徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

大工善蔵を追体験

2015-06-03 21:13:17 | 歴史
 熊本城築城に携わった高瀬(現玉名市)の大工棟梁・善蔵(ぜんぞう)が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書が残されている。肥後北部の方言で書かれたこの文書の一部を現代文に訳してみた。これは3年ほど前、津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」の中で原文が紹介された時、特に興味深い部分を訳したものだが、今日、あらためて読み直しながら、これまでに撮ったゆかりのスポットの写真を合わせて眺めていると、まるで大工善蔵の追体験をしているような気がしてきた。

 清正公は初め、築城候補地として杉島(加勢川と緑川に挟まれた中洲)に目をつけられた。しかし、そこは摂津守(小西行長)の領地とあって残念ながら取りやめられた。私はその頃からお供をして回ったが、結局最後の場所が茶臼山だった。お城が建つとなれば当然、町も合わせて創らなければならないので、さてお城の建て方の吟味ということになった。そうなると築城の考え方が重要。安土と大坂などのお城の組み合わせの見積もりをしなくてはならない。清正公から申し付けられたので、私の父を連れて各地の視察に出立した。
 高麗の御陣(文禄・慶長の役)の時には随分と苦しい目に遭ったけれど、この、よそのお城をいくつも見て回った時も並大抵の苦労ではなかった。図引き(設計)は父がすることになったが、熊本へ戻ってからいよいよ茶臼山の図引きということになった時、岩野の御武家・宗久隆様がこの役に就かれた。
 町は下津棒庵様が図引きの役、お城の図引きが出来上がった後に、それを清正公が飯田覚兵衛様、森本儀太夫様たちと知恵を出し合いながら長い議論をされたことを憶えている。お城が茶臼山手に決まってから、まず山の地ならしである。これが大事で、その次に材木と石の詮議。これはとても骨が折れた。この他、瓦焼きは江戸より下された飯田山の下で焼かせられた。材木は阿蘇、菊池、茶臼山周辺、権現山などから切り出しになり、石は六甲山、祇園山、岡見岳、津浦あたりからも取り寄せられた。木馬道から木と石を運んだが、車があったからこそ出来たのである。男山と女山の境目を断ち切って元の地形から茶臼山を引き直された大仕掛けは初めの城(隈本城)より壮大な普請であった。



加藤清正が最初に築城候補地とした杉島(杉島御船手から向う岸の川尻御船手を望む)


この坂を下ったところに重臣の下津棒庵の屋敷があったので棒庵坂と呼ばれている。


重臣の飯田覚兵衛が管理したことから飯田丸と呼ばれる五階櫓


重臣の森本儀太夫が預り管理していた櫓の跡


祇園山(花岡山)に残る、石切り出しの陣頭指揮を執った加藤清正の腰掛石