猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

夏がくれば思い出す

2005年08月10日 19時23分19秒 | ルーツ
毎年夏が来て、雷が鳴ると思い出すひとつの情景がある。
小さなアパートの玄関先の軒下で、幼い妹と共に数を数えた思い出。
「光ってから10数えても音がしなければ、雷は遠くにいるんだって」
そう言いながら必死になって、数を数えた思い出。

あれは。
たぶん私が小学校2年生くらいの時だったと思う。
度重なる父の不実に怒りを爆発させた母が、東北にある故郷へ1人で帰ってしまった夏だ。
父は、母が故郷へ帰ってしまうたびそうするように、仕事で使っているトラックに私と妹を乗せて母を迎えに行った。
夜通し高速を走って峠を越え、ひたすら母のいる田舎を目指す。

朝方「まだ訪ねていくには早いから」と、車内で時間が経つのを待つ間、フロントガラス越しに見た朝焼け。
狭い車内で父と妹と共に見た、本当に美しい朝焼け。
私の「夏の情景」は、今ではこの、思いがけない夏、この年の夏の情景に乗っ取られてしまった。

その後父は、すでに学校や幼稚園が休みに入っていた私と妹を置いて帰って行った。
何より彼には仕事があったし、それ以前に、母に追い返されたというのもあるだろう。とにかく、私と妹はその夏を東北で過ごすことになった。

私の母は、若いころから水商売に足を突っ込んでいたから、田舎でもやはり、当時は日本中で男性の娯楽場として隆盛を誇っていたキャバレーに勤めていて、その店の寮で暮らしていた。
いや。もしかしたら私達が行くまでは実家でのんびりしていたのかもしれず、子供2人が加わって手狭になったから、という理由でそうしたのかもしれないが、母と私と妹は、母と同じホステスさんたちが暮らす寮でひと夏を過ごすことになった。

そこでの暮らしがどんなであったか。詳しくは憶えていないが、確か、出勤する母と共にキャバレーの2階にある託児所に行き、そこで仮眠をとり、母の仕事が終わったあと、一緒に小さなバスで送ってもらって寮に帰る。そんな風であったと思う。子供ながらに当時の私が知る限り、そのころのホステスさんはみんなワケありだったから、同じような子供もたくさんいて、閉店後のキャバレー内のシャンデリアの下で一緒に、お絵かきして遊んだりした記憶もある。ホステスさんたちにはそれぞれ、出身県や住んでいたことのある地名が源氏名として与えられ、私の母は確か「神奈川さん」と呼ばれていた。私が仲良くしていたのは「青森さん」の子供だったが、ただその子が、男だったか女だったか、それすらももう覚えてはいない。

憶えているのは。
一人で、寮の日陰にいる小さなカエルをひたすら捕まえては石で叩き潰し、延々とそれを繰り返したこと。時折母がプールへ連れて行ってくれたこと。妹が自転車の後輪に足を挟み酷い怪我をしたこと。母と仲間のホステスさんが「あの客、触るから嫌なのよね~」と話していたこと。それだけである。
そして、私の心に残っているあの情景。

その後、父と母は再び共に暮らすようになったが、それは真の崩壊の始まりに過ぎず、その後の夏の情景を私は記憶にとどめていない。

ただ、あの、思いがけない夏に私が見たものは、今思えば私の生きかたを決定付けたともいえ、あの夏私が決心したこと、
「私はワケありの大人にはならない。水商売の女の人には絶対ならない」
は、誘惑の多かった私の人生のなかでも固く守られている。
もっとも、最近のホステスさんはあの頃とはまったく違い、自分のために賢く、したたかに生きており、何より軽やかであるが。


あの夏が、私の心にどんなものを残したのか、私には.....今もわからないけれど。
ただひとつ。

夏がくれば思い出す。
雷の音とともに胸に迫る、切なく、遠い夏の情景。
妹と2人、必死になって数を数えた。

今は遠い夏。