徒然なか話

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俗説「檜垣のこぼし坂」

2024-01-18 20:44:21 | 歴史
 昨日の熊日新聞ローカル版の連載コラム「坂道を上れば」に「桧垣のこぼし坂」が取り上げられていた。内容的には既知のことがほとんどだったが、10数年前の蓮台寺訪問をきっかけに、檜垣媼の功徳の道のことを調べ始め、現地訪問や資料調べなどを通じて得た知識をブログに随時載せてきた。そこで一度これまでの概要をまとめてみることにした。

 一昨年、熊本市で行われた「第4回アジア・太平洋水サミット」で、天皇陛下がオンライン講演をされ、平安時代の閨秀歌人である檜垣嫗の歌
 年ふれば我が黒髪も白河のみづはくむまで老いにけるかな
を「水の都くまもと」のたとえに引かれた。
 檜垣媼は白川の畔、今の蓮台寺辺りに結んでいた草庵から、篤く信仰する岩戸観音へ閼伽の水を供えるため、水桶を担いで四里の道を日参したと伝えられている。その道の最大の難所が後世に「檜垣のこぼし坂」と呼ばれた山道である。高齢の檜垣媼の足もとがふらつき、水桶の水をこぼしこぼし登ったので誰が言ったか「檜垣のこぼし坂」と呼ばれたという。檜垣媼は室町時代に世阿弥が創作した能「桧垣」のモデルとなったが、世阿弥の能では百歳に及ぶと思しき老女として登場するので、こぼし坂の話もさもありなんと思われるのだが、日本古代中世文学の研究家である妹尾好信教授(広島大学)によれば、「後撰集」に選ばれたこの歌は、旧知の藤原興範と再会した時、挨拶として詠まれた当意即妙の歌なのであって、決して実際に彼女が「みずはぐむ」老女であったわけではなく、女盛りを過ぎた年齢になったことを誇張して言ったまでで、実際の年齢は三十代かせいぜい四十歳くらいだったのではないかという説を唱えている。檜垣媼が藤原純友の乱のあおりを受けて零落し、肥後白川の畔に流れてきたのはまだ三十代の頃という説もあり、水桶からこぼしこぼし登ったという「檜垣のこぼし坂」の伝説にも疑問符が付く。しかも、檜垣媼は後年、岩戸観音近くの「山下庵」に移り住んだとも伝えられている。
 また、異説もあって、その昔、この坂を登ったところに寺があり、その寺の小法師(こぼし)さんがよくその坂を上り下りしていたので「こぼし坂」と呼んだという俗説もある。
 歴史上の人物には後世の人々によって創造された話が伝説となっていることも多いが、それもまた歴史のロマンと言えるのかもしれない。
※上の写真は蓮台寺に伝わる檜垣媼像


金峰山を望みながら旧松尾東小学校の前を通り過ぎ、ひたすら急坂を登っていく。


上松尾の集落を通り抜け


みかん畑の中を登って行くと


「桧垣のこぼし坂」の標柱が立てられた地点に着く。


標柱の辺りには山水が湧いているが、かつてここには小さな泉があった。


標柱には「桧垣のこぼし坂」の由来が書かれている。




   ▼創作舞踊「檜垣水汲みをどり」