日本語のカミ(kami)と漢字の神
漢字の「神」という思想は、日本人の「kami」とは全然別個です。
英国人はこれを「God」というのです。神もkamiもGodも同じというのは、混乱した思想です。
ヤマトコトバでは、カミとは変化するもの、ジーッとしないもの、見えない・見られないものと教えています。従って「見えるもの・見られるものは」カミではありません。
見えないカミをどうしてつかむか。これを「オカゲで掴め」と教えてきたのは、今日の「核の影像」研究と同一の方法です。つまりオカゲの大小によってカミの大小を掴むのです。この「カミ」という日本語がマイナスになると、スワル・動かないとなり、上、頭になるのです。
この「上、頭、長」になると、掴まえたり、相談ができるので、お互いは日常の心配事はこの「カミ」の指導を受けて、楽しくクラスのです。それでカミと名のつくもの、主人、オカミサン、社長、官、上長などと相談するのです。
上、頭のカミになると、オカゲというものがすぐ「顔色に出る」のですが、その顔色をヨムという要領のよい人もいます。ただし我々の生活様式はどこまでもマイナスですから、これは「借りの姿」生活の便法です。
次々と変わる社会、自然の姿、カミの世界から見ると、要領のよい人は原理に合わないから、結局は面白くなかった結果になる。
やはり、常にかわらない哲理実行の姿が一番よいというので、ツネに変わらぬ心、即ち「マコトはカミ」と尊ばれるのです。カワリ行く社会、カミの世界、自然の中で、変わらないマイナスの心を持つことは、カミとウラオモテで、結局一つになりMu(む)を実現するのです。
これが「神人合一」で、このMu(む)という日本語は「生む、芽生える」というイミです。
それでカミはカワルのですから、カワラナイ心を持って初めて「プラス・マイナス」Muになり、最後に恵まれているという結果になるのです。
仏者が使う「無」はこの「ム」です。
変化していく社会、お互いの生活に変化しない心、動じない心、この「ココロ」を持てば、病気、災難、心配、何ら恐れることはない筈です。
太古の人たちはコトバ即ち実行ですから、実にスナホ・カミそのままの心であったのです。
だからお互いは、先人を「カミ」と崇め祀るのです。
漢字の「神」という思想は、日本人の「kami」とは全然別個です。
英国人はこれを「God」というのです。神もkamiもGodも同じというのは、混乱した思想です。
ヤマトコトバでは、カミとは変化するもの、ジーッとしないもの、見えない・見られないものと教えています。従って「見えるもの・見られるものは」カミではありません。
見えないカミをどうしてつかむか。これを「オカゲで掴め」と教えてきたのは、今日の「核の影像」研究と同一の方法です。つまりオカゲの大小によってカミの大小を掴むのです。この「カミ」という日本語がマイナスになると、スワル・動かないとなり、上、頭になるのです。
この「上、頭、長」になると、掴まえたり、相談ができるので、お互いは日常の心配事はこの「カミ」の指導を受けて、楽しくクラスのです。それでカミと名のつくもの、主人、オカミサン、社長、官、上長などと相談するのです。
上、頭のカミになると、オカゲというものがすぐ「顔色に出る」のですが、その顔色をヨムという要領のよい人もいます。ただし我々の生活様式はどこまでもマイナスですから、これは「借りの姿」生活の便法です。
次々と変わる社会、自然の姿、カミの世界から見ると、要領のよい人は原理に合わないから、結局は面白くなかった結果になる。
やはり、常にかわらない哲理実行の姿が一番よいというので、ツネに変わらぬ心、即ち「マコトはカミ」と尊ばれるのです。カワリ行く社会、カミの世界、自然の中で、変わらないマイナスの心を持つことは、カミとウラオモテで、結局一つになりMu(む)を実現するのです。
これが「神人合一」で、このMu(む)という日本語は「生む、芽生える」というイミです。
それでカミはカワルのですから、カワラナイ心を持って初めて「プラス・マイナス」Muになり、最後に恵まれているという結果になるのです。
仏者が使う「無」はこの「ム」です。
変化していく社会、お互いの生活に変化しない心、動じない心、この「ココロ」を持てば、病気、災難、心配、何ら恐れることはない筈です。
太古の人たちはコトバ即ち実行ですから、実にスナホ・カミそのままの心であったのです。
だからお互いは、先人を「カミ」と崇め祀るのです。