私は部屋の中へ入られしませんねん。私はもう、表で軍医のかばん持ってね、待ってるだけで。
(慰安所の名前は?)ちょっとわかりませんなあ。
(五円は)現金です。それはもう、あの、満州の金ですわ。満州の貨幣で。日本の給料でもらうんですけど。向こうに換算して。向こうの給料一か月なんぼ、というあれで。   
 それとね、中国人のなにもあったんですけど、それはもう、ほとんど立ち入り禁止になってましたから。
 (韓国人慰安婦の服装は?)服はね、韓国人の服着てる人は少なかったです。ほとんどあの、日本の着物着たりね。はいからあの、日本で着るような服ね。韓国の服は、ほとんど着てはるのは見たことないですけどね。
 そやけど、韓国人やいうのは、知ってました。あの、なに、本人がやっぱり、言いますもん。それで、あそこはやっぱり、先輩から「あそこは全部朝鮮人のなにや」いうて、先輩から聞いてますからね。「日本人のやつはあるけど、おまえら兵隊さんには行かれへんで」いうことになってましたからね。

● ─── 「食事する間がない」と
 (慰安婦の人たちが話していたことは?)あのもう、話いうたってね。もう、ほとんどあきらめムードいうような形ですねえ。そんなような状態で。「兵隊さんも朝からもうこんだけよ」言うて、切符をね、勘定して見せてくれたりね。
 ほいで、衛生的にはほんとに、だめですよね。あの、きちっと洗浄する所もなし。ほとんど自分の部屋に、もうずうっと自分でなにして、洗浄するというような状態でね。もうほとんどもう、あの、「食事をする間がない」いうて、言うてましたわ。
 食事は、まあまあの、日本のまあ、白米いうとこまではいきませんけどね。なに、おかゆさんのようなものを食べてたり、ほとんどまあ、副食では、じゃがいもがほとんどですね。
 (検診の様子は?)このときはもう、軍医がかってに見られてね。ほいでまあ、あの、「これはいい」と。それで、名札が下がってますねんね、部屋の前に。女の子の名前がかかっていてて、ほいで、軍医が出てきて病気やったら名札を裏返しにしますねん。ほいだら赤になってますからね。そういうようななにで。ほいで、私らには、その状態はわかりません。軍医だけがね、チェックして、なにするだけです。
 もう、慰安婦の人はもう、とにかくあの、いやおうなしですわねえ、券を渡されたら。券を渡されたらいやおうなしで。うるさいのは外に待っている兵隊ですねん。「こら、いつまでなにしとんねん」とかね。ええ、だからもう慰安婦の人は、ほんまに券をわたされたらいやおうなしですね。もうしんどいからとかなんとかなしに。はい。
 そこはあの、民間の人らは入られしませんねん。軍隊の服着てるもんしか、入口でお金出して券もらうことは、民間の人は、ふつう一般の人は絶対行かせない。

● ─── 終戦後は難儀してるんじゃないですか
 (慰安婦の人の)終戦後はちょっとわかりませんねん。終戦後は、わたしら、シベリアへ連れていかれたんでね。だからもう、戦後どういうふうになったかいうのはね。ただあの、なに、慰安婦やなしに、満州開拓のね、戦災孤児ね、あれは私ら、よう知ってますけどね。それには遭遇したこと、何回もありますけどね。慰安婦の人はどういうふうになったか、戦後。私らは勃利を三月に移動して、終戦になったのは奉天ですのでね。
 おそらく、たいてい、あの、慰安婦の人、相当殺されたんじゃないかなあと、ただそれだけですわ。私らもう、三月以降わかりませんでねえ。在満の人が殺された以上に、やっぱり慰安婦の人は難儀してるんじゃないですか。ただあの、日本の人より、その時は、終戦の時は、韓国人やいうので、日本人よりはある程度被害も少なかったかもしれませんけどね。そういうのは、日本人とちがう、朝鮮人やいうのでいけばね。それはもう、わかりません。想像で。はっきりしたことはわかりません。

● ─── すべてが監視つき
 あとなに、日曜日以外ね、自分の買い物したり、町へ出る言うてましたけど。町へ出ても、それをなに、ある程度、監視つきですよってね。
 すべてが監視つきいうことで、相当窮屈なことは窮屈でしたやろなあ。それとまあ、第一、体がもちませんわ。もう、休みの日、ほとんど二十人近く相手にするんですからあね、ひとりが。
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証言(39)
 場所…No45・中国/南京付近の第一線
 年代…1940~1945
 証言者…72歳/男/三重県
     京都十五師団歩兵連隊
     階級不明
● ─── 第一線のどこへ行っても
 あのね、私は三重県に住む72歳の男です。昔ね、15年の12月に中支にわたって、いろいろと。(師団は)京都師団よ。三重県やから。十五師団。十六師団の予備のね。戦争があると、予備の師団ができるわけ。みな京都部隊団、本部は京都。そのね、連隊でもいろいろあるわけ。歩兵部隊やからね。我々は、第一線の戦闘部隊やからね。その生き残りだからね。そういう人間が、ようけおらんのやからね。んでねえ、亡き戦友の慰霊祭、また供養を、年に何回か、夏やってるわけ。
 慰安婦の問題やね? 我々は南京近くにおったけれども、第一線のどこへ行っても、慰安婦というのはあるわけやねえ。
 でまあ、50~60人がいっぺんに、三、四人くらいの慰安婦がおるところに行って、順番待ちして、交替して、ずうーっと慰安婦を買うわけやねえ。
 我々はだいたい第一線に行くと、日本人、韓国人、ねえ、中国人、そうでしょ。だいたい慰安婦いうたら、みなこれですわ。現地では。
 (料金は?)しれてるよ。しれてるわ。ねえ。我々、その時分、みなね。ま、中国におれば、中国では、その、軍票やね。日本の金で軍票というやつやなあ。これでいくわけ。
 これ、いっぺん行って、まあいうたら、その時分二十五円もらってる。二十五円もらっとって、だいたいまあ、二円五十銭か三円ぐらいやね。それくらいで、行けるわけ。そのかわり、たいへんよ。こっちも。たばこが六銭、七銭、その時分のことやからねえ。   
 二十五円。これがまあ、あの、中国における時分の軍票いうてね。向こうでは使える紙やね。(じゃ、日本へ帰ってきてからは、使えないお金だったんですか?)うん。
 そんなもんね。何十人も並んでね、順番待ち。ね。「早くすましてくれ」と。こういうことで、我々は、ま、慰安婦というものを相手に、いろいろやってきましたわな。
 (お金は直接本人に?)いやあ、本人に払うわけやない。親方がおるもん。 
 (親方というのは?)どういう人かっていうのは。もう、内地にでも、そういうね、慰安所というものがあったわけ。赤線区域ってね。そこの親方といっしょや。
 それで、この娘、その娘っていうわけや。だれそれさん、だれそれさんって言うて、その女性が出てくるわけ。んな、我々でも行ってると、顔なじみになってしまうわけ。

● ─── 第一線にどんどん送りこんでくる
 (場所は?)南京の近くやねえ。(地名はわかりますか?)なんぼでもあんのやから。
 それは、我々は、あっちこっち移動するからね。第一線でね、その南京を守ってんのやから。南京の周辺の、小さい、まあいうたら、町、やね。そういうとこへ駐屯するわけ。そういうところへ、みな、慰安婦をね、どんどん、どんどん、送りこんでくるわけ。他方からね。
 それで、その番小屋みたいなね、むしろ囲いをしたようなところで、そういうことをするわけ。そんなん、大きな家とつがうよ。もう、むしろで、むしろ、わかる? むしろで囲いして、そこで遊ぶようにしてあるわけ。まともに、トイレもあらへんよ。「そういうところで、第一線やからね。
 まあ、我々はそういうところで、慰安婦を買うてるわけ。
 そら、町、南京とかそういうとこ行けば、ふつうのちゃんとした慰安所っていうようになるわけやね。これはもう、憲兵がとりしまったりいろいろして。

● ─── 監視されてるんやからね
 (女性たちのことは、なんと呼んでいらっしゃいました?)ああ、それはね、慰安婦のことはね、我々は「朝鮮ピー」とかね。ま、あの、そうやね。だいたいまあ、私はもう、昔のことやから「朝鮮」「朝鮮」と言うわけやね。それで、「朝鮮ピー」と、こう言うわけ。中国では「ピー」って言われるね。
 日本人でも、第一線までみな来てんのは、これはもう慰安婦やからね。
 ま、だいたい韓国が多いわけ。とにかく、朝鮮が多いわけや。服装っていうのはね。今の民族衣装ってものはないわね。中国人は中国服ね。
 ほんで、その着るもん、いらへんもん。慰安所っていうのは着るもんいらへんわけや。そうでしょ。あんまり、外歩くんとちがうから。みな、内らにおるのやから。みな、監視されてるんやからね。外へ出られへんもん。そうでしょ。


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