徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

徳川宗春のゆめのあと と「伊勢音頭」

2024-01-26 21:08:55 | 歴史
 自分がYouTubeにアップした動画が意外なところに貼り付けられているのを発見すると、嬉しさとともに「なんで?」と訝しむ気持が相半ばする。
 そんな例の一つが「徳川宗春の実像」と題するサイトのブログに貼られた「伊勢音頭」の映像である。このサイトの主宰者はどなたかわからないが、おそらく名古屋の方なのだろう。
 徳川宗春といえば徳川吉宗のライバルと目された大名ということは「暴れん坊将軍」程度の知識しかない僕でもわかっているが、このサイトを走り読みさせていただくと、徳川御三家筆頭の7代尾張藩主となった宗春が、吉宗の緊縮財政政策に対し、地域活性化のため積極財政政策をとったそうだ。そして、宗春は新地を開いて設置した三つの遊郭(西小路遊廓・富士見原遊廓・葛町遊廓)に公許を与えた。そのうちの西小路遊郭は伊勢古市から来た経営者や遊女が主体だったらしい。いきおい伊勢色が強い遊里となったが、「伊勢は~」で始まる伊勢河崎の「河崎音頭」がヒットし「伊勢音頭」と呼ばれるようになったという。そんなわけで、西小路遊廓と「伊勢音頭」は切っても切れない関係になったというわけ。