誰でも、食にまつわる何らかの思い出を持っているものだ。
例えば嫌いな食べ物であれば、「仕方なくたくさん食べさせられて、嫌になった」であるとか、また逆に、大好きな食べ物であるなら、「おふくろの味だから」とか、人間にとってとても大切な<食べる>という行為にはたくさんの感覚と感情が伴っているはずである。
それに、人間は7、8割方、頭で食べている生き物だそうだから、どこでどんなシチュエーションで、誰と食べるかということも大変重要になってくる。特に我々日本人にとって<食>は、自分達の知らない過去の時代から、とても大切にされていたものでもあり、それは毎日TVで流されるグルメ番組の多さからも伺える。以前にも引用させて貰ったヒュースケンの(米国全権使節ハリスの通訳。1861年斬殺される)日本日記では、江戸へ向かう途上の彼がこう書いている箇所が見受けられるから、諸外国を巡ってきた者から見ても、そのこだわりには驚くべきものがあったのだろう。以下は、その抜粋である。
「日本人には、どこへ行っても食べ物を恵んでくれる親切な魔物がついているらしい。どんな食物でも、またたく間にどこからともなくととのえてきて、家にいるのと同じように快適に三度の食事をするのである」
さて。
私の食にまつわる思い出であるが、まずは「きんぴらゴボウ」から話を始めたいと思う。と、言うのも、私にとってきんぴらは、良くも悪くも、色んな思いがついてまわる食べ物だからだ。
いつか、私の母が突然姿を消したことについては書いたと思うが、彼女が出て行ったことで、父や妹、当時住んでいた家の持ち主であった祖父の食事作りは、当時11歳だった私の仕事となった(弟は平日伯母の家に預けられていた)。が、作るといっても、しょせん小学生のにわか仕込み。レパートリーは本当に限られたもので、その中に辛うじてきんぴらゴボウが入っていたという具合である。他には、野菜炒めや煮込みうどん、麻婆豆腐の元を使った麻婆豆腐に煮魚、カレーなど、一日働いて帰ってきた父には、本当に物足りない、稚拙でわびしい食卓だったであろう。今考えても父や妹に申し訳なく、苦く切ない思い。それが、きんぴらゴボウにまつわる私の思い出その1、である。
時が流れ、私が中学校に上がろうかという時、父は再婚した。
今までも書いてきているが、相手は、当初はわからなかったものの、アル中で感情の抑えがきかない女だった。彼女は、夕方は酒に酔っていることが多く、夕食作りにも力は入れない人だったし、我が家では私が家のお手伝いをすることは当然だったから、よくきんぴら用のゴボウを刻まされたものだった。やがて高校へ上がった私は、中学校時代の3年を通じて、2枚ほどの服しか買ってもらえなかったことへ対する寂しさと、アルバイトが出来るようになったら当然働いて家計を助けるべきだという父の意向でバイトを始めたが、学校から帰ってバイトへ向かうまでの僅かな時間にも、よくゴボウを刻んだものである。当時、時給500円の弁当屋のバイトで、私は貰った給料の半分を家に入れ、残りで自分の小遣い、学校までの定期、毎日の昼食代を賄っていたのだが、私が家に入れたお金が、継母の酒代、もしくは滅多に着ない高価な着物に消えていったのはもはや、疑う余地もないであろう(父は結構稼いでいたから)。当時の私は、精神的にも体力的にも毎日ヘトヘトで、胃の痛みで動けなくなることもしばしばだったが、それこそが、私のきんぴらゴボウにまつわる思い出その2、なのである。
幸い、その後家を出て、長い長い紆余曲折を経て、私はゴンザと出会うことが出来た。きんぴらゴボウは彼の大好物であるから、私はしばしばそれを作るのだが、ゴボウを刻むたびに、色んなことを思い出し、おセンチになってしまう自分をどうすることも出来ないでいる。
しかしある時、ゴボウを刻みながら、それにまつわる思い出と、湧き上がってくる感情についてゴンザに打ち明けてみたら、実にあっけらかんとこんな答えが返ってきたので、それが私のきんぴらゴボウにまつわる思い出その3、となった。
「そっか。でもそのおかげでこんなに上手にゴボウが刻めるようになって良かったね!だからerimaちゃんのきんぴらはこんなに美味しいんだ♪」
もしかしたら、母が出て行った当時、私がもっとちゃんとした食事を作れていたら、父はあんな女と再婚することもなく、妹や弟もこんな思いをしなくて済んだかもしれない。
きんぴらゴボウにまつわる私の思いは、依然、苦いものには違いないけれど.....。
今の私には。
こんな風にその思いを救ってくれる人がいる。
そして、そんなおセンチを呼び起こすきんぴらゴボウが、私の得意料理であることは、紛れもない真実なのである。
例えば嫌いな食べ物であれば、「仕方なくたくさん食べさせられて、嫌になった」であるとか、また逆に、大好きな食べ物であるなら、「おふくろの味だから」とか、人間にとってとても大切な<食べる>という行為にはたくさんの感覚と感情が伴っているはずである。
それに、人間は7、8割方、頭で食べている生き物だそうだから、どこでどんなシチュエーションで、誰と食べるかということも大変重要になってくる。特に我々日本人にとって<食>は、自分達の知らない過去の時代から、とても大切にされていたものでもあり、それは毎日TVで流されるグルメ番組の多さからも伺える。以前にも引用させて貰ったヒュースケンの(米国全権使節ハリスの通訳。1861年斬殺される)日本日記では、江戸へ向かう途上の彼がこう書いている箇所が見受けられるから、諸外国を巡ってきた者から見ても、そのこだわりには驚くべきものがあったのだろう。以下は、その抜粋である。
「日本人には、どこへ行っても食べ物を恵んでくれる親切な魔物がついているらしい。どんな食物でも、またたく間にどこからともなくととのえてきて、家にいるのと同じように快適に三度の食事をするのである」
さて。
私の食にまつわる思い出であるが、まずは「きんぴらゴボウ」から話を始めたいと思う。と、言うのも、私にとってきんぴらは、良くも悪くも、色んな思いがついてまわる食べ物だからだ。
いつか、私の母が突然姿を消したことについては書いたと思うが、彼女が出て行ったことで、父や妹、当時住んでいた家の持ち主であった祖父の食事作りは、当時11歳だった私の仕事となった(弟は平日伯母の家に預けられていた)。が、作るといっても、しょせん小学生のにわか仕込み。レパートリーは本当に限られたもので、その中に辛うじてきんぴらゴボウが入っていたという具合である。他には、野菜炒めや煮込みうどん、麻婆豆腐の元を使った麻婆豆腐に煮魚、カレーなど、一日働いて帰ってきた父には、本当に物足りない、稚拙でわびしい食卓だったであろう。今考えても父や妹に申し訳なく、苦く切ない思い。それが、きんぴらゴボウにまつわる私の思い出その1、である。
時が流れ、私が中学校に上がろうかという時、父は再婚した。
今までも書いてきているが、相手は、当初はわからなかったものの、アル中で感情の抑えがきかない女だった。彼女は、夕方は酒に酔っていることが多く、夕食作りにも力は入れない人だったし、我が家では私が家のお手伝いをすることは当然だったから、よくきんぴら用のゴボウを刻まされたものだった。やがて高校へ上がった私は、中学校時代の3年を通じて、2枚ほどの服しか買ってもらえなかったことへ対する寂しさと、アルバイトが出来るようになったら当然働いて家計を助けるべきだという父の意向でバイトを始めたが、学校から帰ってバイトへ向かうまでの僅かな時間にも、よくゴボウを刻んだものである。当時、時給500円の弁当屋のバイトで、私は貰った給料の半分を家に入れ、残りで自分の小遣い、学校までの定期、毎日の昼食代を賄っていたのだが、私が家に入れたお金が、継母の酒代、もしくは滅多に着ない高価な着物に消えていったのはもはや、疑う余地もないであろう(父は結構稼いでいたから)。当時の私は、精神的にも体力的にも毎日ヘトヘトで、胃の痛みで動けなくなることもしばしばだったが、それこそが、私のきんぴらゴボウにまつわる思い出その2、なのである。
幸い、その後家を出て、長い長い紆余曲折を経て、私はゴンザと出会うことが出来た。きんぴらゴボウは彼の大好物であるから、私はしばしばそれを作るのだが、ゴボウを刻むたびに、色んなことを思い出し、おセンチになってしまう自分をどうすることも出来ないでいる。
しかしある時、ゴボウを刻みながら、それにまつわる思い出と、湧き上がってくる感情についてゴンザに打ち明けてみたら、実にあっけらかんとこんな答えが返ってきたので、それが私のきんぴらゴボウにまつわる思い出その3、となった。
「そっか。でもそのおかげでこんなに上手にゴボウが刻めるようになって良かったね!だからerimaちゃんのきんぴらはこんなに美味しいんだ♪」
もしかしたら、母が出て行った当時、私がもっとちゃんとした食事を作れていたら、父はあんな女と再婚することもなく、妹や弟もこんな思いをしなくて済んだかもしれない。
きんぴらゴボウにまつわる私の思いは、依然、苦いものには違いないけれど.....。
今の私には。
こんな風にその思いを救ってくれる人がいる。
そして、そんなおセンチを呼び起こすきんぴらゴボウが、私の得意料理であることは、紛れもない真実なのである。