徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

山口県の旅

2016-12-15 19:47:33 | 
 テレビでは日露首脳会談が始まったというニュースが流れている。山口県の長門湯本温泉でやっているらしい。成果はあまり期待できないだろう。
 それはさておき、家内と二人連れの山口旅行で長門湯本温泉に泊まってからもう9年が過ぎた。旅行の主目的は防府勤務時代の同僚の墓参だったが、旅の最後に再び悲しい知らせが待っていようとは思いもしなかった。防府での墓参を済ませ、津和野や萩、長門を経由し、豊北町の角島を見物した後、豊北町の神田上という地区に住んでいるかつての同僚を訪ねた。すると玄関に「還浄」の張り紙が。まさかと思いながらおそるおそる声をかけると、懐かしい元同僚が現れ、「実は妻が2週間前に逝ってね」と衝撃のひと言。社宅仲間で奥様と親しかった家内は僕以上に衝撃を受けたようだった。弔いに始まり、弔いに終った山口旅行だったが、機会があれば再度訪問したいと思っている。


角島大橋

「アイラブくまもと~漱石の四年三ヵ月~」東京公演!

2016-12-14 17:46:34 | 音楽芸能
 9月に熊本公演が行なわれた「アイラブくまもと~漱石の四年三ヵ月~」の東京公演が、今週末、新宿区四谷区民ホールで行なわれる。
 明治29年4月13日、熊本に単身赴任し、明治33年7月15日に、英国留学へ赴くため、妻子を伴って東京へ帰るまでの4年3ヵ月にわたる熊本での生活を笑いと感動で描く物語。漱石ゆかりの人々が数多く登場する。
 漱石を世話する車夫の妻を演じるのは民謡竹峰流の家元・福島竹峰さん。熊本を代表する民謡「おてもやん」で熊本人の気質や精神的風土・文化を表現する。また、明治・大正の頃まで熊本で盛んだった娘歌舞伎を、舞踊団花童のあかね・ゆりあコンビが演じる。東京の観客の皆様に、かつて芸どころと呼ばれた熊本の豊かな地方文化も味わっていただければ幸いなのだが。




▼「おてもやん」 福島竹峰社中/誠会社中  立方:ザ・わらべ


▼「越後獅子」 熊本県邦楽協会合同  立方:舞踊団花童(あかね・ゆりあ)

二俣橋の架け直し(美里町)

2016-12-13 17:42:27 | 熊本
 今朝の熊日新聞によれば、熊本地震で一部が崩落した美里町の二俣橋のうち、津留川に架かる「二俣福良渡(ふたまたふくらわたし)」を解体し、石を積み直して架け直すという。
 二俣橋は緑川の支流である釈迦院川と津留川の合流点にL字型に連なる“双子橋”として知られる。いずれも江戸時代末期に架けられたもので、石工は不明だが、種山石工の流れを汲む者ではないかともいわれる。
 釈迦院川に架かる「二俣渡」は、晴れた日には影がハート形に見えることから、近年「恋人の聖地」として人気スポットとなっている。
 来年10月末までの完成を目指すというが、崩落した石の多くが6月の豪雨で流失したといい、先人たちが築いた石橋がどう復元されるか見ものである。
※写真はいずれも熊本地震前のもの

▼二俣福良渡



▼二俣渡


「加藤清正公を大河ドラマに!」の件

2016-12-12 18:36:14 | テレビ
 午前中に訪問者あり。誰だろうと思って出てみると加藤神社の先代宮司の湯田栄弘さんだった。例年のごとく御札を持って町内を回っておられた。せっかくなので、「加藤清正公を大河ドラマに!」誘致運動のその後をおたずねしてみる。
 先般はNHKの籾井会長に直接会って要望書を手渡したそうだ。また、今年は誘致運動の仲間に清正公の出身地・愛知県が加わり、大変心強い。嫡男忠広公終焉の地である山形県鶴岡市。孫の光正公終焉の地である岐阜県高山市。次女八十姫(瑤林院)終焉の地である和歌山県とともに力を合わせて進めて行きたいとのこと。ただ、毎年候補リストにはあげられながらなかなか実現しないのはやはり韓国問題がネックのようだ。




漱石と多佳女

2016-12-11 21:30:37 | テレビ
春の川を隔てゝ男女哉(おとこおみなかな)

 昨夜放送された「漱石悶々」(NHK・BSプレミアム)は、漱石本人を描いた数多のドラマの中でも異色の一篇。漱石と才色兼備の京女たか女との微妙な恋のかけ引きを、漱石の妄想を織り込みながら描いた、いわば「妄想痴話喧嘩」編とでもいうべきか。主役の二人を演じた豊川悦司と宮沢りえを始め、脇も実力派で固めた秀作コメディ。




 漱石ファンの芸妓の一人として日本舞踊家の尾上紫が登場したので、得意の舞踊を見せてくれるかと期待したのだが、なんと彼女は三味線の弾き唄いで、踊ったのは女優の鈴木杏と宮沢りえ。半分は期待外れと、半分は尾上紫の多才ぶりを見れたことでまぁよしとしよう。

▼阿国歌舞伎夢華(2012年日本舞踊協会公演)において出雲阿国を演じた尾上紫

ホワイエ薪能

2016-12-10 20:59:24 | 音楽芸能
 来春2月、楽しみな薪能が開催される。一昨年9月に行われた「熊本能三昧」以来の多流派合同の能舞台。若手実力派が競演するこの舞台は見逃せない。

日 時  2017年2月11日(土・祝)
      開場17:30 開演18:00
会 場  熊本県立劇場コンサートホールホワイエ
入場料  3,000円【全席自由】

番 組

金春流 仕舞「嵐山」
       田中 寿男

大倉流 狂言「節分」
   (シテ)山本 則重
   (アド)山本 則秀

喜多流 仕舞「八島」
       大島 衣恵

観世流 仕舞「松風」
       菊本 澄代

喜多流 能「黒塚」
   (シテ)狩野 了一
   (ワキ)御厨 誠吾
   (ワキツレ)則久英志
   (後見)高林 呻二 粟谷 浩之
   (地謡)大島 政允 出雲 康雅 粟谷 充雄 渡辺 康喜 狩野 祐一 角 明弘 末武 有二 塩山 良一
   (笛 )相原 一彦
   (小鼓)横山 幸彦
   (大鼓)白坂 保行
   (太鼓)吉谷 潔





エミ・マイヤーとまめ藤さん

2016-12-09 14:26:10 | 音楽芸能
 Facebookのお友達である竹中さんから素敵な映像発見のお知らせをいただいた。
 アメリカのシンガー・ソングライター、エミ・マイヤーが、化粧品ブランド「タチャ」とコラボした、彼女の曲「ギャラクシーズ・スカート」のリミックスバージョンのPVのようだ。エミ・マイヤーは日本人の母親とアメリカ人の父親の間に京都で生まれたそうだ。
 注目すべきは映像でフィーチャーされている舞妓さんが、今年5月、舞妓を引退して熊本阿蘇に帰ったまめ藤さんだということ。もちろん引退前に撮影されたものだろうが、今となっては貴重なお宝映像だ。





今日は75年目の「太平洋戦争開戦の日」

2016-12-08 09:08:44 | 歴史
 その日は意外と早く目が覚めた。それと言うのも、この日は朝八時から防空監視哨当番の日であった。いつになく早起きしたし、間もなく六時というので、珍しくラジオのスイッチを入れた。すると間髪を入れず「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます」というアナウンサーの声。何事ならんと耳を傾けると、「大本営陸軍部発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というニュースであった。そしてその後は軍艦マーチが鳴り止まず・・・。これこそ正に青天の霹靂であった。ラジオの前にしばし呆然としていた私はハッと我にかえり、奇しくもこの開戦に当り、熊本市防空監視哨の一番立ちの任務につくことに異常な興奮と身の引締まる思いで一ぱいだった。朝食もそこそこに教練服に身を固め、監視所に急いだが、私が現地に着くと班員は既に集合を終えていた。正八時、いよいよ上番との交代である。この頃になると在熊の防空部隊が手に肩に高射機関銃や実弾の一ぱい入った弾薬箱を携え、続々と監視所のある屋上に詰めかけ、たちまち辺り一帯は緊迫した雰囲気に包まれた。防空監視哨というのは、昭和12年に防空法が公布され、各都市において空襲に備えて置かれた監視哨である。大方の町や村では青年学校の生徒をその要員としていた。熊本市には当時十数校の青年学校があったが、島崎校区には第七青年学校があり、陸軍歩兵伍長の資格を持つ私は島崎校の教練指導員も兼務していたので、島崎校が当番の日には班長として指揮をとったのである。監視所は紺屋町の元九電熊本支店の屋上にあった。任務は望楼に立つ見張員が敵の機影あるいは爆音を耳にした場合は、直ちにこれを班長に報告。班長はこれを確認し間違いなしと見れば電話で市の防空監視哨長に報告するのである。この報告が場合によっては警戒警報あるいは空襲警報、避難命令となって市民に伝えられるのである。監視哨はいわば市民の尊い生命財産を守る尖兵というわけだ。防空監視哨の創設以来、わが国が最初の空襲を受けたのは昭和13年5月、中国軍機が熊本県の球磨芦北地方に反戦ビラをまいたのが嚆矢である。これ以来太平洋戦争開戦まで空襲はなかった。こうして開戦第一日の任務についたのであるが敵機の来襲もなく、緊張とは裏腹に平穏な一日が過ぎ、気合抜けの感があった。
※2000年に他界した父の備忘録に書かれている開戦当日の様子です。

戦時中、父が勤務した三菱熊本航空機製作所で製造された爆撃機「飛龍」

セカンドライフ20年

2016-12-07 17:06:32 | 
 会社を早期退職して20年が過ぎた。20年前の今ごろは、翌年春のパソコン教室オープンに向けて準備の真っ最中だった。
 僕は会社勤務時代のある期間、産業医や保健師・看護師などの医療専門職と近い立場にいた。産業医のサポート、医療専門職の採用などを担当した。医療の知識については門前小僧に過ぎなかったが、パソコン教室を開いて最初の生徒さんが、不思議なことに女医さんだった。以来、なぜか病院関係者が多数習いに来た。時には具体的な仕事のサポートを頼まれることもあった。医療データの統計解析や研究発表のプレゼンテーション作成などだった。お蔭で門前小僧の経験が大いに役立った。
 教室をオープンした頃、姪が生まれて間もない娘を連れてよく教室に遊びに来た。その娘が年が明ければ成人式を迎える。こちらが歳をとるわけだ。前撮りしたという成人式の写真を姪が送ってくれた。
 そういえば、同級生のはつ喜月若さんも成人式。感慨もひとしおである。




こんなんなりました!


民謡「五十四万石」のはなし。

2016-12-06 18:25:38 | 音楽芸能
 熊本の代表的な民謡の一つ「五十四万石」。「おてもやん」と同様、熊本の年配者はこの曲が流れると合わせて歌う方が多い。
 ところで、この歌の歌詞をよくよく聞くと、腑に落ちないとまでは言わないが、「エ?」と思う箇所がいくつかある。この歌が世に出たのは昭和10年1月、コロンビアレコードから藤本二三吉の歌で発売された。この頃、「新民謡」今でいう「ご当地ソング」づくりがブームになっていて、この歌もそんな世の中の流れに乗ったものだったのだろう。ただ、熊本市ではその年の3月から5月にかけての50日間、水前寺公園北郊で「新興熊本大博覧会」が開催されており、それにタイミングを合わせた発売だったのかもしれない。


「新興熊本大博覧会」の公式ガイドブックより


 作詞したのは童謡・民謡の作詞家として北原白秋、西條八十とともに、三大詩人と謳われた野口雨情。
 まず、歌い出しの「♪ 五十四万石~」から「細川様は」と来る。熊本ではだいたい「セイショコさん」が先に来るのが普通。なぜ「細川様」なのか。茨城県出身の雨情が、熊本の清正公人気を知らなかったとも思えない。僕の個人的な推測だが、五十四万石の大大名である細川様だが、その礎を築いたのは清正公だという構成になっているのか、あるいは、結果的に清正公は五十四万石となるのだが、それは関ヶ原の後。最初から五十四万石で入封したのは細川忠利公なので、ということなのか。ここら辺の事情をご存じの方がいらっしゃればお聞きしたいものだ。
 三番の歌詞が最近ではあまり歌われないのは、以前にもこのブログで取り上げたが、二本木遊郭など、昭和10年頃の熊本市を題材にしているので違和感を感じるのかもしれない。
 四番の最後に登場するのが宇土櫓。この歌が作られた昭和10年頃は、大小天守閣はまだ再建されていない。第三の天守と呼ばれた宇土櫓で最後を締めくくるしかなかったのだろう。




作詞:野口雨情 作曲:大村能章
[映像]
2014年10月25日 熊本城本丸御殿 秋夜の宴
振付:中村花誠
立方:花童(くるみ・あやの・あかね・ゆりあ)
地方:( 唄 )西村直子・吉里満寿美・宮本道代
   (三味線)本條秀美・本條秀咲・蒲原サヤ子・勇美智子
   (鳴 物)中村花誠・花と誠の会
   ( 笛 )今井冽

晩秋の岩戸の里

2016-12-05 19:18:16 | 熊本
 今日は所用で玉名市大浜町の母の生家へ行った。帰りはいつものように河内から山越えし、雲厳禅寺を経由して紅葉を楽しみながらの行程。山からの下りは久しぶりに「檜垣のこぼし坂」を通り、松尾川に沿って降りた。



雲厳禅寺境内の落葉


境内から里を眺める(前方の木立辺りが檜垣嫗が後に庵を結んだという山下庵跡)


境内入口に、宮本武蔵が霊厳洞で修業した時代から屹立する二躯の仁王像が


岩戸山から里へ降りる道


岩戸の里の遠景(中央の銀杏の辺りが雲厳禅寺)


檜垣のこぼし坂を下り上松尾の集落へ


 平安時代の閨秀歌人、檜垣嫗(ひがきのおうな)は、白川縁の蓮台寺辺りから、信仰する岩戸観音へ閼伽の水を供えるため水桶を担いで四里の道を日参したと伝えられる。松尾川沿いの急な山道の胸突き八丁が、後に「檜垣のこぼし坂」と呼ばれる難所。檜垣嫗の足もとがふらつき、水桶の水をこぼしこぼし登ったのでこう呼ばれるようになったという。


2013.4.6 熊本城本丸御殿  くまもとをどり2013
作詞・作曲: 杵屋六花登   作調:中村花誠
立方:城北高等学校ダンス部
地方:中村花誠と花と誠の会およびサポートメンバーの皆さん

56年の時の流れ

2016-12-04 22:30:48 | 熊本
 今から56年前の昭和35年(1960)、熊本国体が開催された。それを期に、熊本城の大小天守閣などが復元された。城内にはその他、県営プールや藤崎台県営野球場などが造られた。
 9月27日には熊本県の天皇杯獲得をかけて、少年男子水球の決勝戦、熊本対京都戦が県営プールで行われた。当時中学3年だった僕はこの試合を見に行きたかったが、この日は平日で登校日、教室でドキドキしながら朗報を待った。残念ながら熊本の済々黌は敗れ、天皇杯は東京が獲得した。翌年、僕は済々黌に入学し、水球部に入部した。


昭和35年(1960)熊本国体水球決勝、濟々黌(熊本)対鴨沂高(京都)の熱戦



 それから56年目の今年、4月の熊本地震により、熊本城は天守閣を始め各所で甚大な被害を蒙り、痛々しい姿を見せている。
 地震被害の修復が終わり、営業を再開した桜の馬場城彩苑の涌々座。ここで僕は舞踊団花童の舞台を見ながら、ふと56年前のことを思い出し、しばし感慨に耽った。その舞台の下には、かつて先輩たちが汗と涙を流した県営プールがあったのだ。





この番組に注目! 「15歳 私たちが見つけたもの~熊本地震 3年3組の半年~」

2016-12-03 16:23:50 | 熊本
 過去の番組で取材を受けたことのあるNHK熊本のディレクターから、ぜひ見てほしいという番組の紹介がありました。それが、下記の番組です。
 熊本地震で壊滅的な被害を蒙った益城町の子どもたち。彼らはこの半年余りにどんな体験をし、そしてそれは、これからの人生にどう影響するのでしょうか。多くの皆様にぜひ見ていただきたい番組です。

ETV特集「15歳 私たちが見つけたもの~熊本地震 3年3組の半年~」
12月10日(土)午後11時00分~ 午前0時00分(NHK-Eテレ)全国放送


「番組紹介より」
 多感な15歳の子どもたちは、大地震で何を感じ、どう生きていくのか。震度7の大地震が2度襲った熊本県益城町立木山中学校3年3組の半年を見つめた。
 震源のまちにある木山中学校268人の生徒に犠牲者は出なかったが、半数以上の子どもの自宅が破壊された。不自由な車中泊、避難所暮らし、壊滅したまち。先が見えない日々が続いた。しかしそんな情況にあっても、子どもたちは部活動を続け、体育大会を開き、合唱コンクールに励む。死に直面した体験を抱えながら、互いに支え合い、たくましく生きていた。災害をバネに、自らを問い直しながら歩む、様々な15歳の青春を記録した。

熊本城本丸の大銀杏

2016-12-02 19:40:17 | 熊本


 いまだ立入禁止となっている熊本城本丸の大銀杏が鮮やな黄色に色づき、今日テレビで映像が公開された。
 加藤清正公による築城時、多くの銀杏が植えられたことから、「銀杏城(ぎんなんじょう)」とも呼ばれた熊本城。その象徴がこの本丸の銀杏だ。熊本市文化財専門相談員としておなじみの富田紘一さんの話によれば、清正公の時代に植えられたと言えるのは、この本丸の1本と加藤神社の拝殿脇にある1本の計2本だけ。よく銀杏は籠城時にその実を食料とするために植えたという伝説が語られるが、この2本いずれも雄株で実は生らない。また、本丸の銀杏が天守閣と同じ高さまで伸びた時に異変が起こると清正公が言い遺し、実際にそうなった時に西南戦争が起きたという伝説もあるが、本丸の銀杏は台風や落雷などで何度も折れたり倒れたりしている。しょせん伝説というのはその程度のものと富田先生は言う。