徒然なか話

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大名行列絵図から歴史を読み解く ~ 豊後街道・新堀鳥町入口 ~

2012-01-10 19:21:33 | 熊本


 大分県鶴崎剣八幡が所蔵する万延元年(1860)10月の肥後細川家13代当主細川韶邦(ほそかわよしくに)公の初御入部を描いた「御入国御行列之図」の中には上掲のように、ゴールもほど近い京町の新堀に差し掛かった絵図が含まれている。この絵図を眺めているといろんな歴史を語りかけているようでとても興味深い。
 まず、右上に朱文字で「新堀鳥町入口」と書き込まれている。この地点が今日のどこに当るのかがわからなかった。なぜなら鳥町という地名は今日残っていないからだ。古い文献を調べていくうち、京町2丁目を南北に走る県道303号線(旧国道3号線・豊前街道)のひとつ西側の平行した通りを「鳥町」と呼んでいたらしいことがわかってきた。熊本市歴史文書資料室にも調査を依頼していたが、間違いないという返事をいただき裏もとれた。ちなみにもう一つ西側の通りを「裏鳥町」と呼んでいたらしい。そして「新堀鳥町入口」と書かれた下には藤崎宮から出迎えに来た神職者らしい人が立っている。この頃藤崎宮はまだ今の藤崎台球場のところにあり、この辺りで出迎えるのが慣わしとなっていたのだろう。それから褌一丁の人足8人に担がれた九曜の御紋の赤い布で覆われた御銀櫃が運ばれている。江戸からの長い道中でかかる経費はすべて金銀によるキャッシュ払いだったので、膨大な量の金銀を運ぶ必要があった。全部の絵図を見てみると御銀櫃と思しきものが五つ、これを運ぶ人足が交代要員も含めて42名ほどいるようだ。そしてこれを取り仕切るのが細川家御用達の人入れ屋・山鹿屋だ。山鹿屋の名は、明治2年に起きたハーマン号沈没事件でも多くの肥後藩士とともに多くの人足の犠牲者を出し、東京両国の回向院に山鹿屋の名で慰霊碑があることでも有名だ。


観音坂を登ってきた御行列は鳥町入口で左折する。前方にはもう新堀御門が見えていたはずだ。上の絵の当時、前方右側の愛染院の他はほとんど武家屋敷だったと思われる。なお、加藤神社はまだ新堀に遷宮していない。


江戸時代後期、鳥町と呼ばれた京町の草分菅原神社前の通り