
グループワークの時間は終わり、座学の講義が始まった。
プリントを手にしながら教授は授業を進める。
「それでは、以前一度説明した衛生要因を‥え~赤山‥」

教授は質問の回答者に雪を指名しようとした。
雪は顔を上げ居住まいを正す。

しかし教授が雪の名を指名し終わる前に、清水香織が唐突に手を上げ口を開いた。
「私が答えます!」

雪を始め、教室中の視線が香織に集まった。
教授さえも驚いていたが、彼は香織に対して覇気がある学生だと言って好意的だ。
「作業環境、上司や同僚との人間関係、政策と管理などです!」

香織は教科書に載っている文句を読み上げるように発表したが、教授はその答えに小首を傾げた。
「あ~‥その要因の内容ではなく、それが及ぼす影響を尋ねたのだが..」

教授は言葉を濁しながらも、最終的には「よく回答した」と香織に労いの言葉を掛けた。
香織は質問の意図を汲み取れなかったことなど気にも留めず、ニコニコと笑顔で威勢のよい返事をした。

雪はそんな香織に、げんなりとした表情で視線を送った。
結局雪本人には質問が回ってくること無く、授業は進んでいく。

胸の中に黒い靄が立ち込めていく。
それはささくれだった心の細部にまで、じわじわと沁み込んでいく‥。

香織はノートを取り黒板を見る度に、雪に視線を送った。
彼女は授業に集中していたが、時たま疲れたように手を首に掛ける。

香織は常に彼女を模倣した。
彼女の服を真似し、髪型を真似し、ポーズを真似た。

そして香織は次のステージへと駒を進める。彼女にとっての次のステージとは、凌駕だった。
彼女の脳裏に、今まで真似ていた雪を越えていく自分の姿が浮かぶ。

人前で堂々と流暢に発表をする香織と、そんな自分を見て俯く雪。
教授は拍手で香織を褒め称え、彼女のグループは一等を獲得する。すごすごとその場を後にする雪。

香織ちゃん香織ちゃんと、同期達は自分を慕って周りに集まり始める。
香織は堂々とした表情で、彼女達の好意に応える。

リュックの持ち手を握りしめながら、何度も目にした雪の姿。その笑顔。
それが全て自分の物になる。いや、それを越えていく‥。


へへへ‥と香織は笑いながら、その妄想を楽しんでいた。
暫し高揚に浸っていた香織であったが、ふととあることに思い至り顔を上げる。

目の前に、じっと授業を聞く青田先輩の姿があった。
端正なその横顔で、時折顎の辺りに手を置きながら。

そして彼は同科の先輩であると同時に、雪の彼氏であるということを香織は意識した。
彼氏か‥

それは青田淳がどうこう、という話ではなかった。
香織は自分が持っていない”彼氏”というアイテムが、気になってしょうがないのだ。

先日雪と言い争いになった時も、最終的に自分に軍配が上がった。
グルワの発表だって、雪よりも自分の方が上手くやるはずだ。そう考えると、今自分に足りないのは”彼氏”だけ‥。
香織はギリリと爪を噛みながら、じっと雪の後ろ姿を見つめた。

先ほど教室にて、雪を問い詰めようとした時の記憶が蘇る。
間に入って来たのは、香織が持ち得ない雪の”彼氏”‥。

歯に力を込めると、爪はガリッという音と共に細かく砕けた。
ズルい‥

いびつな形をした爪。
香織は尚もそれを齧りながら、雪の後ろ姿を睨めつけた。
卑怯よ‥男の後ろに隠れて‥

香織の心の声は、特に外に漏れ出てはいなかった。
いなかったが、まるでそれが聞こえているかのように、目の前の彼はこちらを見ていた。

それは彼がいつも見せる、あの優しそうな眼差しとは全く違っていた。
心の奥底まで見透かすような、何かを観察するような、無機質な二つの瞳。

香織はその眼差しに射竦められるように、その場から動けなかった。
暗い空間が彼女の周りを支配する。まるで時が止まってしまったかのように。

周りの人達は誰も、香織の方など見てはいなかった。
彼だけが目だけを動かして、香織の方を凝視しているのだ。

香織は冷たい汗をダラダラと流しながら、尚も自分に視線を送る彼を前に心の中で叫んだ。
??な‥何?!何でこんなにガン見してくるの?!わ、私何かした?!

そう心の中で叫んでみても、依然として彼は自分を見ていた。香織はその理由を必死で考える。
独り言聞こえちゃった?変な子だと思われた?ううん、そんなハズ‥口には出さなかったもの‥。

何度考えてみても、こんな風にじっと見られる理由が思い浮かばなかった。
蛇に睨まれた蛙のように暫し身動きも出来なかった香織だが、次の瞬間淳が動いた。

聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、彼は笑った。
そして意味有り気な表情で香織に視線を落とし、向こうを向いた。

香織は何が何やら分からず、顔を赤くして動揺した。
そしてようやく、淳が自分を見ていた理由が一つ思い浮かぶ。
あ!また爪噛んで‥!それで見てたのね!

香織はその理由を、自身の爪を噛む癖を見咎めてのものだったと結論付けた。
いけないいけない‥

理由が分かって自分なりに納得した香織は、照れたように笑いながら自己の癖を反省した。
そしてそんな些細な出来事を、ふと目にした人物が居た。

雪だった。
小さな小さな刺が刺さるような、ほんの僅かな引っ掛かり。
意識の外側で雪はそれを感じてはいたが、そのまま彼女は再び前を向いた。

授業は進み、時間は過ぎて行く。
しかし目にした淳の奇妙な笑みだけは、記憶の片隅にこびりついたままだった‥。
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<いびつな爪>でした。
教授に質問され、早合点して答えるもその答えは少し違っている。そして間違えたことには思い及ばず、
回答した自分を自分で褒め称える‥。
なんだか清水香織という人間の縮図ですよね。
物事の本質を見ず自分の思想の中だけで生きている、というか。
次回は<彼女だけが見ている>です。
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