およそ十年前、彼の指が鍵盤の上に置かれると、世界は色を変えた。
滑らかに続く音の洪水。聽く者を惹きつけずにはいられない、鮮やかな音の魅力ー‥。


あれから十年経った今も、彼の奏でる音には魅力が溢れていた。
隣に座る雪は目を丸くして、その音に聞き入っている。

亮は満足そうな表情で、短い曲を弾き終えた。
軽やかに鍵盤を離れる十本の指に、音の余韻がついてくるみたいだ。

雪は目をキラキラと輝かせながら、思わず身を乗り出した。
「うわっうわっ?!今の何ですか?!河村氏、今何弾いたんですかぁ?!」
「ただの即興だよ、即興」

驚く雪に対して、亮は冷静だ。自身の手を見ながらコンディションを確認する。
大丈夫、まだ自分の手は死んでいない。
「すっごい不思議‥」

雪はそう言いながら、今は沈黙している鍵盤を眺めて言った。
このピアノから先ほどのような音が紡ぎ出されるなんて、まるで魔法のようじゃないか。

一方亮は雪の賞賛を受けながらも、冷静に自分の手の状態を把握する。今日は調子が良さそうだ。
亮は雪の方に向き直り、優しい口調で彼女に話し掛けた。
「ハノンだけじゃなくて、ぼちぼち他の曲も練習してんだ」

それを聞いた雪は、何を弾いているのかと亮に尋ねた。
亮は少しもったいぶるような仕草で、「弾いてやろうか?」と彼女に問う。

目を丸くした雪に、亮は「今日暗譜が終わった楽譜があるんだ」と言った。
何ですか、と続けて問う雪に亮は、とっておきの微笑みを見せてこう言った。
「お前 "Maybe" 好きだって言ってたろ」

彼には、異国の血が入った独特の雰囲気がある。亮は、自分がモテることを自覚していた。
だから”こんな風に微笑めば女はイチコロ”、亮はそう心得ていたのだ。

加えて二人の距離は近く、それは肩が触れ合うほどだった。
至近距離での亮のイケメン攻撃を、雪は間近で食らっているのだ。

あ‥と雪が言葉に詰まった。
赤面するか俯いて照れるか‥亮はそう予測してみたが、次の瞬間雪はパアッと笑顔を浮かべた。
「ホントですか?!」

その表情はどう見ても、ただ無邪気に”Maybe”を喜んでいる顔だった。
亮は目を見開きながら、自分のイケメン攻撃が効かない相手を前にする。

そのまま暫し彼女をじっと見つめてみたが、

雪の表情は変わらない。イケメン攻撃、あえなく撃沈である。

ダメだコリャ‥。

やがて亮は、"Maybe"を弾き始めた。
いつの間にか被っていたキャップを外した雪は、彼の隣でじっと座っていた。
滑らかに動くその十本の指を見ながら、鮮やかに響くその旋律に引き込まれる。

ここが暗く埃っぽい倉庫だということを、忘れる程だった。
空間を震わせるような音の洪水を、亮の隣で雪は今、全身で感じている。

ふと彼の顔を見上げると、その表情は真剣そのものだった。
響き渡る音に包まれた彼は、いつもとはまるで別人だ。

雪は亮の姿を眺めながら、昔神童と言われたというその空気を感じ取る。
きっと高校の時もこんな風に、鮮やかな音を奏で続けて来たのだろうと。


キラキラした音の粒が、美しい旋律の上を飛ぶように跳ねている。
その音色を聴く内に、あれだけ蓄積していた疲れも取れていた。
‥いいね。素敵な週末の朝だ‥

爽やかなメロディーに、心や身体の疲れが洗い流されて行くようだった。
嬉しそうに微笑む雪の隣で、亮はその音色と空気を楽しむように弾いている。

このままずっとこんな時間が続けばいいと、そう思った時だった。
ピクッ‥!

突然、流れていた音が止まった。
いきなりの出来事に、雪は何が起こったのか分からず目を見開く。

しかし驚いているのは雪だけではなかった。
亮本人でさえ全くの予想外の出来事だったのか、そのままピアノの前で固まっている。

やがて亮はゆっくりと自身の左手を眺めた。
小さく震えている。

自分の手であって自分の手でないような、そんな自身の一部。
不自由が生じた時はいつも、自分はもう以前のような天才では無いのだと改めて思い知らされる。

亮が、小さく掠れた声を漏らした。
頬を伝う一滴の汗が、スローモーションのようにゆっくりと流れて行った。

雪の頬にも、一滴の汗が流れていた。
音の余韻にこぼれた彼の絶望が、雪にも伝わって来ているのだ。
やがて亮は、「この続きはまだ覚えてない」と言って鍵盤から手を離した。
絶望を隠しながら、ぎくしゃくした動作で首の辺りを触る。

左手の不自由さを隠すための嘘だということが、雪にはすぐ分かった。
”Maybe”は同じメロディーの繰り返しであり、新しい旋律はこの先に無いはずだから‥。

けれどそんなことを、わざわざ口に出したりはしなかった。
雪は彼の横顔を眺めながら、亮が今抱えている気持ちを慮って沈黙する。
「その後はこうですよ」

やがて雪は、そう口にしながら亮の前に身を乗り出してピアノを弾いた。
決して下手ではない腕前は、昔とったきねづかだ。
「私も高校生の時覚えたんですよ」

そう言いながら、雪は亮が詰まった先のメロディーを弾く。
「こうですよ、こう」

キャップを被っていたせいで彼女の前髪は乱れ、いつもは見えない額が見えた。
亮は「あっそ‥」と言いながら、そんなことにばかり気を取られる自分を知る。

今や、二人の腕はくっついていた。雪が身を乗り出してピアノを弾いているせいだった。
亮は自身の心が騒ぐのを感じて、自然な流れでその腕を離す。
「下手菌うつりそー」 「何ですってぇ?!」

そして二人は、すっかりいつもの雰囲気に戻った。
「それじゃあ”お箸のマーチ”は覚えてますか?一緒に弾いちゃダメですかね?」
「ったくガキくせーことしてんじゃねーよ!」
声を荒げながらふざけ合う二人の後ろ姿を、叔父さんは微笑ましそうに見守っていた。
いつか無料ライブを開催するのも夢じゃないかもしれない‥。


その後二人は、手のことには一切触れず、他愛のない話をしながらふざけ合った。
キラキラ星が弾けると言う雪と、そんな彼女に真剣さが足りないと諭す亮‥。

雪は思う。
誰しも皆、自分だけの理想郷を持っている。
時にはそこから追い出されたり、時にはそこから抜け出さないようにもがいたり。

同じ頃、清水香織は自室で一人、膝を抱えてうずくまっていた。
階下では、家族が騒々しく騒いでいる。母親の食事を知らせる声もする。
けれど香織は返事もせずに、ただひたすら同じことを何度も考えていた。
何で私が赤山雪の真似を‥?ダサいし、性格も悪いじゃない‥!

盲目的な理想郷の中に、香織はうずくまっていた。
後ろを振り返ったら全て終わってしまうと無意識の内に気付き、恐れているのだ。
もがいてももがいても、沈んで行くだけとは知らずに‥。
そして時に、今一度そこに向かって足を踏み出したりもする。

倉庫を出て行く亮の後ろ姿は、
あの夏の始まりの頃、項垂れていた彼とは随分違って見えた。

過去をなぞり、現実と向き合っている彼を見て、雪は色々と考えさせられる。
それならば、今は?

特大サイズのコーヒーを持って、勉強に向かう。
自分の進む先がこれで合っているかどうかなんて、多分到着してみないとその正否は分からない。
そんな”Maybe”を引き連れて、雪は一人前へ進む‥。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<Maybe>でした。
もう一度貼ります、「Maybe」
こんな素敵な曲を亮さんが‥!雪ちゃんもナイスチョイス!
そして雪ちゃんが言っていた「お箸のマーチ」
小学生くらいの時に聞いたことありますね^^
いつか二人で弾いてみてほしいw
次回は<伊吹聡美の心の内>です。
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滑らかに続く音の洪水。聽く者を惹きつけずにはいられない、鮮やかな音の魅力ー‥。


あれから十年経った今も、彼の奏でる音には魅力が溢れていた。
隣に座る雪は目を丸くして、その音に聞き入っている。

亮は満足そうな表情で、短い曲を弾き終えた。
軽やかに鍵盤を離れる十本の指に、音の余韻がついてくるみたいだ。

雪は目をキラキラと輝かせながら、思わず身を乗り出した。
「うわっうわっ?!今の何ですか?!河村氏、今何弾いたんですかぁ?!」
「ただの即興だよ、即興」

驚く雪に対して、亮は冷静だ。自身の手を見ながらコンディションを確認する。
大丈夫、まだ自分の手は死んでいない。
「すっごい不思議‥」

雪はそう言いながら、今は沈黙している鍵盤を眺めて言った。
このピアノから先ほどのような音が紡ぎ出されるなんて、まるで魔法のようじゃないか。

一方亮は雪の賞賛を受けながらも、冷静に自分の手の状態を把握する。今日は調子が良さそうだ。
亮は雪の方に向き直り、優しい口調で彼女に話し掛けた。
「ハノンだけじゃなくて、ぼちぼち他の曲も練習してんだ」

それを聞いた雪は、何を弾いているのかと亮に尋ねた。
亮は少しもったいぶるような仕草で、「弾いてやろうか?」と彼女に問う。

目を丸くした雪に、亮は「今日暗譜が終わった楽譜があるんだ」と言った。
何ですか、と続けて問う雪に亮は、とっておきの微笑みを見せてこう言った。
「お前 "Maybe" 好きだって言ってたろ」

彼には、異国の血が入った独特の雰囲気がある。亮は、自分がモテることを自覚していた。
だから”こんな風に微笑めば女はイチコロ”、亮はそう心得ていたのだ。

加えて二人の距離は近く、それは肩が触れ合うほどだった。
至近距離での亮のイケメン攻撃を、雪は間近で食らっているのだ。

あ‥と雪が言葉に詰まった。
赤面するか俯いて照れるか‥亮はそう予測してみたが、次の瞬間雪はパアッと笑顔を浮かべた。
「ホントですか?!」

その表情はどう見ても、ただ無邪気に”Maybe”を喜んでいる顔だった。
亮は目を見開きながら、自分のイケメン攻撃が効かない相手を前にする。

そのまま暫し彼女をじっと見つめてみたが、

雪の表情は変わらない。イケメン攻撃、あえなく撃沈である。

ダメだコリャ‥。

やがて亮は、"Maybe"を弾き始めた。
いつの間にか被っていたキャップを外した雪は、彼の隣でじっと座っていた。
滑らかに動くその十本の指を見ながら、鮮やかに響くその旋律に引き込まれる。

ここが暗く埃っぽい倉庫だということを、忘れる程だった。
空間を震わせるような音の洪水を、亮の隣で雪は今、全身で感じている。

ふと彼の顔を見上げると、その表情は真剣そのものだった。
響き渡る音に包まれた彼は、いつもとはまるで別人だ。

雪は亮の姿を眺めながら、昔神童と言われたというその空気を感じ取る。
きっと高校の時もこんな風に、鮮やかな音を奏で続けて来たのだろうと。


キラキラした音の粒が、美しい旋律の上を飛ぶように跳ねている。
その音色を聴く内に、あれだけ蓄積していた疲れも取れていた。
‥いいね。素敵な週末の朝だ‥

爽やかなメロディーに、心や身体の疲れが洗い流されて行くようだった。
嬉しそうに微笑む雪の隣で、亮はその音色と空気を楽しむように弾いている。

このままずっとこんな時間が続けばいいと、そう思った時だった。
ピクッ‥!

突然、流れていた音が止まった。
いきなりの出来事に、雪は何が起こったのか分からず目を見開く。

しかし驚いているのは雪だけではなかった。
亮本人でさえ全くの予想外の出来事だったのか、そのままピアノの前で固まっている。

やがて亮はゆっくりと自身の左手を眺めた。
小さく震えている。

自分の手であって自分の手でないような、そんな自身の一部。
不自由が生じた時はいつも、自分はもう以前のような天才では無いのだと改めて思い知らされる。

亮が、小さく掠れた声を漏らした。
頬を伝う一滴の汗が、スローモーションのようにゆっくりと流れて行った。

雪の頬にも、一滴の汗が流れていた。
音の余韻にこぼれた彼の絶望が、雪にも伝わって来ているのだ。
やがて亮は、「この続きはまだ覚えてない」と言って鍵盤から手を離した。
絶望を隠しながら、ぎくしゃくした動作で首の辺りを触る。

左手の不自由さを隠すための嘘だということが、雪にはすぐ分かった。
”Maybe”は同じメロディーの繰り返しであり、新しい旋律はこの先に無いはずだから‥。

けれどそんなことを、わざわざ口に出したりはしなかった。
雪は彼の横顔を眺めながら、亮が今抱えている気持ちを慮って沈黙する。
「その後はこうですよ」

やがて雪は、そう口にしながら亮の前に身を乗り出してピアノを弾いた。
決して下手ではない腕前は、昔とったきねづかだ。
「私も高校生の時覚えたんですよ」

そう言いながら、雪は亮が詰まった先のメロディーを弾く。
「こうですよ、こう」

キャップを被っていたせいで彼女の前髪は乱れ、いつもは見えない額が見えた。
亮は「あっそ‥」と言いながら、そんなことにばかり気を取られる自分を知る。

今や、二人の腕はくっついていた。雪が身を乗り出してピアノを弾いているせいだった。
亮は自身の心が騒ぐのを感じて、自然な流れでその腕を離す。
「下手菌うつりそー」 「何ですってぇ?!」

そして二人は、すっかりいつもの雰囲気に戻った。
「それじゃあ”お箸のマーチ”は覚えてますか?一緒に弾いちゃダメですかね?」
「ったくガキくせーことしてんじゃねーよ!」

声を荒げながらふざけ合う二人の後ろ姿を、叔父さんは微笑ましそうに見守っていた。
いつか無料ライブを開催するのも夢じゃないかもしれない‥。



その後二人は、手のことには一切触れず、他愛のない話をしながらふざけ合った。
キラキラ星が弾けると言う雪と、そんな彼女に真剣さが足りないと諭す亮‥。

雪は思う。
誰しも皆、自分だけの理想郷を持っている。
時にはそこから追い出されたり、時にはそこから抜け出さないようにもがいたり。

同じ頃、清水香織は自室で一人、膝を抱えてうずくまっていた。
階下では、家族が騒々しく騒いでいる。母親の食事を知らせる声もする。
けれど香織は返事もせずに、ただひたすら同じことを何度も考えていた。
何で私が赤山雪の真似を‥?ダサいし、性格も悪いじゃない‥!

盲目的な理想郷の中に、香織はうずくまっていた。
後ろを振り返ったら全て終わってしまうと無意識の内に気付き、恐れているのだ。
もがいてももがいても、沈んで行くだけとは知らずに‥。
そして時に、今一度そこに向かって足を踏み出したりもする。

倉庫を出て行く亮の後ろ姿は、
あの夏の始まりの頃、項垂れていた彼とは随分違って見えた。

過去をなぞり、現実と向き合っている彼を見て、雪は色々と考えさせられる。
それならば、今は?

特大サイズのコーヒーを持って、勉強に向かう。
自分の進む先がこれで合っているかどうかなんて、多分到着してみないとその正否は分からない。
そんな”Maybe”を引き連れて、雪は一人前へ進む‥。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<Maybe>でした。
もう一度貼ります、「Maybe」
こんな素敵な曲を亮さんが‥!雪ちゃんもナイスチョイス!
そして雪ちゃんが言っていた「お箸のマーチ」
小学生くらいの時に聞いたことありますね^^
いつか二人で弾いてみてほしいw
次回は<伊吹聡美の心の内>です。
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