雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

カワサキ単車の昔話ー50

2007-04-10 05:59:33 | カワサキ単車の昔話
1964年3月浜脇さんの本によると、ブラジルでの事業展開を諦め帰国の途につくが帰りにアメリカに立ち寄りカワサキの二輪事業のアメリカでの展開を企図している。

丁度その頃日本では、日本能率協会の調査で「単車事業脈あり」と判断されて64年1月に会社の方針として単車再建が宣言されている。

能率協会の意見書の項目の中の一つに「広告宣伝の項目」があり、
本社は開発費として年1億2千万円を予算計上してくれたのである。
私はたまたま、その広告宣伝課を担当することになった、そんな時期であった。

レースもこの費用の中で運営され、モトクロスを中心に本格的に取り組んだ。


当時は、市場は国内がまだまだ中心で、アメリカの市場対策には浜脇さん以下7人のサムライが苦労を重ねたようである。

7人のサムライとは私の勝手な推測だが、浜脇、久保,杉沼、田崎、種子島、中川、斉藤ではないだろうか。66年ごろのアメリカのメンバーである。

66年にAIがアメリカで発表されているが、7人のサムライにちなんで「サムライ」と名づけられている。

このA1のテスト時点では出来たばかりの名神高速で行われ、当時カワサキのライダーであった金谷や星野、山本などがテストを手伝ったりしている。

この66年にシカゴに、今のKMCの前身のアメリカンカワサキが設立されてアメリカでの直販体制が始まるのである。

当時、私が予算管理していた1億2千万円の広告宣伝費は、私の年収が50万円に満たない時代であったから相当な額で、注目されていて悪く言えば諸先輩たちが何かと理屈を行けて「タカリにきた」ものである。

これは国内向けの対策費ではあったが、アメリカ市場対策に浜脇さんにも用立てした。
これが当時の岩城常務にバレテ私はひどく怒られたのだが、この話は浜脇さんには言っていないのでご存知ないと思う。

浜脇さんは当時の少ない輸出台数ではあったが、輸出金額のほんの数%だが負担して国内に戻してくれるようなことにしてくれた。

この数%がその後、アメリカの大発展でどんどん金額が大きくなり、国内が経営不振が続いた時代にそれこそ億の単位となって、国内販社の経営に貢献したものである。

当時輸出マージンと称されていたものだが、1980年に400FXが出て国内が立ち直った時点まで続いたのである。

まだ川崎航空機の時代で、川重,川車、川航の三社合併前でありタイミングとしてもいい時期であったと思う。

KMCとして設立されたのは合併の前年1968年のことである。
コメント (2)
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