慰安婦問題等を含めて福島原発事故での吉田調書の報道に誤りがあったということで社長を含めた記者会見があった。また、今朝の紙面においてあらためて読者も含めて謝罪があった。
記事に誤りがあれば謝罪することは当たり前でしょう。しかし同時に一部に誤りがあったとしても記事すべてが誤りだったのかといえばそうではないでしょう。特に吉田調書は公開すべきという世論がありそれを独自に入手して報道したわけですし、その後他の新聞社も入手して報道した。そして今回のこともあり政府も公表に踏み切った。その調書から事故時の緊迫した事故の重大性が伝わってきていかに原発の安全性が言われていても緊迫した状態になってしまえば人の手ではどうすることもできないし最小限に食い止めるしかないことがわかる。その最小限のことを吉田所長は行ったということでしょう。
朝日新聞が謝罪をしたのはこの事故が起きてしまった後の処置についての中身の誤報だったわけですし吉田所長の長所もここにあります。誤報は正しつつ朝日新聞はそこから何を修正して問題点を指摘するかという姿勢が求められます。
科学や政治も含めて人の営みは誤りを認めて修正をする中でより正しいものを作り上げる。この方法以外しか発展はないわけです。しかし誤りがあったとしてもそれもまたその誤りの中で修正をして吉田調書や慰安婦問題をさらに取り上げていくのがその責任でしょう。
原発事故時に何があったか?
それはその当時の設備面の限界の中で行われる。津波も低いものしか想定はなくて堤防設備は不備があったといわざるを得ないし、電源消失時のバックアップなどにも足りないものがあったはずです。端的に言えば原発の安全神話という中身においてしかその設備は整えられていなかったということです。
そうすると、その中で吉田所長が何にいらだち過酷な事故の中で与えられただけの設備の中で何をしたのかという視点で調書を読むことができます。
朝日新聞だけではないですが、これまでの原発の安全神話を鵜呑みにしてきたマスコミはないでしょうか?あるいはその安全神話をもとに原発推進を報道したことはなかったでしょうか?
そこをマスコミは「誤報」として改めねばならないでしょう。
もちろんこれまでの政府の原発推進政策に誤りがなかったかの調査が必要です。
これを抜きに事故が起きてしまった時だけの吉田調書やそこからの朝日新聞の記事ノア槍を指摘するだけでは足りないのです。
慰安婦問題も同じで、朝日新聞の記事に誤り(取材不足)があったとしても戦中の日本を正当化はできないわけですから、慰安婦問題は引き続き行われるべきものとして残るでしょう。そこに朝日新聞が戦争と女性の性という大きな視点とともに慰安婦問題のどこに問題があるのかを指摘し続けるのが責任の取り方でしょう。
朝日新聞の誤報はさらに安全神話や慰安婦問題の実態の真実を求めるものに発展していくでしょう。それを朝日新聞が自覚すかどうかです。
記事に誤りがあれば謝罪することは当たり前でしょう。しかし同時に一部に誤りがあったとしても記事すべてが誤りだったのかといえばそうではないでしょう。特に吉田調書は公開すべきという世論がありそれを独自に入手して報道したわけですし、その後他の新聞社も入手して報道した。そして今回のこともあり政府も公表に踏み切った。その調書から事故時の緊迫した事故の重大性が伝わってきていかに原発の安全性が言われていても緊迫した状態になってしまえば人の手ではどうすることもできないし最小限に食い止めるしかないことがわかる。その最小限のことを吉田所長は行ったということでしょう。
朝日新聞が謝罪をしたのはこの事故が起きてしまった後の処置についての中身の誤報だったわけですし吉田所長の長所もここにあります。誤報は正しつつ朝日新聞はそこから何を修正して問題点を指摘するかという姿勢が求められます。
科学や政治も含めて人の営みは誤りを認めて修正をする中でより正しいものを作り上げる。この方法以外しか発展はないわけです。しかし誤りがあったとしてもそれもまたその誤りの中で修正をして吉田調書や慰安婦問題をさらに取り上げていくのがその責任でしょう。
原発事故時に何があったか?
それはその当時の設備面の限界の中で行われる。津波も低いものしか想定はなくて堤防設備は不備があったといわざるを得ないし、電源消失時のバックアップなどにも足りないものがあったはずです。端的に言えば原発の安全神話という中身においてしかその設備は整えられていなかったということです。
そうすると、その中で吉田所長が何にいらだち過酷な事故の中で与えられただけの設備の中で何をしたのかという視点で調書を読むことができます。
朝日新聞だけではないですが、これまでの原発の安全神話を鵜呑みにしてきたマスコミはないでしょうか?あるいはその安全神話をもとに原発推進を報道したことはなかったでしょうか?
そこをマスコミは「誤報」として改めねばならないでしょう。
もちろんこれまでの政府の原発推進政策に誤りがなかったかの調査が必要です。
これを抜きに事故が起きてしまった時だけの吉田調書やそこからの朝日新聞の記事ノア槍を指摘するだけでは足りないのです。
慰安婦問題も同じで、朝日新聞の記事に誤り(取材不足)があったとしても戦中の日本を正当化はできないわけですから、慰安婦問題は引き続き行われるべきものとして残るでしょう。そこに朝日新聞が戦争と女性の性という大きな視点とともに慰安婦問題のどこに問題があるのかを指摘し続けるのが責任の取り方でしょう。
朝日新聞の誤報はさらに安全神話や慰安婦問題の実態の真実を求めるものに発展していくでしょう。それを朝日新聞が自覚すかどうかです。