
青田淳は実家にて、ソファに腰を落ち着けていた。
といってもゆっくりしているわけではない。すぐに出勤せねばならないのだ。

先ほど雪に電話を掛けてみたが、繋がらなかった。伝えたいことがあったのだ。
淳はメールフォルダを開き、新規メッセージを作成し始める。
雪ちゃん、ごめん

まずそう打ったが、何か違う気がした。
淳は自分の気持ちと沿う言葉を探して、暫し考えあぐねる。

雪ちゃん、どうしても明日は‥
雪ちゃん、本当に悪いけど‥

打っては消し、考えあぐねてまた打って‥。
「‥‥‥‥」

淳は何度も文章を修正しながら、最終的に文面を完成させた。
雪ちゃん 本当に申し訳無いんだけど、次の約束会えないみたいだ。
急なミーティングが入って‥ごめん‥

送信ボタンを押してから、予定表を確認する。
10:00 雪 10:00 知人集まり

同じ時刻に、雪との約束と仕事がかち合っていた。
不本意ながら彼に選択権は無く、仕事を優先せざるを得ない。

淳は携帯を机の上に置くと、深く息を吐いてソファに凭れ掛かった。
出勤前だというのに、既に疲れを感じている。

雪との約束が反故になったことは、自分の都合とはいえ彼にとっても残念なことだった。
今や雪との時間は自分にとって大切な癒しの時であり、彼自身も楽しみにしていたのだ‥。

そのまま深くソファの背に凭れ、目を瞑って休んでいた淳の耳に、コンコン、とノックの音が聞こえる。
「淳、まだ行かないのか?遅刻するなよ」

部屋に入って来たのは父だった。
淳はソファから身を起こし、「行きます」と言って立ち上がる。

父も家を出るところだったので、親子は共に出勤することにした。淳は暫し外出の為の支度をする。
スーツに身を包んだ息子を見る父は、満足そうに微笑んでいた。もうすっかり一人前だ。

しかし携帯電話に目を落とす淳を見た父は、ふと息子の横顔に影が落ちたのを感じた。
父はそれを見て、何か哀しいものを感じ取る。


ふと、父は息子に声を掛けた。
「‥疲れただろう」

淳は父の言葉に、暫しそのままの表情で向かい合っていた。

そして頭の後ろに手をやりながら、正直な気持ちを口にする。
「はい‥まぁ‥そうですね」

素直な息子を前にして、父は大きな口を開けて笑った。
会社は大変です、と言って淳も微笑んだ。首になりたいくらい、と冗談も口にしながら。

そのまま暫し親子は会話を続けた。
「実際経験してみると、社会に出るというのは大変だろう?
学生の時より、関わらなければならない人間も遥かに多い」
「はい、若干」

そして淳は、スーツの身なりを直しながら淡々と言葉を続けた。
「どうしても、慣れるまでは時間が必要ですから」

まるで悟ったような、諦めたような、そんな息子の言葉を聞いた父は、暫し沈黙して彼を眺めた。
社会人として新たな一歩を踏み出した彼に、話しておきたい話があった。

父はゆっくりとした口調で、淳に向かって口を開いた。
「‥私が仕事を始めてから何が一番大変だったかを、話したことがあったかな?」

淳が聞き返すと、父は目を伏せ、語り始めた。
「私が社会生活を送る上で最も大変だったことは‥、
自分自身が”世界の中心ではない”ということを悟る過程だったよ」

淳は微笑みながら、父のその言葉を聞いた。
父は淳と向かい合いながら、思い出すように遠い目をして過去を振り返る。
「当然自分は他の人々より優秀だと思っていたのに、実際社会に出てみると私より優秀で恐ろしい人間がわんさといたよ。
上に上がるほどそのような人間だけが残るのだから、更に事態は深刻だ」

若き日の、青田青年の挫折。
高層階にて無数のビルの明かりを眺めながら、自分はその中の明かりの一つでしかないということを悟った時、愕然とした。
今までは、それら全てを手にしていると思っていたのに‥。

父は淳を真っ直ぐ見つめながら、語りかけるように言葉を紡ぐ。
「全てのものが私の意のままに、自分の考え通り物事が進むという信念は完全に崩れた。
これは自信を持って物事に臨むということとは、全く別の問題だ。
お前もこの頃、それを顕著に感じているんじゃないか?」

それを受けての、先ほどの沈んだ横顔があったのだと父は思っていた。
積み上げた砂の城が崩落する前の、昔の感覚を父は思い出している。

淳は暫し薄く微笑んだまま父を見つめていたが、やがて困ったような笑顔を浮かべてこう言った。
「さぁ‥どうでしょうか」

その返事を聞いて、父は幾分哀しそうな表情で微笑んだ。
おそらく息子は、まだ社会人として何も知らない子供なのだ‥。

そして父は強い眼差しで息子を見つめ、一つ訓戒を垂れた。
父親として、そして社会に出て数々の経験を積んだ、一先輩として。
「もう受け入れなければいけない。大人なのだから」

「世の中全てが、お前の意のままになる訳ではないということを」

そして父と息子は向かい合った。
特殊な環境で育って来た彼等は、同じものを抱えて向き合っている。

父は、戒めとしての言葉を息子に伝えた。
やがて淳が味わうであろう挫折の局面で、自分が昔悟ったその言葉を。

二人は暫し向かい合ったまま、互いに笑顔を湛えた。
そしてやがて父は目を伏せると、乗り越えてきた歴史を思い、ふっと息を吐く。

父は腕時計に目を落とすと、部屋の出入口へと向かった。
「さあ、早く行こう。本当に遅れてしまう」

淳は去って行く父の背中が部屋の外に消えるまで、微笑みを湛えた表情で立ち止まっていた。
たった今聞いた父の言葉が、鼓膜の奥で反響する。

”もう受け入れなければいけない”

そこに居るのは、一人の少年だった。
満たされないまま大人になることを強要され続けた、とても哀れな。

淳は暫しその場で立ち尽くしていた。
父からの訓戒には同意しかねていたが、会社に行けば疲れるのは分かっていたが、
出勤時間はもうそこまで迫っている。
時間は彼の気持ちとはお構いなしに、無常にも流れ続けている。
淳は時計に目を落とすと、駆け足で部屋の外へと出て行った。
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<父の訓戒>でした。
今回は何度もメールを打ち直す先輩が良いですね!
今までのそっけないメールの数々にも、結構手間がかかってたんでしょうか。
そして淳の父、眼鏡はどうしたんでしょうね。眼鏡あるなしで結構印象変わりますねぇ。
↓眼鏡バージョン

はい、あまり皆さん興味ないこと分かりましたので終了します(笑)
次回は<導火線>です。
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