徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

肥後の殿様 考(その1)

2013-09-03 19:17:30 | 歴史
 花童の公演の都度、大分市から観に来ていただく“K”さんから、かつて肥後の飛び地であった大分市鶴崎や肥後の殿様への想いを綴った文章をお寄せいただいた。長文にわたるので2回に分けてご紹介したい。

 花童の舞踊を拝見して邦楽と邦舞の素晴らしさに感動を覚えるとともに、その環境も知りたく熊本の人、物、地理について非常に興味が湧き、浅学非才ながら調査、創文を行うことを志した。プログ「徒然なか話」をきっかけに、今にして知りえたことに感謝して考察したい。



 肥後細川の殿様が参勤交代する絵巻物を背景に、本條流家元である本條秀太郎先生が作詞・作曲しその直門本條秀美先生が唄う肥後の権勢が伝わる絵およぴロマン漂う音曲について改めて鶴崎と肥後との関連を確認する。
 その絵巻物が我が故郷大分市鶴崎に存在する剣八幡(右写真:細川光尚公造営)の所蔵するものであること。
1-1 鶴崎が肥後の飛び地であったこと。
 清正公が家康より関ケ原合戦の褒美として加増された分(小西行長の改易に伴い所領であった肥後南部を賜るが)相良藩の所領と、天領である天草を除外とし、瀬戸内海に面した海上交通の要所になるであろう鶴崎の重要性を認識して、豊後の地(2万3千石)があたえられた。その飛び地は久住、今市、野津原、鶴崎、佐賀関にわたりその遺構が処々に現在でも残っている。
  丸山八幡宮  - 野津原町 清正公創建
  今市宿の石畳 - 参勤交代の肥後街道
  潮音山教尊寺 - 佐賀関 細川光尚公の協力による
  早吸日女神社 - 佐賀関 清正公の再建
 大野川、乙津川の治水工事を行い、港(堀川)を作って船着き場とした。また町割りを行い近世まで船頭町、鉄砲町、御加子町、城町、判出の名称が残っていた。
 立地にも恵まれていたため人が集まり多くの物資が交易され、職種も造り酒屋、質屋、宿屋等多様であり、軒数も多く城下町の様相を呈していた。
 瀬戸内海を往来する船の発着でにぎわい鶴崎の町は海陸交通の大事な拠点となった。
(次回につづく)