西洋、キリスト教などの物の見方として、
「理性の有る者が人間であり、無いものは人間以下である」
という捉え方があるので、強制収容所の<回教徒>の方々のように
誰かが食べ物を落としたら、何も見ずにそれを拾って食べようとする
というのは、「理性がない」とのことでで、「人間ではない」
だから「生きる価値がない」との見方になるのではないか。
欧米の霊長類研究者などでも、「猿に意識はあるのか?」
などと言うそうだ。
猿でも犬でも、心があると何となく思う日本人とは
物の捉え方がかなり根本的に違うようだ。
最近、なんでも「カワイイ」と言う人について、
「他に言葉を知らないのか?」と言う人もいるが
猿でも犬でも人間でも「カワイイ」と言うのは
異民族に侵略、支配される事がなかった、恵まれた歴史の
日本だからこそではないのだろうか?
また、生理的にカワイイと感じるものを「カワイイ」
と言うのは、言葉の領域での、「新規蒔き直し」
(「治療論から見た退行」マイケル・バリント)
が生じているのではないのだろうか?
日本のシベリア抑留者は、全体として死亡率が1割程度だったので
生き残った方々は、「あの時、助けられなくて残念だった」
「自分などが生き残って申し訳ない」など思えるが、
ナチスの強制収容所などのように、死亡率が9割を超えるような
所にいた方々は、その様な事を思えないくらい苦しい状態が
解放後も続いているのではないだろうか?