徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

藤田嗣治(レオナール・フジタ)の少年時代

2023-10-11 20:23:02 | 美術

「ここに藤田嗣治画伯 少年期を送る 明治27年~31年」

 久しぶりに出町・稗田町・池田町界隈を散歩した。稗田町の藤田嗣治画伯旧居跡はいつも必ず通過ポイントにしている。藤田画伯について書かれたネット記事などを読むと、よく画伯が熊本にいたのは「明治27年~31年」と書かれているのを見かける。おそらくこの石碑に「明治27年~31年」と刻まれているのを見てそう理解されているのだろう。実際には画伯は陸軍軍医だった父親の熊本鎮台赴任の明治21年(1888)に帯同し、明治32年(1898)までの10年間を熊本で過ごしているそうだ。「明治27年~31年」というのは石碑が建てられた場所にあった旧居に住んだ期間のことだ。
 画伯が熊本県師範学校附属小学校に入学したのは明治26年(1893)だが、ちょうどこの年に師範学校が藪ノ内から京町に移転したのに伴い附属小学校も京町に移転した。稗田町に転居したのは幼かった画伯の通学を考えてのことだったかもしれない。稗田町の家からは学校まで子供の足でも10分くらいで行ける。
 その熊本県師範学校附属小学校はその後変遷を重ね、現在は熊本大学教育学部附属小学校となった。藤田画伯は僕の大先輩にあたる。13年前、随分前から聞いていた附属小学校の校長室に飾られた藤田画伯の作品を一度見てみたいと思い、かつてこの学校にも勤めていた母を伴って校長室を訪ねたことがある。学校創立135年を記念して、大金を投じて修復を行なったという。1点は「ライオンのいる構図」の中の「男の像」(下の絵)で昭和3年(1928)の作。トレーシングペーパーに鉛筆で描きこまれている。もう1点は墨で描いた「女性像」(右上の絵)で昭和4年(1929)の作。なぜここにあるかというと、昭和4年(1929)9月、画伯は17年ぶりにパリから当時の妻ユキ(リュシー・バドゥー)を伴って帰国する。そして東京、大阪、福岡で個展を開いたが、福岡の会場に附属小学校の関係者が画伯を訪問。熊本に強い望郷の念を抱いていた画伯はその場で作品2点を母校に寄贈することにしたというわけだ。「女性像」の左上隅には
「為 記念 報恩 或寄贈 昭和四年十一月二十七日(誕生日)
 熊本縣第一師範学校附属小学校 小学校卒業生 藤田嗣治」
と書き込まれている。


赤い点線で囲った部分の下書きが附属小学校校長室に飾られている。