「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)に取り上げられている下記のような証言を読めば、強制連行され、炭鉱で強制労働を強いられた朝鮮人労働者の死者の絶えない過酷な実態はもちろん、現場からの逃亡や見せしめのリンチがくり返され、報復があったことも分かります。
だから、日本政府が、きちんと資料の発掘や被害者に対する聞き取り調査を行い、誠意をもって対応することなく、1965年の「日韓請求権・経済協力協定」によって”完全かつ最終的に解決”などと簡単に言ってはいけない問題だと思います。
徴用工の問題は、単なる賃金未払いの問題ではないですし、経済協力で済む問題でもないと思います。被害者が納得していないのに、勝手に、”完全かつ最終的に解決”などと加害者側である日本政府が言い張ることは、おかしなことだと私は思います。
また、日本政府は、いわゆる韓国大法院(最高裁)の徴用工判決を「本件は1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。今般の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だ」と非難し、「日本政府としては毅然と対応する」と繰り返しましたが、個人の請求権が国家間の条約で消滅しないことは、かつて、原爆被害者やシベリア抑留者が日本政府に補償要求をしたときに、日本政府が主張したことであり、明らかに矛盾しています。
戦前・戦中、日本の植民地支配のもとで、軍や企業が行った強制連行や強制労働その他、数々の残忍かつ非人道的な行為に対し、戦後、日本政府はきちんと被害者に向き合っておらず、謝罪や補償も行っていないことを見逃すことができません。
日本側は、1965年の日韓基本条約締結にあたって、謝罪や補償という言葉を使うことなく、「日韓請求権・経済協力協定」で、”完全かつ最終的に解決”としています。だから、いまだに植民地扱いしているのではないかとさえ思えます。
最近、日韓関係の悪化をもたらした日本政府の主張がどこからくるのか、手掛かりをもとめて、「新しい国へ 美しい国へ 完成版」安倍晋三(文藝春秋)を読みました。そして、なぜこんな勝手な解釈をし、偏った見方をするのかと、とても苛立ちを感じました。
安倍首相は、日本の戦前・戦中の人権無視や人命軽視、違法行為やあやまちなどが全く見えなくなる色眼鏡をかけているのではないかと思われました。
だから、後日、特に受け入れ難い部分をまとめたいと思いました。
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第七章 無言の帰国
───三井鉱業所
元三井山野工業所漆生炭鉱坑内係
大牟田市在住 大坪金章
1 逃亡援助
(1) 差別
昭和13年11月9日、私は大牟田の三井三池炭鉱のガス爆発事故でCO患者となって、毎日苦しい闘病生活を続けています。
事故に遭うまでは、下請けの組夫(クミフ)なんか人間の数に入れてなかった。彼らと同じような境遇になって、はじめてその立場が理解できるようになった。私が三井鉱山から切り捨てられ、差別されてからというもの、戦時中の朝鮮人が受けた傷みが、同じであることをやっと知ったのです。それが分かるまで、長い時間がかかりました。
私が三井山野鉱業所漆生炭鉱の抗夫になったのは、昭和十四年の末でした。大牟田の三井染料工場の事務員をしていたが、あんまり安月給で食えないので、そこを止めて筑豊へやって来ました。
大東亜戦争の直前に召集を受けて、下関の砲兵連隊に入隊して、編成後、一週間して長崎へ行った。
そこから輸送船で奄美大島に渡り、実久(サネク)要塞の警備についた。負傷して一年で除隊、漆生炭鉱に戻って来ました。
先山(サキヤマ)抗夫が応召されて少なくなっていたので、採鉱保安助手として発破係をしました。
朝鮮人寮は、抗口の近くに三棟あって、管理は朝鮮人の指導員がして、徹底的に締め上げていました。その指導員はインテリで、労務係の機嫌を取りました。上には受けがよかったが、部下を虐待したので彼らの反発を買っていました。
最深部の大焼層の開発をしている時でした。
坑道を広げるためダイナマイトを使って、岩盤を削り取る仕事です。そこでは十五人の朝鮮人が働いていたが、ガスが異常発生しているところで酸欠状態になり、ちょっと体を動かすと息切れしました。ものをいう力もなく、私たちは黙々と穴刳(アナグ)りをしていました。発破をかける時に避難場所を決めるが、障害物がないため三人が逃げそこなった。岩石が坑道を一直線に走って、朝鮮人抗夫を直撃しました。これは自分の不注意で殺したと思った。それでも日本人でなくてよかった、三人が朝鮮人でホッとしたということでね。
三人は全身血だるまになって、のたうち回わとった。坑内詰所から担架を持って来て、急いで昇坑させたが、三井病院に着いた時にはもう脈がなかった。
真珠卸(シンジュオロ)しの三尺層は、炭層が特別に薄くて作業が困難でね。
最上部の曲片(カネカタ)払いの上が、発破のショックで落盤して車道が埋まった。
部下の朝鮮人に、
「早くボタを除けろ! 急ぐんだ」と命令した。
しかし、言葉が全然通じなかった。彼らも危険だということは、こっちの態度や言葉で分かるのよ。その時、炭車が音を立てて降りてきました。シャベルで十四、五杯はね出すと間に合うと思った。
炭車がその中に突っ込んで来たら、脱線転覆することは確実だった。それがどんな大事故を誘発するか分からない。
「早くボタを出せ!」
逃げようとする二人を掴えて、ボタを取り出せといった。一人は危険を察して素早く逃げた。そこへ炭車が来て脱線転覆してですな。そのはずみで、大きな音がして天井がバレて落盤しました。
土煙が濛々と舞い上がって、何が起こったか判断がつかない。とにかく大事故だということしか分からない。高さ三尺、長さ五尺の落盤でした。
私は坑内電話を握ると、事故の発生を知らせて応援を頼んだ。朝鮮人たちは、埋まった仲間の名前を呼びながらボタを取り除き始めました。
救助作業を始めてから約一時間半、埋まった抗夫が生きていることが確認された。倒れた抗木の下に大きな岩石があって、その隙間に体を挟んでいたので生命だけは助かった。
だが、脊髄骨折して半身不随のまま、鴨生の三井病院で治療した。もう再起の見通しもなく、一時補償金をもらって朝鮮へ送還されました。
後で考えて見ると、炭車が来る直前に避難させておれば、事故に遭わずに助かったのではないかと思うと悔やまれた。やはり朝鮮人のことよりも、炭車が脱線することのほうを重視したわけですね。もし、日本人の抗夫であればどうしたでしょうかね。私も誠意がないといえばない。よく注意しておけばこんなことにならなくてすんだ。
(2) ある相談
私の部下で金山という青年が、ある日、家に訪ねて来た。真面目な青年で、私は最も信用していた。
「先生、折いって相談があります」
そういうと、外のほうばかり気にして落ち着かなかった。
「この部屋には自分だけしかいないから、遠慮せんでいうてよか」
「先生、実は炭鉱というところは、もう一日も勤まりません。早く止めてしまいたい。朝鮮から無理に連れて来られて、残した両親のことが心配です。どうか逃がしてください」
と、片言の日本語でいった。金山は慶州の町で、友人と一緒に歩いている時に人狩りに遭って、トラックに放り込まれて強制連行されたとは以前に聞いたことがある。両親に会わないままだから、一度だけ帰りたいと私に訴えてね。
「帰れないのなら寮から脱走します」
と、思い詰めた表情でした。
私は坑内事故で何人もの朝鮮人を死なしているので、内心どうしても負い目がありました。
その頃、四国の愛媛県から勤労報国隊として来ていた一人に事情を話して、金山の逃亡に協力してくれるように頼んだ。勤労報国隊の二ヶ月の勤めが終って四国に帰ると、まもなく四、五人なら引き受けると連絡がありました。一端、炭鉱から脱走して、それから朝鮮へ帰ればいいと私は考えた。私は喜んでそのことを金山に伝えた。
金山は同室の仲のいい青年たちと相談して、五人一緒に逃亡することを決めた。私も彼らの逃亡を成功させるために、四国の松山まで送って行こうと思ってね。
逃亡の際、寮から荷物を持ち出せないので、入坑の度に少しずつ私の家に持って帰って隠した。
大出し日翌朝、昇抗して風呂に入っている時、体を洗いながら五人は密談していた。
坑内の指導員の一人が、隣で体を洗っているのに彼らは気がつかなかった。
「おい、お前たちは、何か悪いことを相談しとるのじゃないか。風呂から上がったら、ちょっと労務まで来い!」
労務へ連れていかれた五人は、そこで徹底的にしごかれたのです。そのうちの一人が、遂に逃亡のことを白状してしまった。労務から特高へ報告され、さらに憲兵隊へ取り調べが進むにつれて私の名前が上がった。
私の部屋も家宅捜査されて、五人の荷物が発見された。私が金山たちから金を受け取って、逃亡を斡旋したということにされてしまった。当時の炭鉱では逃亡援助とか抗夫斡旋は、最も罪が重いことだった。
そうした事件を全く知らない私は、午後三時、交代勤務で昇抗して来ると、抗口に労務係と憲兵が待っていた。
「おい、大坪。ちょっと憲兵隊の詰所まで来い!」
憲兵隊の詰所まで行くと、年配の上津原労務主任が、腕組みしてきびしい顔で私をにらみつけた。
部屋の隅には、金山たち五人の朝鮮人が、全員血まみれでうずくまっていた。その異様な光景に接して、私はそこで何が行われていたのか察しがついた。四国への脱走計画がバレたことをはじめて知った。
巡査が来て手錠をかけて体中を紐でがんじがらめに縛って、今度は労務事務所へ連れられて行った。そして柱にくくられて動けなくなった。手錠というものは面白いもので、外そうともがけばもがくほど一層強く締まって、金属が両手の肉に食い込んで血がにじんで来る。
それから見せしめのためだろうか、朝鮮人のいる東寮に移された。そこで憲兵、巡査、労務は二十四時間というもの、交代で私を殴りつけた。
「貴様は何という大それたことをするのか。この非常時に国賊だ! 今までに半島を何回逃がしたのか!」
上津原労務主任が怒鳴った。その後で、朝鮮人の労務が青竹を持って来ると先を割って広げ、水を漬けると私の背中を殴りつけた。
日本人労務からやられる時は仕方がないと耐えとったが、朝鮮人の労務から殴られると口惜しくて涙が出てね。それはもうなぶり殺しですたい。
一日中ひっきりなしに叩かれると、このまま死んでもいいような気持ちになる。痛いと感じる時はまだ意識がある時で、最後には何もかも分からなくなる。
戦地で負傷して、まだ完全によくなっていない足腰を叩くので、悲鳴を上げて転げ回った。
今までの労務のリンチと言えば、やられるのは朝鮮人ばかりだった。今度は逃亡をそそのかした日本人だというので、そのリンチたるや想像を絶する激しさだった。窓を開け放して、彼らにこれ見よがしにみせしめをした。
何度も失神して倒れると、頭を掴んで起こして青竹を取り替えた。
(3) 転がったパン
二日目、叩き疲れた労務が居眠りを始めると、寮の朝鮮人抗夫の一人が、自分たちに配給されたパンを、こっそり転がしてくれた。
それでやっと意識が戻った。素早く足でパンを寄せると、殴られて敗れた口の中に押し込んだ。
何か食べてさえおれば、体力がつくに違いないと思った。
体は失禁状態で、たれかぶって(もらして)汚れていた。
窓からはいくつもの目がのぞいて、私のことを心配そうに見ていた。
私は死んでも四国の勤労報国隊の人のことは、自白しないぞと心に決めた。どんな迷惑がかかるか分からない。自分が五人の朝鮮人から品物を取って、逃亡させるつもりだったことにしておけば、自分の責任ですませる。
憲兵の長靴の尖った先で腹部を蹴られると、息が止まりそうになった。
私は最後の力を振り絞って、
「俺を殺してくれ。俺は戦争で名誉の負傷をした男だ。もう、一度死んだ体だ。どうでも勝手にしろ!」
と叫んだ。憲兵が傷痍軍人を足蹴りにして、殴りつけたとなると笑い者だった。途端に憲兵は蹴るのを止めて出て行った。夜が明ける頃には、一人去り二人去りして、最後に残った労務がバツの悪そうな顔をして近寄って来た。
「大坪さん、悪う思いなんな。これも半島に対するみせしめのためにやったんやけな。あんたが傷痍軍人ち早ういいさえすりや、こんなことにならんのに……」
私はそれを聞いて芯から腹が立って来た。
「よし、貴様たちが傷痍軍人に対して、こんな乱暴をするとはけしからん。このまま死んでやるからな」
すると労務は、頭を地面にすりつけて謝った。それから私の足の紐を解いて、急いで手錠を外した。
「あの五人はどうしたとか?」
「はい、飯塚署の特高が連れて行ったきり帰ってきません」
私はそのまま五、六時間、転がったまま動けなかった。
私は金山たちに同情したまでのことで、決して悪意でやったことではないですばい。ただ歩いているところを捕まえられて、両親にも会えずに強制連行されたと聞いて、止むに止まれずに助けた。私を叩いた朝鮮人の労務は、報復を恐れてそれからすぐ姿を消していた。その翌日、私は不都合解雇をいい渡されて、漆生炭鉱から追放されました。
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