本書では、医師である湯沢千尋氏と、あまり症状のない患者さんとの遣り取りが取り上げられている。
その多くは、「当たり前ということが解らない」「普通というものが解らない」など、
ブランケンブルグの症例とかなり重なるところがあるが、こちらの方はいくつかの症例が挙げられている。
臨床心理学の方では、発達障害のことに関して、主体が未成立、未だ生まれざる者、などと表現しているが、
ラカンなどに詳しい十川幸司氏によると、どのような価値体系で人格を築こうと、
そこに絶対的な確かさや正当性というものは無いとのことである。
本書で取り上げられている患者さんたちは、親などの周囲の影響で通学や就労などの様々なことをしてきたが、
周囲の価値体系などに同一化せず、人格を築かずにやってきていて、そこでかなり無理があり疲弊し、
医療に関わった時に湯沢氏が、運命共感的に関わったため、実際のところは何にも同一化していないことを言語化でき、
思考化できたのではないだろうか。
一般的に見られる、受験が済むと自宅や下宿でゴロゴロしている、一人でゲームばかりしている、
喫茶店で駄弁ってばかりいる、などの状態と似たところがある事だろう。
本書の患者さんたちは、湯沢氏との面接場面がそのような余裕を持てる場所として機能し、
何にも同一化せず、主体が未成立な状態を「当たり前のことが解らない」などと
言葉で表現できたのだろう。
バリントの言うところの「地火風水」として治療者が在ることができたことが大きそうである。
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