徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

織田信長と幸若舞

2015-06-15 21:49:54 | 音楽芸能



 福岡県みやま市の大江に唯一残る幸若舞が今日まで生き延びてきたのは、明治末期に文学者で芸能史家でもある高野辰之が大江を訪れたことが与って力があったという。今年1月の大江天満神社における奉納舞でもそんな説明があった。
 その高野辰之が大正4年に出版した「歌舞音曲考説」には、「幸若舞曲」という章が設けられているが、その中には室町季世の文化などを記した文献に見える幸若舞にまつわる話も紹介されており、その中にこんな話もあった。
 幸若舞は「」に偏ったもので、室町から江戸初期にかけて、武家には能(謡曲)よりも喜ばれた。ことに信長はこの幸若舞を好んだようで、天澤という清洲に住む僧が甲斐の国を訪れた時、武田信玄から信長の数寄は何かと聞かれ、「幸若舞と小歌」で、中でも「敦盛」は自分でも舞われると答えたという話とか、鷲津砦・丸根砦にて今川義元に攻めかかる時、この「敦盛」を舞ってから身支度を整え出陣したという話などが紹介されている。もっとも当時の武将たちはみな幸若舞を好んでいて、徳川の時代に入ってもより幸若舞の方が格上とみなされていたという。

※右の絵は「安田靫彦 出陣の舞」


御田植祭あれこれ

2015-06-14 21:49:00 | 歴史
 先週の土曜日に熊本城稲荷神社の御田植祭を見に行った。
柳田國男の故郷七十年」の中に「稲荷信仰」について書かれた一節がある。

 ――各地の農村にある稲荷信仰は、もともと田の神への信仰から発生したものである。東京のように都会でも「伊勢屋、稲荷に、犬の糞」と、多いものの譬えにひかれるようになったのは、京都伏見の稲荷神社が、足利の末期に考え出した一種の政策に基くものであった。――

 また、お稲荷さんと狐が結びついたのは、は春先に山を下りて来る田の神の先導をつとめる神使とみなされていたからとも述べている。
 そもそも「いなり」の語源は「稲生り」から来ているといわれるが、阿蘇神社の御田植祭でよく知られる、神膳をいただいて運ぶ女性たち「宇奈利(うなり)」も語源は同じではないかという説もあるそうだ。


熊本城稲荷神社の御田植祭


阿蘇神社の御田植祭における宇奈利

火の国旅情

2015-06-13 20:14:14 | 音楽芸能
 近年、KKT(熊本県民テレビ)が番組の特別企画で「熊本県民歌」として、35番までのフルバージョンDVDを発売し、再び注目された。作られたのは昭和50年代の初めだから、もう40年近く前。熊本出身の作曲家・岩代浩一のプロデュースによる。作詞は岩代浩一と中沢昭二、作曲は岩代浩一が手掛けた。
 なお、岩代浩一の長男・岩代太郎は作曲家、ピアニストとして、数々の映画音楽やテレビドラマの音楽で有名。

▼阿蘇を望む







天国に一番近い島

2015-06-12 21:31:29 | 音楽芸能


 僕が最も心に残る風景の一つがこれ。山口県下関市豊北町の角島大橋とその周辺の海の美しさは言葉に表現できないほど。これまで何度も映画やドラマの舞台にもなったが、あえて表現するなら「天国に一番近い島」。そんなタイトルの映画もありましたが・・・
 そして、この風景を眺めると必ず浮かんでくるのがこの曲。


リハーサルのはなし。

2015-06-11 14:18:49 | 音楽芸能
 僕は1976年の5月に熊本から防府へ転勤となった。当時、防府工場はまだ建設中で、工場立ち上げ要員と、先行して建設された材料工程の要員合わせて50名にも満たなかったと記憶している。それでも市民に早くなじんでもらうためには地域の行事には積極的に参加しようというのが工場長の方針だった。防府市では毎年8月に「防府おどり総おどり大会」という大きなイベントが行なわれる。この「総おどり」に参加することになり、僕が推進事務局を仰せつかった。そして「総おどり」の前夜祭として防府市公会堂で行われる「職場対抗のど自慢大会」にも出場しようということになった。各企業から3名づつが歌って総合点で優劣を競うわけだが、何せまだ少人数の職場。なんとか無理をお願いして二人は選んだのだが、みんな尻込みしてあと一人がどうしても見つからない。今さら出場をキャンセルするわけにもいかず、僕自身が出場せざるを得ない羽目となった。それでも前日のリハーサルまでは、どうせ素人の大会と高をくくっていた。ところがいざ会場の防府市公会堂の舞台に上がると、収容人員1800名のホールが当日は満員になりますよという司会者の説明にブルった。しかもである。いざリハーサルが始まるとほかの会社の出場者の歌の上手さにビックリ。まるでプロの歌手なみだ。ますます自信喪失。案の定、翌日の本番ではホールを埋めた大観衆の前で緊張しまくって散々な出来だった。
 しかし、この経験が翌年活きた。翌年春、第1期工事が終わり、対外的なお披露目となる開所式を行なうことになった。防府市民に親しみをもっていただくため、ブリヂストン吹奏楽団久留米を呼んで吹奏楽コンサートをやることになった。会場は同じ防府市公会堂。事前準備でいろいろ大変なこともあったが、それはさておき、演奏会当日は僕が進行係となり、司会をお願いしたテレビ山口の女子アナとのコンビでプログラムを進行して行ったのだが、前年の苦い経験もあってキューのタイミングや出演者への指示や気配りなど、ほぼうまく行った。舞台の袖から覗き見た満員のホールの光景は今でも忘れられない。

▼ザ・わらべのリハーサル風景

♪なにをくよくよ川端柳

2015-06-10 19:27:41 | 音楽芸能
 上村元三さんが Facebook の中で都々逸について語っておられたのでふと思い出した。

なにをくよくよ川端柳 水の流れを見てくらす

 これは坂本龍馬の作とも高杉晋作の作ともいわれる都々逸である。「柳に風」なんていうことわざもあるが、要するに「しなやかに おだやかに生きましょう」ということを言っているのだろうと勝手に解釈している。この歳になると妙にその言葉が染みてくるのである。
 この都々逸は、熊本ゆかりの俗謡「東雲節(ストライキ節)」にも歌い込まれていてなじみ深い。


♪なにをくよくよ川端柳 こがるるなんとしょ
 水の流れを見てくらす
 東雲の暁の鐘 ごんとつきゃ辛いね
 てなことおっしゃいましたかね

♪祇園山(花岡山)から二本木見れば 倒るるなんとしょ
 金は無かしま(中島) 家も質(茂七)
 東雲のストライキ さりとは辛いね
 てなことおっしゃいましたかね


赤米のはなし。

2015-06-09 20:35:29 | 歴史
 今朝の熊日新聞に、山鹿市鹿央町の米野岳小の5年生が、弥生時代に栽培されていた古代米の性質を受け継ぐ赤米の田植えをしたというニュースが掲載されていた。
 赤米はお赤飯のルーツであるとも言われているが、これは昭和33年に「神戸新聞」に連載された柳田國男の「故郷七十年」の中に述べられていた説がもとになっているらしい。しかし、柳田自身も述べているように明確な根拠があったわけではなさそうだ。
 縄文時代、日本に初めて伝わった米、邪馬台国や大和朝廷への献上米も主に赤米だったといわれているが、もともと赤米は、野生に近い稲から収穫されるもので、井原西鶴の「好色一代女」の中でも貧しき者の食物であるように書かれている。いずれにせよ、その起源や歴史についてまだまだ謎が多い。


「くまもと全国邦楽コンクール」 を見て

2015-06-08 12:51:04 | 音楽芸能
 昨日、くまもと森都心プラザで行なわれた「第21回くまもと全国邦楽コンクール」の結果は次のとおり。

 ▽最優秀賞 本條秀慈郎(三味線音楽、神奈川)
 ▽優秀賞  中島裕康(箏曲、茨城)
       後藤有子(同、福岡)
       久保田正知(尺八・笛音楽、広島)
 ▽奨励賞  大友美由奈(三味線音楽、神奈川)
       永池あかり(箏曲、東京)
       青木琳道(尺八・笛音楽、埼玉)
       小松亜未(箏曲、和歌山)


 僕にとってはなじみ深い本條秀太郎一門の本條秀慈郎さんが最優秀賞に選ばれたのは嬉しいことなのだが、実は筝曲の部の中島裕康さんの最優秀賞を願っていた。ここ3年間立て続けに出場したが、いずれも奨励賞どまり。今回こそ念願の最優秀賞に手が届くかと期待したのだが、惜しくも優秀賞にとどまった。
 今回、彼が選んだ曲は昭和26年に唯是震一によって作曲された「神仙調舞曲(しんせんちょうぶきょく)」の中から、第二楽章の「提灯行列」と第三楽章の「アイヌの子の踊り」。現代邦楽の代表的な曲の一つといわれるが、北海道出身の唯是のノスタルジーが、どこか懐かしいメロディーで表現される。演奏の出来も良かったと思っていただけにちょっと残念。ぜひまた挑戦してほしい。

▼中島裕康さん

わらべ と 清原さん と M君と

2015-06-08 10:58:16 | 友人・知人


 昨日、鶴屋ホールで行われた「第43回全日本きもの着付選手権大会熊本大会」の舞台を眺めながら感慨に浸っていた。
 僕が初めて ザ・わらべ に出逢ったのが6年前の10月。その時の新鮮な感動がずっと残っていて、翌年に入り、どうしても公演スケジュールが知りたくなり、いろいろ調べているうちにたどり着いたのが上村元三商店。後日、訪問して以来、今日までお付き合いいただいている。
 初めて元三さんを訪ねて行った時、驚いたのが、なんと僕が一番親しかった水球部の後輩M君の家の真ん前だったこと。その時は、彼が病で先立ってからあまり時が経っていなかったので、ひょっとしたら彼がここに呼んだのではないかと不思議な縁を感じたものだ。そのM君と高校の同級生で親友だったのが清原憲一さん。RKKのアナウンサーとしての活躍ぶりは知っていたし、母黌のプールにも時々顔を出し、水球部の後輩たちによく差し入れをしてくれていたのも知っていた。そのわらべと清原さんが同じ舞台に立っている。思わず、元気な頃のM君の顔が浮かんできて、なにか熱いものがこみ上げてきた。
※右の写真はM君が亡くなる2年ほど前、一緒に飲んだ時のスナップ。後ろに立つのがM君。

~長谷検校記念~ 第21回くまもと全国邦楽コンクール

2015-06-07 22:56:41 | 音楽芸能
 今日、くまもと森都心プラザプラザホールにて標記コンクールが開催された。
 コンクール詳報は後日掲載するとして、今回の熊本県関係の出場者のみ紹介しておきたい。
 いずれも筝曲の部に出場。


谷富愛美さん 「甦る五つの歌」


松下知代さん 「二十五絃筝曲「琵琶行」 ~白居易の興に效フ~」


村上徹さん(左) 「楓の花」

あやめ咲く季節

2015-06-05 20:20:27 | 文芸
 花菖蒲が見ごろの季節となった。毎年、高瀬裏川の花菖蒲を見に行くのだが今年はまだ行っていない。この時期になると、僕は必ず読み返したくなる文章がある。それは若山牧水の「水郷めぐり」という紀行文だ。旅を愛し、酒を愛した若山牧水の短歌や俳句は日本各地で歌碑を見かけるが、彼の紀行文も捨てがたい。茨城県から千葉県に広がる水郷はかつて文人墨客たちを魅了した。この牧水の「水郷めぐり」の中でも後半の「あやめ踊り」が出てくるくだりを記してみた。「あやめ踊り」で踊られる曲が「潮来音頭」や「潮来甚句」である。

 豊津に帰った頃雨も滋(しげ)く風も加わった。鳥居の下から舟を雇って潮来へ向う、苫(とま)をかけて帆あげた舟は快い速度で広い浦、狭い河を走ってゆくのだ。ずっと狭い所になるとさっさっと真菰(まこも)の中を押分けて進むのである。真みどりなのは真菰、やや黒味を帯びたのは蒲(かば)だそうである。行々子(よしきり)の声がそこからもここからも湧く。船頭の茂作爺は酒好きで話好きである。潮来の今昔を説いて頻りに今の衰微を嘆く。
 川から堀らしい所へ入っていよいよ真菰の茂みの深くなった頃、ある石垣の蔭に舟は停まった。茂作爺の呼ぶ声につれて若い女が傘を持って迎えに来た。そこはM――屋という引手茶屋であった。二階からはそれこそ眼の届く限り青みを帯びた水と草との連りで、その上をほのかに暮近い雨が閉ざしている。薄い靄の漂っておる遠方に一つの丘が見ゆる。そこが今朝詣でて来た香取の宮であるそうな。
 何とも言えぬ静かな心地になって酒をふくむ。軽やかに飛び交しておる燕にまじっておりおり低く黒い鳥が飛ぶ。行々子であるらしい。庭ききの堀をばちょうど田植過ぎの田に用いるらしい水車を積んだ小舟がいくつも通る。我らの部屋の三味の音に暫く棹を留めて行くのもある。どっさりと何か青草を積込んで行くのもある。
 それらも見えず、全く闇になった頃名物のあやめ踊りが始まった。十人ばかりの女が真っ赤な揃いの着物を着て踊るのであるが、これはまたその名にそぐわぬ勇敢無双の踊りであった。一緒になって踊り狂うた茂作爺は、それでも独り舟に寝に行った。
 翌朝、雨いよいよ降る。

【霞が浦即興】
わが宿の灯影さしたる沼尻の葭の繁みに風さわぐ見ゆ
沼とざす眞闇ゆ蟲のまひ寄りて集ふ宿屋の灯に遠く居る
をみなたち群れて物洗ふ水際に鹿島の宮の鳥居古りたり
鹿島香取宮の鳥居は湖越しの水にひたりて相向ひたり
苫蔭にひそみつゝ見る雨の日の浪逆(なさか)の浦はかき煙らへり
雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ

※3年ほど前に掲載した記事を再編集し、再掲しました。


古い唄と時代背景

2015-06-04 16:29:20 | 音楽芸能
 一昨日、交通センター前のおてもやん像がJR熊本駅新幹線口の方へ移設される話を掲載した。春日はおてもやんのモデルといわれる富永チモさんの故郷だからお里帰り、というような話をしたが、厳密に言うとチモさんは飽田郡横手手永の北岡村の生まれ。現在では春日一丁目の中に含まれるので、春日が故郷というのはあながち間違いとは言えないのだが、書いた後でチモさんが生きた時代の感覚ではちょっと違和感があるかもしれないなという気がした。
 今日では熊本を代表するキャラクターでもあるおてもやんは、実は熊本の人ではない。というと「エッ!」とお思いの方も多いと思うが、明治22年(1889)に熊本市が発足した頃はまだ、旧藩時代の城下町である「熊本」と隣接する飽田郡や飽託郡などの間には厳然とした区分があった。明治16年生まれの僕の祖母はよくそんな話をしていたものだ。春日村や横手村などが熊本市に編入されるのは大正10年(1921)のことだ。
 現に明治30年代に永田いねさんによって作られたという「民謡おてもやん」には、「熊んどんの夜聴聞詣り(よじょもんみゃあり)にゆるゆる話をきゃあしゅうたい」という歌詞がある。この「熊んどん」というのは「熊本の人たち」という意味である。おてもやんの歌詞はおてもやんと第三者(おそらく永田いね)の会話形式になっているが、この部分はおてもやん自身の台詞であろうから、あきらかに自分は熊本の人間ではないというニュアンスが含まれているのである。
 この様に、古い民謡などの歌詞は作られた時代背景を考えないと意味がわからなかったり、意味を取り違えたりする可能性がある。
 同じ熊本の唄で、「肥後手まり唄」こと「あんたがたどこさ」の歌詞も「肥後どこさ熊本さ」の部分を、今日的な感覚で「肥後=熊本」と考えてしまうと意味が大きく異なってくるのである。

▼イラストレーター野川ふきこさん作製のポスター

大工善蔵を追体験

2015-06-03 21:13:17 | 歴史
 熊本城築城に携わった高瀬(現玉名市)の大工棟梁・善蔵(ぜんぞう)が語った「大工善蔵より聞覚控」という古文書が残されている。肥後北部の方言で書かれたこの文書の一部を現代文に訳してみた。これは3年ほど前、津々堂さんのブログ「津々堂のたわごと日録」の中で原文が紹介された時、特に興味深い部分を訳したものだが、今日、あらためて読み直しながら、これまでに撮ったゆかりのスポットの写真を合わせて眺めていると、まるで大工善蔵の追体験をしているような気がしてきた。

 清正公は初め、築城候補地として杉島(加勢川と緑川に挟まれた中洲)に目をつけられた。しかし、そこは摂津守(小西行長)の領地とあって残念ながら取りやめられた。私はその頃からお供をして回ったが、結局最後の場所が茶臼山だった。お城が建つとなれば当然、町も合わせて創らなければならないので、さてお城の建て方の吟味ということになった。そうなると築城の考え方が重要。安土と大坂などのお城の組み合わせの見積もりをしなくてはならない。清正公から申し付けられたので、私の父を連れて各地の視察に出立した。
 高麗の御陣(文禄・慶長の役)の時には随分と苦しい目に遭ったけれど、この、よそのお城をいくつも見て回った時も並大抵の苦労ではなかった。図引き(設計)は父がすることになったが、熊本へ戻ってからいよいよ茶臼山の図引きということになった時、岩野の御武家・宗久隆様がこの役に就かれた。
 町は下津棒庵様が図引きの役、お城の図引きが出来上がった後に、それを清正公が飯田覚兵衛様、森本儀太夫様たちと知恵を出し合いながら長い議論をされたことを憶えている。お城が茶臼山手に決まってから、まず山の地ならしである。これが大事で、その次に材木と石の詮議。これはとても骨が折れた。この他、瓦焼きは江戸より下された飯田山の下で焼かせられた。材木は阿蘇、菊池、茶臼山周辺、権現山などから切り出しになり、石は六甲山、祇園山、岡見岳、津浦あたりからも取り寄せられた。木馬道から木と石を運んだが、車があったからこそ出来たのである。男山と女山の境目を断ち切って元の地形から茶臼山を引き直された大仕掛けは初めの城(隈本城)より壮大な普請であった。



加藤清正が最初に築城候補地とした杉島(杉島御船手から向う岸の川尻御船手を望む)


この坂を下ったところに重臣の下津棒庵の屋敷があったので棒庵坂と呼ばれている。


重臣の飯田覚兵衛が管理したことから飯田丸と呼ばれる五階櫓


重臣の森本儀太夫が預り管理していた櫓の跡


祇園山(花岡山)に残る、石切り出しの陣頭指揮を執った加藤清正の腰掛石

おてもやん像の移転先

2015-06-02 12:56:02 | ニュース
 交通センター前の「おてもやん像」の移転先が決まったと、くまにちプラネットが伝えている。1985年に設置されたこの「おてもやん像」は、桜町地区の再開発で今後の成り行きを心配していたが、どうやらJR熊本駅新幹線口の玄関前に移設されることが決まったらしい。交通センター前を通るたびに気になっていたがこれでひと安心だ。移転先の春日地区は、おてもやんのモデルとなった富永登茂(ちも)の故郷。いわばお里帰りというわけだ。
 この「おてもやん像」、近くでご覧になった方はお気づきだろうが、意外と肉感的。そんなところに惹かれるファンも多いと聞く。また新天地で新たなファンの開拓をお願いしたいものだ。 




そんなわけで、お姉さんの魅力溢れる「おてもやん」をどうぞ!

栗田弘一氏撮影