徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

4年間の成長にあらためて驚く!

2012-01-16 22:41:05 | 音楽芸能
 ザ・わらべのあやのちゃんのお母さんから面白いビデオを何点かご提供いただいた。そのうちの一つは4年前になるが、2007年12月24日に行われた、祇園橋のたもとにあるポケットパーク(熊本市細工町5丁目)の「おてもやん像」除幕式の時の映像だ。当時、小学5年生(10歳)と4年生(9歳)だったザ・わらべの3人が「おてもやん像」の前で可愛い踊りを披露している。若干心もとないところもあるが、基本はすでに身に付けているようだ。これと最近の映像とを比較して見ると、この4年間の彼女たちの成長と踊りの上達ぶりがとてもよくわかって面白い。




昨年11月の「秋のくまもとお城まつり」における踊り

謎の男 ~ 小山秀之進 ~

2012-01-15 19:07:16 | テレビ
 今日、何気なくまわしたチャンネル、BS-TBSで「謎の男~小山薫堂ひらめきの系譜~」という番組をやっていた。長崎の大浦天主堂やグラバー邸などを建てた小山秀之進の足跡を、脚本家の小山薫堂さんが辿るという内容のドキュメンタリーだった。実は小山秀之進は小山薫堂さんの高祖父にあたる方だそうだ。長崎の洋風建築は天草出身の建築家が建てたという話は以前にも聞いた憶えがあるが、随分昔で、しかも子孫の話などは一切なかったので名前も正確には憶えていなかった。今日の番組で小山秀之進の出自や彼が残した業績、また天草石が彼の建築にいかに使われたか等、よく理解できた。「くまもとサプライズ」プロジェクトや映画「おくりびと」などの脚本にみられる小山薫堂さんの柔軟で大胆な発想やきめ細かい仕事ぶりは、やはり高祖父の血を引いているのかもしれない。


「2011秋のくまもとお城まつり」で蒲島熊本県知事、幸山熊本市長とともに鏡開きに臨む小山薫堂さん


小山秀之進が手掛けた三角西港

乃木将軍のトラウマ

2012-01-14 23:32:39 | テレビ
 先日用事があって植木町へ行った。昨年末、3年にわたって放送されたドラマ「坂の上の雲」が完結したが、このドラマで、柄本明演じる乃木将軍が生涯のトラウマになったという向坂を久しぶりに回ってみることにした。200名の熊本鎮台歩兵第14連隊を率いて薩軍と戦った乃木少佐は、向坂における戦闘で連隊旗を持っていた河原林雄太少尉が戦死したため連隊旗を奪われるという屈辱を味わう。乃木は何度も自殺を図ったが、児玉源太郎に諌められた時の話はドラマの中でも語られていた。明治10年(1877)2月22日、官軍と薩軍が最初の戦闘を行った地点が植木天満宮周辺で、標識のみが西南戦争の名残をとどめる。旧豊前街道を少し南へ下ると河原林少尉が戦死した地点の標識と記念碑がある。おそらくほとんどの人が気付かずに通り過ぎてしまうだろう。135年前の出来事である。
※写真は西南戦争当時の乃木少佐(冨重写真所所蔵)




ザ・わらべ 上海に舞う!

2012-01-13 19:16:10 | 音楽芸能
 熊本県、熊本市、熊本大が中国・上海市に共同開設した「熊本上海事務所」の開所式が11日、蒲島郁夫知事、幸山政史市長、谷口功学長を始め、県の経済界からも多数が出席して現地で行なわれました。夜には市内のホテルでレセプションが行われ、熊本の伝統芸能を代表して少女舞踊団ザ・わらべが出演、華麗な舞を披露しました。今回はメンバーのうち、くるみちゃんが高校入試直前のため参加できませんでしたが、かえちゃんとあやのちゃんの中2コンビが立派に舞台を務め、出席者の大きな拍手を浴びていました。

(上村敏子さんのレポート)


残念だった「ひるブラ」!

2012-01-12 19:46:47 | テレビ
 NHKお昼のバラエティ番組「ひるブラ」は昨日と今日は熊本。昨日の水前寺公園に続いて今日は熊本城の城下町、新町と古町界隈だったのだが、始まった途端に緊急地震速報が入った。何ぶんにも生放送。有田雅明アナとリポーターの夏川純が、スタジオにいるコメンテーターの細川茂樹に洗馬橋を紹介しようとしたその時だった。何度か中断があり、再び予定のプログラムに戻ったが、多分合わせて5分ほどのカットされた内容は何だったのだろう。地震速報が最優先だからしかたないとはいえ、見ていた僕もイマイチ気分が乗らず、残念な放送となってしまった。せっかくの全国放送だったからまたいつか機会があればいいが。

NHK大河ドラマ「平清盛」をめぐる映像論争!

2012-01-11 18:48:31 | テレビ
 今年のNHK大河ドラマ「平清盛」の映像について、兵庫県の井戸敏三知事が「鮮やかさがなく、薄汚れた画面ではチャンネルを回す気にはならない」と酷評したことが論議を呼んでいる。兵庫県は大輪田泊や福原京など、平家ゆかりの観光スポットがあるため、大河ドラマを観光振興の目玉にしようとした目算が外れかねないということのようだ。初回の視聴率が意外と低かったこともあって黙ってはいられなかったのだろう。実は熊本も五家荘や五木村に平家落人伝説があり、このドラマで観光振興を図ろうとしていると聞いているので他人事ではないのだが。しかし何と言ってもまだ1回放送しただけだし、第一、視聴率が低かったのはそれが理由じゃないと思う。国民的人気のある坂本龍馬を描いた「龍馬伝」ですら期待したほどの視聴率は取れなかった。ハッキリ言って平清盛は日本人にはあまり人気がない。これからよっぽどのテコ入れをしない限り、高視聴率は望めないだろう。一方のNHKの言いぐさもふるっている。「リアルさを追求した映像表現・・・」だそうな。プログレッシブカメラやメーキャップも含め、薄汚くすることがリアルだとでも言うのだろうか。「お前はその時代を見たんか!?」とツッコミたくなる。まぁ、今後どう展開しようとあまり興味はないのでどうでもいいのだが。市川雷蔵様の平清盛をまた見たくなった。

大名行列絵図から歴史を読み解く ~ 豊後街道・新堀鳥町入口 ~

2012-01-10 19:21:33 | 熊本


 大分県鶴崎剣八幡が所蔵する万延元年(1860)10月の肥後細川家13代当主細川韶邦(ほそかわよしくに)公の初御入部を描いた「御入国御行列之図」の中には上掲のように、ゴールもほど近い京町の新堀に差し掛かった絵図が含まれている。この絵図を眺めているといろんな歴史を語りかけているようでとても興味深い。
 まず、右上に朱文字で「新堀鳥町入口」と書き込まれている。この地点が今日のどこに当るのかがわからなかった。なぜなら鳥町という地名は今日残っていないからだ。古い文献を調べていくうち、京町2丁目を南北に走る県道303号線(旧国道3号線・豊前街道)のひとつ西側の平行した通りを「鳥町」と呼んでいたらしいことがわかってきた。熊本市歴史文書資料室にも調査を依頼していたが、間違いないという返事をいただき裏もとれた。ちなみにもう一つ西側の通りを「裏鳥町」と呼んでいたらしい。そして「新堀鳥町入口」と書かれた下には藤崎宮から出迎えに来た神職者らしい人が立っている。この頃藤崎宮はまだ今の藤崎台球場のところにあり、この辺りで出迎えるのが慣わしとなっていたのだろう。それから褌一丁の人足8人に担がれた九曜の御紋の赤い布で覆われた御銀櫃が運ばれている。江戸からの長い道中でかかる経費はすべて金銀によるキャッシュ払いだったので、膨大な量の金銀を運ぶ必要があった。全部の絵図を見てみると御銀櫃と思しきものが五つ、これを運ぶ人足が交代要員も含めて42名ほどいるようだ。そしてこれを取り仕切るのが細川家御用達の人入れ屋・山鹿屋だ。山鹿屋の名は、明治2年に起きたハーマン号沈没事件でも多くの肥後藩士とともに多くの人足の犠牲者を出し、東京両国の回向院に山鹿屋の名で慰霊碑があることでも有名だ。


観音坂を登ってきた御行列は鳥町入口で左折する。前方にはもう新堀御門が見えていたはずだ。上の絵の当時、前方右側の愛染院の他はほとんど武家屋敷だったと思われる。なお、加藤神社はまだ新堀に遷宮していない。


江戸時代後期、鳥町と呼ばれた京町の草分菅原神社前の通り


なぜ山田洋次の映画を愛してやまないのか・・・

2012-01-09 22:40:27 | 映画
 今夜のBSプレミアム「山田洋次 50年の時が過ぎて(前編)」を見ながら、僕はなぜ山田洋次の映画が好きなのだろうかとあらためて考えていた。「男はつらいよシリーズ」を始め、「息子」「家族」「故郷」「同胞」「幸福の黄色いハンカチ」「遥かなる山の呼び声」「たそがれ清兵衛」「学校シリーズ」等々、数え上げればきりがない。よく言われるのは「山田映画には失われつつある日本の原風景が映っている」とか「その時代、時代が切り取られて映り込んでいる」など。ただ、山田監督に言わせれば、時代を切り取るとかの意思はなく、ただ面白い映画を作ろうと思っただけだという。僕にはもう一つ、重要な要素があることに気が付いた。それは、自分自身のこれまでの人生と見事なまでにシンクロしているのだ。「男はつらいよ」第1作が公開されたのが1969年、僕が社会人になった時期と一致する。そして上に挙げたような各映画の中には、僕が右往左往しながら社会人として歩き始め、やがて結婚して家庭を作り、子供ができ、家族帯同しながらの転勤、家族との別離などといった人生経験を思い起こさせるシーンが、その時代背景とともに描かれているのである。それはきっと僕に限らず、高度成長期からバブル時代、そしてバブル崩壊へと移り変わる時代に生きてきた人たちに共通する想いなのかもしれない。齢80を数える山田監督が次はどんな社会や家族の姿を描いて見せてくれるのかとても楽しみだ。

映画「同胞(はらから)」(1975)より倍賞千恵子さんが歌う「ふるさと」

ドラマ「開拓者たち」

2012-01-08 20:34:05 | テレビ
 元日に見逃したBSプレミアムのドキュメンタリードラマ「開拓者たち」の第1回目(再放送)と第2回目を観る。話には聞いていたが、やっぱり映像で見るとその事実の重さに胸が痛くなる。歴史に名を残した英雄たちを描くドラマもいいが、僕はやっぱりこんな名もない人たちが辿った運命を描いたドラマの方がリアリティがあって好きだ。80年代の初め、僕は那須高原には仕事で毎日のように登り、あちこち巡ったが千振地区には行ったことがない。今はそれが残念でならない。僕の職場の同僚だった女の子が千振地区の隣の地区の酪農家に嫁に行った。元気でいるだろうか。ドラマを見ていて急に気になりだした。このドラマには満島ひかりを始め、石田卓也、徳永えりら、僕が今期待している若手が何人も出演しているのも楽しみだ。彼らが中高年までを演じるこのドラマは彼らにとっていい経験になるだろう。
 トリヴィアを一つ。史郎役の石田卓也と結ばれることになる恵子役の佐津川愛美。実はこの二人、映画「蝉しぐれ」では遂に結ばれることのなかった文四郎とふくのコンビなのである。何の関係もないがなぜかホッとした。

野口雨情と“よへほ節”

2012-01-07 23:31:28 | 音楽芸能
 毎年8月山鹿市で行われる山鹿灯籠祭で主に歌い踊られるのが「よへほ節」。明治時代の初期頃から歌われ始めたといわれるが、現在歌われている歌詞は昭和8年(1933)に野口雨情によって改作されたものだ。オリジナルはというと下のように、随分と下世話な内容になっている。湯の町山鹿を象徴する唄にすべく、大作詞家・野口雨情に改作をお願いした先人たちの思いはよく理解できる。新民謡の創作や揮毫行脚などで熊本にも度々訪れていた野口雨情にとっても興味ある仕事だったろう。ところで「よへほ」の語源については、熊本弁の「酔え(へ)、ほー」からきたのではないかという説が有力のようだ。「ほー」というのは熊本では他人に何かを促す時によく使われる言葉だ。つまりお酒を勧めているわけだ。そのことから、この唄はもともと酒席、いわゆるお座敷唄として歌われていたらしいという。だから当然歌の内容も下世話なものだったのだろう。この唄をちょっぴり上品にリメイクし、山鹿伝統の燈籠祭と結び付け、さらに戦後になって女性の頭に燈籠を乗せた灯籠踊りを考案したことが、山鹿灯籠祭を今日、全国区の祭りに押し上げた。その起点は野口雨情による改作だったということができるだろう。

【現在のよへほ節】
ぬしは山鹿の骨なし灯籠 ヨヘホ ヨヘホ 
骨もなけれど肉もなし ヨヘホ ヨヘホ
洗いすすぎも鼓の湯籠 ヨヘホ ヨヘホ 
山鹿千軒たらいなし ヨヘホ ヨヘホ
心荒瀬の蛍の頃に ヨヘホ ヨヘホ
溶けし想ひの忍び唄 ヨヘホ ヨヘホ
山鹿湯祭り月さえおぼろ ヨヘホ ヨヘホ
花は夜桜袖に散る ヨヘホ ヨヘホ
袖にほんのり湯の花も香る ヨヘホ ヨヘホ
山鹿湯の町 忘らりょうか ヨヘホ ヨヘホ
肥後の小富士を 吹き来る風に ヨヘホ ヨヘホ
立つは浮名と 湯のけむり ヨヘホ ヨヘホ
山鹿灯籠は 夜明かしまつり ヨヘホ ヨヘホ
町は灯の海 人の波  ヨヘホ ヨヘホ

【オリジナルのよへほ節】
ぬしは山鹿の骨なし灯籠 ヨヘホ ヨヘホ
骨もなければ肉もなし ヨヘホ ヨヘホ
裏の山椒の木や仏か神か ヨヘホ ヨヘホ
忍び男のかげかくす ヨヘホ ヨヘホ
今宵忍ぶなら裏からおいで ヨヘホ ヨヘホ
表くんぐり戸ガラガラチャン音がする ヨヘホ ヨヘホ
裏の窓からこんにゃく投げて ヨヘホ ヨヘホ
今夜来るとの知らせかな ヨヘホ ヨヘホ
逢ひに来たもの何のただかへそ ヨヘホ ヨヘホ
裏の割木でどやてやれ ヨヘホ ヨヘホ
松の枯葉アレ見やしゃんせ ヨヘホ ヨヘホ
私もあの世に二人連れ ヨヘホ ヨヘホ


コリオグラファー ~ デヴィッド・ウィンターズ ~

2012-01-06 17:15:38 | 音楽芸能
 最近では踊りと言えば日本舞踊しか見なくなってしまったが、僕がもともと踊りに興味を持ったのは、同世代の多くがそうであったように映画「ウエスト・サイド物語」がきっかけだった。自他ともに認める映画少年だった僕は、映画雑誌「スクリーン」を毎号隅から隅まで読破していて、この映画についても見る前から多くの情報を仕入れていた。その中で僕が注目したのはジェッツの一員、A-ラブを演じるデヴィッド・ウィンターズ。数少ないブロードウェイ・ミュージカル版「ウエスト・サイド物語」にも出演している凄い踊り手だと知った。だから公開された映画を見た時も、僕の視線はナタリー・ウッドでもリチャード・ベイマーでもジョージ・チャキリスでもなく、デヴィッド・ウィンターズを追っかけた。それからしばらくしてディスコブームがやってきた。久しぶりにアメリカのTVディスコ番組で彼の姿を見た。コリオグラファー(振付師)として、すっかりディスコ・カルチャーの旗手のような存在になっていた。その後も映画やTVでコリオグラファーとしてはもちろん、プロデューサーやディレクターとしても活躍したようだ。おそらく彼は今日のヒップホップへと繋がるアメリカにおけるダンスの系譜の中で重要な役割を果たした一人に違いない。


映画「ウエスト・サイド物語」右から3人目がデヴィッド・ウィンターズ


エルビス・プレスリーとアン・マーグレットが共演した「ラスベガス万才」
この映画で振付を担当したデヴィッド・ウィンターズが一瞬登場する

母の入選 ~ 熊日書道展 ~

2012-01-05 15:16:36 | 美術
 今日から熊本県立美術館で熊日書道展が始まった。今回初めて母の作品が入選したというので見に行った。作品は万葉集から選んだ2首を続けて書いたものだ。普段わが家で書いた習作は何度も見ているが、こんな立派な会場でちゃんとした額に納まっているのを見ると母の作品とは思えない。



【前半部分】
「梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋しけむかも」
(あづさゆみ ひきとよくにの かがみやま みずひさならば こほしけむかも)
作者:鞍作益人(くらつくりのますひと)
意味:丕基(ひき)の国 豊国の鏡山、この山を久しく見なくなったら、きっと恋しく思うにちがいない。

【後半部分】
「昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり」
(むかしこそ なにはゐなかと いはれけめ いまはみやこひき みやこびにけり)
作者:藤原宇合(ふじわらのうまかい)
意味:昔は「難波は田舎」と言われたが、今は難波に都を造営しており、すっかり都会らしくなりました。

母と曾孫たち

今、話題のシンガー メリッサ・クニヨシちゃん!

2012-01-04 16:38:14 | 音楽芸能
 今、YouTubeで大人気のメリッサ・クニヨシちゃん。彼女はブラジル、サンパウロに住む日系ブラジル人。年齢はまだ8歳か9歳らしい。ブラジルの人気テレビ番組「ラウル・ジル」に出演して大絶賛を受け、ブラジルで人気に火が付いたという。この番組には何度か出演してポルトガル語の歌も歌っているが、僕にとってはやっぱり日本語で歌った「ハナミズキ」や「瀬戸の花嫁」が絶品。彼女はほとんど日本語は話せないそうだが、やはり血のなせるわざか、綺麗な発音の日本語が素晴らしい。地球の裏側で日本人の血を引く小さな女の子が歌う「ハナミズキ」や「瀬戸の花嫁」を聴いていると、あらためて日本の歌の良さがわかり、なぜか感動して涙が出てしまう。

♪ハナミズキ



♪瀬戸の花嫁

酒井恭次先生のこと

2012-01-03 23:52:48 | その他
 毎年正月になると、とても気になる年賀状が何枚かある。そのうちの1枚が酒井恭次先生の年賀状だ。酒井先生は僕がブリヂストン在職時、ずっとお世話になった方で、横浜工場の産業医を永年務めておられたお医者さんである。今年91歳になられる。先生からの年賀状を拝見すると「あゝまだご健在だったか!」とホッと胸をなでおろす。入社してすぐに新入社員研修を受けたのが横浜工場だったので、その時からお世話になり始め、もう42年が過ぎた。僕が横浜にいたのはその新入社員研修の半年間だけだったが、その後も仕事の上で先生との関係は続いた。最も濃密な関係だったのは僕が本社の労働安全衛生部門にいた時だった。その頃すでにブリヂストンにとどまらず、産業医学の面で幅広く活躍されていた酒井先生には、高齢化が進んでいた社員の健康管理施策を策定するにあたり、いろいろ教えを請うことが多かった。そして夜になると必ず横浜の街に連れて行っていただき、何軒も飲み歩いたものだ。僕が退職してからはほとんど年賀状のやりとりだけになったが、必ず近況が書き添えてあった。その書き添えられる言葉が、ここ数年、戦時中の話が多くなった。今年の年賀状にも「昭和17年10月、西部16部隊に入隊した・・・」と書き添えられていた。西部16部隊とはかつて熊本にあった日本帝国陸軍の部隊である。先生はおそらく、僕のことを考えてできるだけ共通の話題になるように、熊本にいた頃の話を書かれたのかもしれない。そんな心配りをされる姿を想像したら、年賀状だけでなくもっとまめにお便りをしなければ、と反省した一日だった。

初詣 2012

2012-01-02 16:09:00 | その他
 今日2日は毎年恒例、加藤神社への初詣へ孫たちと一緒に出かけた。ついこの前、初詣したような気がするが、もう1年経ったとは・・・。とにかく時の過ぎるのが早く感じられる。昨年は元日が雪、2日は快晴と極端な天候の変化があったが、今年は元日、2日ともハッキリしない曇り空。しかし今年も人出は多い。やっぱり昨年があんな年だったので、平穏無事を祈って参拝する人が多いのかもしれない。今年も破魔矢を買い、二の丸公園で記念撮影をしながら帰った。