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信州松本からの投稿

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)

2022-07-02 | 松本市の伝統を感じる建造物等
今日は「2022年度 信州大学全学教育機構 公開講座 土曜市民教養教室」の4回目の講座の日。
少し早く会場につきましたので、旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫の見学をしてきました。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
国の登録有形文化財となった証がありました。
旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)

「信州大学の敷地内に建ち、桁行三六・三メートル梁間九・一メートル、煉瓦造平屋建、切妻造桟瓦葺である。外壁はイギリス積で北面三箇所、西面一箇所の戸口を設け、欠円アーチ窓を開く。小屋組はキングポストトラスとする。校地の歴史を伝える煉瓦倉庫である。」
とありました。
以下、今日撮った

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
「陸軍用地」の文字が見えます。


西面を西側からの撮影です。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
北面を東側からの撮影です。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
北面を北側からの撮影です。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
東面を北東側からの撮影です東
旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
南面を南東からの撮影です。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
南面を南東からの撮影です。
旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
南面を南からの撮影です。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
南面の窓を南からの撮影です。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
南面西側部分を南からの撮影です。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
南面を南西からの撮影です。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
屋根は瓦葺でした。

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)

旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)
外壁のレンガには何やら白っぽい点々が沢山ついています。
これは壁を覆っていた蔦を取り去った後だと思われます。

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四ヶ堰(しかせぎ)

2021-02-28 | 松本市の伝統を感じる建造物等
四ヶ堰(しかせぎ)

奈良井川右岸に位置する村井町村・小屋村・平田村・野溝村の四村は、新田開発が盛んに行われた江戸時代から用水を奈良井川から取っていました。
ところが用水路(堰路)が奈良井川河川敷にひかれていたため漏水が多 く、奈良井川が洪水をおこすたびに堰が壊されるので、取水のできない事が続き干ばつに悩まされ、争いのもとともなっていました。
そこで、平田村(現松本市平田)の名主百瀬三七翁は水路を台地上に移動しようと考え、夜間に星の明かりや線香の火などを頼りに測量を行いました。
その後この考えを村民に伝え説得し、明治4年(1871)から約1年をか けて、流路変更の工事を完成させました。
こうして、毎年のように被害を受けていた周辺の住民たちが救われ、当時この堰は「三七堰」とも呼ばれたようです

四ヶ堰(しかせぎ)

塩尻市広丘堅石地籍の四ヶ堰の分水口。
昭和9年(1934)に4ヶ所の地区に均等に水を分配するための円形の分水場がつくられ、昭和24年(1948)にコンクリート水路に改修されています。
地元の方は「円筒分水(えんとうぶんすい)と呼んでいます。

四ヶ堰(しかせぎ)

四ヶ堰(しかせぎ)


四ヶ堰(しかせぎ)
「三七堰」の創設者として尊敬を集める百瀬三七翁は、東筑摩郡今井村の中原忠左衛門の三男として生まれました。嘉永6年(1853)に同郡平田村(現松本市平田)百瀬左門太の養子となり、代々の名主役を継ぎました。


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牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

2021-01-25 | 松本市の伝統を感じる建造物等
牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

牛伏川(うしぶせがわ)は松本市の南東部に位置する鉢伏山横峰(はちぶせやまよこみね)あたりに源を発し、松本市並柳(なみやなぎ)で田川(たがわ)に合流する全長約9Kmの川です。
牛伏川と合流した田川は、その後、犀川(さいがわ)、千曲川(ちくまがわ)を経て信濃川(しなのがわ)として日本海に注いでいます。

「牛伏川砂防工事沿革史」の10ページに記載されている「沿革(森泉玄吾氏所持記録ニヨル)」には以下のように記載されています。
「牛伏川水源一帯樅、赤松、楢、杉等の雑木に充ちて今より約壹百年前安永頃までは全山鬱蒼たる大森林なりしと云ふ現に維新當初よりの片丘村戸長役場當時の記録に明記する所なり其斯の如き美林も元治元年間より濫伐の厄に遇ひ明治の初年は既に林木の見るへきものなく満山只茫々たると荒廃地と化し・・・時恰も新潟県下に於は信濃川改修問題起り土砂堆積は遠く信州の水源地に因を為すものなりとの理明かとなり長野県千曲、犀川の沿岸一帯特に牛伏川か其原因の重なるものの一つに数えられ漸く内務省当局の注目を惹くに至れり・・・」とあります。
※ 安永は西暦1772年~1780年
 ※ 元治元年は西暦1864年 

1700年代後半頃までは鬱蒼とした樹木が茂る牛伏川水源の山であったものが乱伐により禿山となり、大雨のたびに大量の土砂が流出する山になってしまったようです。
時の明治政府内務省は、新潟港口の埋没は信濃川水源地の一つのである牛伏川の荒廃も一因と考え牛伏川砂防工事が開始されました。
「牛伏川砂防工事沿革史」の中に掲載されている当時の写真を見ると、かなり広範囲に禿山は広がり急峻な地形ですので、難工事であった事が想像されます。

牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

牛伏川の砂防工事は
1885年(明治18年)内務省直轄工事として開始
1887年(明治20年)一時、工事中止
1888年(明治21年)工事再開
1890年(明治23年)内務省直轄工事は中止となる
1898年(明治31年)長野県の事業として工事を継続する
1916年(大正5年)フランス式階段工が着工される
1918年(大正7年)砂防工事ほぼ完成
という経過がありました。

このフランス式階段工(フランス式階段流路)は牛伏川砂防工事の最後の仕上げとして行われた工事となります。
フランス式階段工は急な流れを緩やかにして土砂の流出を抑える工事で、長さ141m、落差約23mに19段の空石三面張水路が連なっています。
設計は内務省池田圓男(いけだのぶお)技師が、フランスのサニエル渓谷を流れるデュランス川の階段工に習って設計したとあります。
牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

牛伏川フランス式階段工(フランス式階段流路)

凍るフランス式階段工(フランス式階段流路)

雪のフランス式階段工(フランス式階段流路)

緑の中のフランス式階段工(フランス式階段流路)

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針塚古墳(はりづかこふん)

2017-06-08 | 松本市の伝統を感じる建造物等
松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

松本市里山辺 針塚古墳(はりづかこふん)

※針塚古墳(はりづかこふん)の所在地 長野県松本市里山辺3173番地

針塚古墳(はりづかこふん)の所在する里山辺地区は、美ヶ原山塊から流れ出る薄川(すすきがわ)が形成した扇状地である。
針塚古墳は、扇央部の河岸段丘上に位置し、周囲を水田とぶどう園に囲まれている。
近年の農業基盤整備事業でこの河岸段丘も姿を消したが、かつては段丘上に同様な古墳が数基あった。
現在はこの針塚古墳が残るのみである。
針塚古墳は以前から積石塚古墳として知られていた。
積石塚古墳とは土のかわりに石をもって封じ、墳丘を造った古墳で、高句麗(こうくり 朝鮮半島北部の古代国家)に多い墓制であることから渡来人との関係を指摘する声もある。

平成元年度(1989)から3次にわたって発掘調査が行われた。
その結果は、幅約2mの周溝をめぐらした円墳で直径約20m、高さは約2mが確認できました。
埋葬施設は墳頂部に長さ約2m、幅約1mの竪穴式石室、東側の周溝内に長さ約2m、幅35㎝、深さ33㎝の竪穴式石室、東南側周溝内に木棺墓(もっかんぼ)が発見されました。
このうち墳頂部の竪穴式石室内からは内行花文鏡(ないこうかもんきょう)をはじめ、鉄斧(てっぷ)、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす 小刀)、ガラス小玉、滑石製紡錘車(かっせきせいぼうすいしゃ 糸をつむぐときに使用するはずみ車)、鉸具(かこ 例えば馬に鞍を取りつけるためのベルトを固定する金具)が発見された。
そのほかに南西部の周溝内から埋葬に際して行われた「おまつり」に使用された土師器(はじき)、須恵器(すえき)がまとまって見つかっています。
この発掘調査では、まずこの古墳が方形3段積みの古墳ではなく、円墳であったこと、「おまつり」に使用された土器から古墳の築造年代は古墳時代中期の5世紀後半であること、古墳の墳丘は、周溝の土を盛り上げその上に薄川の石を積みあげて造った積石塚古墳であることなどがわかった。
※以上、「新編 松本のたから」27ページより引用。

今日は山辺付近での用足しがあり行ってきました。
ついでにという事になりましたが、以前から一度行ってみたいと思っていた、市内唯一の積石塚(つみいしづか)古墳である針塚古墳を見てきました。
出土品は考古博物館や山辺歴史民俗資料館に保管展示されているようですので、また時間をつくって行ってみたいと思います。



「発掘された松本2010」で見た針塚古墳から出土した土器棺


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「ハニフ1」号

2016-10-15 | 松本市の伝統を感じる建造物等
松本市の伝統を感じる建造物等 「ハニフ1」号

「ハニフ1」号は甲武鉄道が1904年に「ハ9」号として製造した電車で、甲武鉄道は後に国に買収されましたが、「ハ9」号はそのまま使われ続けていたそうです。
その後、信濃鉄道(現在のJR大糸線)に払い下げられ、更にその後「筑摩電鉄(現在のアルピコ交通株式会社)」が買い取り「ハニフ1」として同電鉄の上高地線で1922年から1948年まで営業運行していました。
「ハニフ1」号は廃車となるはずでしたが、時の松本電鉄5代目社長滝沢知足氏が廃車中止を決定し、以降、新村駅の車庫で保管されてきました。

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

この「ハニフ1」号は、2007年10月14日にさいたま市に開館した鉄道博物館に寄贈され、展示されています。
鉄道博物館の収蔵品の中で5番目に古いものだということです。

≪ハニフ1号の概要≫
 車体は車輪やバネなど一部を除いて木製。
 4輪。
 屋根の上に架線から電気を受けるポールが2本。
 連結せずに1車両で動いて客を乗せた。
 専用軌道を走る現存の電車では日本最古。
 全長10メートル、重さ7.1トン。
 車内は天窓があって明るい。



「ハニフ1」号に書かれていた文字とプレート
「ハニフ1」号の内部
「ハニフ1」号の床下


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「ハニフ1」号に書かれていた文字

2016-10-15 | 松本市の伝統を感じる建造物等
松本市の伝統を感じる建造物等 「ハニフ1」号

「ハニフ1」号に書かれていた文字とプレート類

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号

「ハニフ1」号


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「ハニフ1」号の内部

2016-10-15 | 松本市の伝統を感じる建造物等
松本市の伝統を感じる建造物等 「ハニフ1」号

「ハニフ1」号の内部

「ハニフ1」号の内部

「ハニフ1」号の内部

「ハニフ1」号の内部

「ハニフ1」号の内部

「ハニフ1」号の内部


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「ハニフ1」号の床下

2016-10-15 | 松本市の伝統を感じる建造物等
松本市の伝統を感じる建造物等 「ハニフ1」号

「ハニフ1」号の床下

「ハニフ1」号の床下

「ハニフ1」号の床下

「ハニフ1」号の床下

「ハニフ1」号の床下

「ハニフ1」号の床下


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旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)

2012-04-25 | 松本市の伝統を感じる建造物等
旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫

今日は所用で信州大学旭町キャンパスに行ってきました。
ついでに、国の有形文化財に登録されることになった「旧松本歩兵第五十連隊糧秣庫(きゅうまつもとほへいだいごじゅうれんたいりょうまつこ)」を見てきました。
新聞などのデータによると、糧秣庫は広さ330平方メートルで赤れんが造り。


第五十連隊は徴兵された若者が戦地に行くまでの間、訓練を受けた部隊との事ですので、私の父もここでしばらく訓練を受けたのかもしれません。
戦争に関しては多くを語らなかった父です。
戦争に関しては多くを聞かなかった私です。

屋根に被さる様に咲く桜が平和な日本を象徴しているようでした。

コメント (4)
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