徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

あやめ咲く季節

2015-06-05 20:20:27 | 文芸
 花菖蒲が見ごろの季節となった。毎年、高瀬裏川の花菖蒲を見に行くのだが今年はまだ行っていない。この時期になると、僕は必ず読み返したくなる文章がある。それは若山牧水の「水郷めぐり」という紀行文だ。旅を愛し、酒を愛した若山牧水の短歌や俳句は日本各地で歌碑を見かけるが、彼の紀行文も捨てがたい。茨城県から千葉県に広がる水郷はかつて文人墨客たちを魅了した。この牧水の「水郷めぐり」の中でも後半の「あやめ踊り」が出てくるくだりを記してみた。「あやめ踊り」で踊られる曲が「潮来音頭」や「潮来甚句」である。

 豊津に帰った頃雨も滋(しげ)く風も加わった。鳥居の下から舟を雇って潮来へ向う、苫(とま)をかけて帆あげた舟は快い速度で広い浦、狭い河を走ってゆくのだ。ずっと狭い所になるとさっさっと真菰(まこも)の中を押分けて進むのである。真みどりなのは真菰、やや黒味を帯びたのは蒲(かば)だそうである。行々子(よしきり)の声がそこからもここからも湧く。船頭の茂作爺は酒好きで話好きである。潮来の今昔を説いて頻りに今の衰微を嘆く。
 川から堀らしい所へ入っていよいよ真菰の茂みの深くなった頃、ある石垣の蔭に舟は停まった。茂作爺の呼ぶ声につれて若い女が傘を持って迎えに来た。そこはM――屋という引手茶屋であった。二階からはそれこそ眼の届く限り青みを帯びた水と草との連りで、その上をほのかに暮近い雨が閉ざしている。薄い靄の漂っておる遠方に一つの丘が見ゆる。そこが今朝詣でて来た香取の宮であるそうな。
 何とも言えぬ静かな心地になって酒をふくむ。軽やかに飛び交しておる燕にまじっておりおり低く黒い鳥が飛ぶ。行々子であるらしい。庭ききの堀をばちょうど田植過ぎの田に用いるらしい水車を積んだ小舟がいくつも通る。我らの部屋の三味の音に暫く棹を留めて行くのもある。どっさりと何か青草を積込んで行くのもある。
 それらも見えず、全く闇になった頃名物のあやめ踊りが始まった。十人ばかりの女が真っ赤な揃いの着物を着て踊るのであるが、これはまたその名にそぐわぬ勇敢無双の踊りであった。一緒になって踊り狂うた茂作爺は、それでも独り舟に寝に行った。
 翌朝、雨いよいよ降る。

【霞が浦即興】
わが宿の灯影さしたる沼尻の葭の繁みに風さわぐ見ゆ
沼とざす眞闇ゆ蟲のまひ寄りて集ふ宿屋の灯に遠く居る
をみなたち群れて物洗ふ水際に鹿島の宮の鳥居古りたり
鹿島香取宮の鳥居は湖越しの水にひたりて相向ひたり
苫蔭にひそみつゝ見る雨の日の浪逆(なさか)の浦はかき煙らへり
雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ

※3年ほど前に掲載した記事を再編集し、再掲しました。