yukarikoの好きなもの
旅の写真や思い出
PCでの雑感を並べました。
 



TOPと下のアニメ画像は安満山の満開の桜の下にある沢山のお墓!
ここに来るといつも西行法師の有名な歌を思い出します。

「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」

自分の歌った歌の通り、お釈迦様の涅槃の頃に亡くなった西行程ではなくても
整然と並ぶ終の棲家のお墓の上に満開の桜!どの花よりぴったりな気がして。

我が家のお墓は昔の安満村墓地、高速道路の傍、北高の横にあります。
入口の六地蔵さんの上や古いお堂の傍の古木を初め沢山の桜にうっとりします。
すでに散り初めていたので今回画像はありません。
なにぶん広い場所なので画像もちょっと大きめです。(700*525×4枚)



大阪南部葛城山のふもと、広川寺にある西行法師のお墓(古墳)の周りには
その西行を慕い、西行の墓を発見した江戸時代中期の歌僧似雲が墓の周りに
桜の木を植え、西行堂を建てて、傍に自分の庵を建て暮したそうですが、
西行を慕う人達や広川寺の二代のご住職が近年山中に千本の桜を植えられ
「西行桜山周遊路」として整備されています。

…下の紫色の文字は2008.4.13に広川寺を訪ねた時の記事です。

この時はもう桜が散っていたし、山歩きの出来ない姑を待たせていたので
広川寺から山中に分け入った場所にある、西行のお墓を見ただけで帰りました。
それで今年こそもう一度行こうねと春前に主人と話していましたが天候不順で
満開の時期がはっきりせず、いい時に桜山周遊路を巡る事が叶いませんでした。

以前は西行の生きた時代を知らず、歌を聞いても『なるほどぴったり』(笑)
でしたがこの二年sakuraさまのブログ「平家物語・義経伝説の史跡を巡る」
西行自身も関わりのあった院・貴族・武士達がもがいて生きる様を読んで、
その波乱万丈の世を世捨て人として生きた彼に対する気持ちを新たにしました。

院政といくさの激動の時代を出家として歌を読みつつ漂泊の人生を送った
西行が崇徳院のお墓に詣でた話なども読ませて貰ったせいでかそれ以前より
生きた人間として感じられて…。

二年前はタグで画像を動かしましたが、目も悪くなり今は根気も続きません。
桜を撮ったら山里の春を他のやり方で編集し直してHPの大阪編にUPしようと
思っていましたが、満開の桜の写真は当分無理になり、墓地公園の桜を見て
彼の歌を思い出し、桜繋がりで記事を載せました。


※西行法師は1118年田仲の庄(現和歌山県那賀郡打田町)で武家の家に生まれ、
佐藤義清(のりきよ)という。
18歳のときに宮中に北面の武士として平清盛らと同じ鳥羽天皇の警護の職に就くが
1140年23歳の時無常を感じて出家する。
高野山、晩年には伊勢を本拠として諸国を行脚遍歴し、その足跡は東は陸奥から
西は中国、四国に及んでいる。
 最晩年の1189年弘川寺に来住。翌年1190年2月16日、桜の花の盛りの満月の夜、
弟子慈円らに看取られて、ここ弘川寺で73歳の生涯を閉じた。
述懐歌にすぐれ、新古今集には94首と最多歌数が採録されている。
家集に『山家集』『聞書集』『残集』『山家心中集』など。
…「ウイキペディア」より抜粋



西行法師が桜に囲まれて入寂された終焉の地「弘川寺」を
姑と主人の三人で訪ねました。

ここは大阪の南・富田林から金剛バスで40分、葛城山麓の静かな山里。
弘川寺は天智天皇の頃、役行者に開創された由緒ある古刹。
戦火で伽藍は焼失してもご本尊を始め貴重な寺宝は保存され、
近年二代のご住職の丹精で広い寺域、奥山も整えられています。


※画像下のサムネイルにマウスを置いてもらうと場所の説明が出ます。

弘川寺十ニ景
 < <弘川寺・山里の春 <桜山遊歩道の枝垂桜 <弘川寺本坊入口・奥が本堂 <隅屋桜を前景に弘川寺本堂 <元の隅屋桜は枯れ、後継の枝垂れ桜が境内を彩ります。 <天然記念物の海棠は樹齢350年華やかな色です。 <西行記念館前の桜の古木は葉桜、花びらが風に舞います。 <本堂脇を少し登ると西行堂・横手から本坊の桜が下に <似雲が見つけた西行の墳墓・周りは桜の広場です。 <本坊の客殿・春秋の風景写真が展示されています。 <桜が終わる頃花桃が満開! <もうあちこちに霧島ツツジが…! <

西行を慕う似雲法師を始め多くの西行ファンに寄贈された沢山の桜は
既に盛りを過ぎ、境内から墳墓や花の庵(似雲の庵)のある
裏山まではらはらとそこかしこに舞っていました。

でも天然記念物の「海棠」や「花桃」、「菜の花」「八重桜」「つつじ」と
山一面に萌える若緑の木々、あたりは「山里の春」真っ盛りでした。


弘川寺境内案内図



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