雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

三宅島オートバイレース大会-2

2007-04-16 05:54:52 | M/Cレース
先日、三宅島オートバイレースについて私見を申し上げたら、「弁天小僧」さんからコメントを頂いた。

私も忘れていたが、以前「ゼファーの終焉」というブログでコメントをさして頂いた方である。
書かれているブログは、「行く道は風なりオープンくるま生活」と題してくるまや二輪について記述されている。

どれも、車や二輪の造詣が深く中味が濃くて非常に面白い。発想がユニークで素晴らしい。


その弁天小僧さんから、三宅島のレースについて次のようなコメントを頂いた。

「盛岡のイーハトーブ、トライアルのように末永く継続的に開催していきたいものです。
次世代燃料を見据えた革新性が必要な気がします。いかがでしょう。」
というものだった。

イーハトーブ、トライアルも知らなかったし、コメントの後半の意味を確かめたくて、もう一度、弁天小僧さんのブログを訪ねてみたら、
日本版マン島TTレース、その成功の鍵は?編」を見つけた。
是非ご一読をと思うが簡単にご紹介すると、

「マン島が100年の歴史と化石燃料を燃やして走る二輪車レースでその産業の発展に大きく寄与したのなら、次の世代を見据えた取り組みをしてこそその存在意義があるというもの。今更マン島のまねでもないでしょう」

そして、ドリームカップのソーラカーレースや電動スクーター、パッソル24H耐久とか、岩手県盛岡で31年続いているイーハトープ、トライアルなどと続くのである。


レースもいろいろある、少なくとも世界一、日本一の速さを競うものでないことは確かなのだから、アタマを使って何か考える。知恵を出すべきと思う。

「ただ反対」ではなしに将来夢のある、永く続く発想での検討が必要である。
「コンセプトやレースの内容」の検討「参加者の態度」こそが最も大事なことだと思うと先日も述べた。


弁天小僧さんの発想は、ホントに次の世代を見据えていて非常に面白いと思う。
今年の11月にすぐ出来るかという問題もあるが、このような方向を見据えながら単に早く走るのではなく、楽しい永く続くイベントに育てて欲しい。

そのためには、中止するのではなく「知恵を絞って開催する」方向が大事だと思うのである。
とにかく、現役の関係者は頑張って欲しいのである。


今回はコメントを頂いてそれがきっかけで「三宅島レース」に言及した
それにまたコメントを頂いて、今日また更新している。

また一つ知識も増えた。
ブログのもつ双方向の情報発信や広がり、ブログの面白さである。

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4月中旬のばら

2007-04-15 06:04:15 | 日常生活・園芸、バラ、メダカ、金魚
4月も中旬になった。
咲き誇った桜も流石にもう散りかけて葉桜の様相となってきた。

代わって、つつじ、平戸の季節に移り変わりつつある。

いずれにしても春から新緑の風薫る季節、一年で一番気持ちのいいシーズンを迎えようとしている。

我が家は今一年で一番期待に胸膨らむ季節である。

冬の寒い中での手入れを経て、今バラたちは一斉に新しい葉と枝をを毎日、目に見えるスピードで成長させている。

昨日辺りから、はっきりと蕾が見え出した。
あと1ヶ月もすれば、庭はバラで埋まる。その光景を想像しながら毎朝成長振りを見守っている。

バラの花は勿論美しいのだが、今の時期の新葉の美しさはまた格別のものである。
秋口の黒点病がどうしても現れる、何か黄色いところも混じった葉ではなくて、純粋に美しい葉を見せてくれる。

それも、いろいろな色合いや照り葉など、見飽きないほどの微妙な変化を夫々の種類のバラが見せてくれるのである。

バラをはじめてもう5年以上になるが、毎年増やしていまは60本以上になる。

昨年から、イングリッシュローズも加えた。
アブラハムダービー、ペガサス、ヘリテージ、シャルロット、メアリーローズなど
今年の冬、この種は始めての剪定でいろいろと迷ったが、今のところ順調に育っている。

秋から、冬場にかけて挿し木も毎年試みているが、今小さな葉を一人前に出している。
本などによると1年目は花を咲かさずに蕾を取れと書いてあるがどうしても咲かせてしまう。
バラを観に訪ねて頂いた方の格好のお土産となる。

今朝、今月に入って二度目の消毒をした。
園芸もやりかけると結構面白い。努力の結果は正直に現れる。
今年は、かなりのレベルで手入れが出来たから多分いい花が見れるだろう。

期待に胸膨らましてくれる、4月中旬の我が家のバラたちである。
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松坂に湧いた一日

2007-04-14 05:47:07 | スポーツ
朝の実況放送から夜の特集まで、松坂に沸いた一日であった。

いろんな論評が紙面やブログでも書かれ、テレビで語られた。
どれもそれなりに面白かったが、松坂側からの視点が多い中で朝日の朝刊に、

「初球カーブ、ちょっと冷めた」 とイチローのコメントを見出しに、イチロー側から書かれているボストンでの宮田喜好記者のコラムは、流石記者の視点と文章と思えるものだった。

「投球そのものより存在が光るよね。プロ野球選手としてそれを備えられないから、みんな苦労するんです。」
と7年ぶりの松坂に対するイチローの印象。

大リーグで個人と個人の対戦がこれほど注目されることは珍しい。

そこに自分がいたことを素直に喜んで特別な感情を抱いて臨んだ第一打席。
松坂の初球 「カーブだね。ちょっと冷めちゃいました」 とイチローを普段の心境に戻した初球だったと記している。

松坂主体の記事が多い中で、面白かった。

松坂のこれから対戦する相手は、大リーグの強打者をはじめ日本人でも松井をはじめ沢山いるのだが、
イチローは松坂自身が対戦したい打者に名前を挙げただけあって、特別なのだと思う。

「武蔵と小次郎の対決」のようなイメージを持った人も多いのだろう。
松坂とイチローの巌流島は舞台を移して今後何度も見られるだろう。

然し、ホームの緒戦、アメリカではじめて、大リーガーとしてのはじめての二人の対決の初球は、
「真っ直ぐの、松坂本来の速球」 のほうが結果はともあれ、物語としては面白かったのかも知れない。


松坂は「イチローには勝ったが試合には負けた」。 新たな物語の幕開け。

次回は、「イチローには負けたが、無失点で勝ち投手になる松坂」 そんな物語の続きを、是非見てみたい。
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カワサキ単車の昔話-52

2007-04-13 05:51:24 | カワサキ単車の昔話
この時期のアメリカ市場の事業展開は、素晴らしいの一語に尽きるものであった。

1973年のKMC。
販売台数16万台、デーラー数1000店。
売上金額1億ドル。税引き前利益400万ドル。
当時の事業部の売上の60%、利益の70%がアメリカ市場からもたらされていた。文字通り単車事業部の経営を支えたのである。

まだ、若かった私もいろんな意味で影響を受けたし、その後の動きの支柱となったものも多い。

前述の売上、利益についても、私が特に印象に残っているのは、この売上と利益が総資本利益率8%近いものであったこと、即ち総資産の回転が年2回に近かったのである。

多分こんなことを意識した人は殆どいないと思う。
当時東北で在庫過多から来る資金回転の悪さ、借入金の金利に悩み続けた経験が売上の大きさよりは回転のよさに驚いたのである。

大阪担当のときに各所長に総資本利益率10%を目標に指示したのも、スケールではとてもアメリカにかなわぬが、内容では勝負したいと思ったからである。

その後、販社や事業部の企画時代も経営の関心事は、総資本利益率であり回転率であった。
これは、このときのKMCの実績が教えてくれたものであり、本当に役に立ったのである。

現実に、その後の事業部再建時に特に留意したのはこの問題であったし、更に後、KMJで借入金ゼロの無借金経営が出来たのも、このときのKMCの経営内容、回転率の良さを常に意識し続けたお陰である。


このほか、マーケッテングで「はハードと共にソフトを売る」というコンセプトで当時の全米広告グランプリを獲得するなど一世を風靡しカワサキのブランドイメージを築き上げる端緒となった「Kawasaki Let the Good Times Roll」のフレーズが発表されたのもこの時期である。

これは、一時他のフレーズに置き換えられていたが、高橋さんや私が企画を担当した時期に基本コンセプトとして復活し今尚カワサキのコンセプトとして受け継がれているのである。

このように、いろんな意味で素晴らしかったアメリカの事業展開も75年頃からいろいろな問題が重なって大変な時期に繋がってゆくのである
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三宅島オートバイレース大会

2007-04-12 06:00:54 | M/Cレース
ハゲアメリカーナというきれいなブログの持ち主から、
「石原都知事再選が決まりましたが、三宅島バイクレースについて、どのようにお考えでしょうか?コメント頂ければ幸いです。」というコメントを頂いた。

三宅島のオートバイレースについては、このニュースが出始めた1月29日に感想を書き、山本隆君がそのコメントで「私も賛成ですが、反対もあるようですよ」とコメントしてくれている。

今は傍観者の立場なので、そんなに確りした意見を持ち合わせている訳でもないが、少し纏めて最近の想いを述べてみたい。


私自身、昔のことだがレースには色濃く関係をした。
公道レースのメッカ、マン島TTレースでは、藤井敏雄君を事故で亡くしている。
「カワサキ、デグナーの想い出」のコメント欄でそれについて触れている。

国内のJJSBAのジェットスキーレースでも、残念ながら何人かの方を事故で亡くした。

そんな悲しい想い出を有している。事故は大変なことである。
安全に気を配った運営やコース設定は、レース運営の当事者が最大の配慮をしなければならぬのは当然のことである。

そういう意味で、三宅島のオートバイレースが「開催できる素地があるかどうか」は、都をはじめ地元の関係者など主催者は万全の検討をしなければならない。

その検討のために、「マン島での現地調査をはじめ、種々の検討がなされた上で決定された」 と受け止めている。また、三宅島の復興などの観点からも行政は検討し、地元がそれを望んだものと思われる。


計画が発表されて以降、反対意見も強いようである。
多分その理由の一番は「危険」「事故」ということであろう。

このイベント自体が「無意味である」とか、「楽しくない」とか、「三宅島の復興の役に立たない」というのであれば、それには耳を貸さねばならないと思う。


世の中の、楽しいイベントは「すべてが安全である」とは限らない。
むしろ「危険」を伴ったものは多いのである。

日本の伝統的なお祭りの中にも、危険いっぱいの、現実に事故を伴うものも多い。
世界で行われている二輪、四輪の公道レースやラリーなどを見ても、それが安全であるから行われている訳ではない。
危険いっぱいなのである。

然し、それらが続けられているのは、危険ではあるかも知れないが出場したい参加してみたいという人たちも、そのスリルを観て楽しみたいという観衆も、必ずいるのである。
お祭りとか、イベントとは本来そのような性格のものである。

そしてそれらが永い歴史を重ねていくと、伝統行事となって暗黙のうちに世の中が認めるようになるのだと思う。


残念ながら、三宅島オートバイレースには歴史も伝統もない。
今新たな1ページを開こうとしているのである。

参加する人は自分の意思で、ある程度の危険も承知でエントリーをするのである。
全くの素人ではなく、コースの危険度は判断できる人たちである。
エントリーが皆無なら、レースは当然ながら成り立たない。

レースはその着順を争う競争ではあるが、むやみやたらにただ突っ走っている訳でもない。
安全に転倒しないように危険を避けて、結果の着順を争う競技である。

大体このような議論は、反対する方が正義のように見える。
レース経験のあるライダーたちも公道レースを数多く経験している訳でもないだろう。
ただ、公式に意見を求められたら「NO」と言う方が無難である。普通の人は若し意見を求められたら「NO」と言うだろう。

開催やその内容を決定するのは、あくまでも開催の当事者であって欲しい。


その昔、FISCOではじめて二輪の日本GPが開催されたとき、ホンダは強行に危険を主張し自ら参加を辞退した。
Hを除く、S,Y、BS,Kの参加で開催されたのだが、
後ホンダが主張したようにFISCOの「須走り落し」は危険すぎるということでコースの改造がなされた。
当時のMFJ運営委員の一人としてその経緯を思い出すが、今思えば流石ホンダの見識だったと思う。
危険ヶ所の修正や、変更は後からでも可能なのである。


三宅島オートバイレースが永く伝統行事として継続するかどうかは解らない。

全てのイベントには、それを待ち望む多くの人がいる。

オリンピックマラソンならともかく、東京マラソンでも、2時間10分を目指して走るのはほんの僅かの人たちで、大部分の人たちはその参加を楽しんでいるのである。

オートバイレースもやりようはいっぱいある。
三宅島のこのコースで、世界一、日本一早いライダーを競うのではないことは明白である。
「コンセプトやレース内容」の検討、「参加者の態度」こそが、最も大事だと思う。

もっと、建設的な意見があってもいいと思うのだが。
「危ないから」だけで、「とにかく反対」は、どうも頂けないと思うのである。

私と同年代で、何となく応援している石原都知事には初志貫徹してとにかく第1回の大会だけは開催して欲しいと願っている。
その結果でまた、いろんな知恵が出てくるのだと思う。

私のように、傍観者の立場で何となく「やってくれたらいいな」と思っている人たちも多い筈である。
でも、積極的に意見は述べたりはしない。何となく述べにくいのである。
今回はハゲアメリカーノさんからコメントがあったので、敢えて想いを書いてみました。

ハゲアメリカーノさん
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カワサキ単車の昔話-51

2007-04-11 06:19:21 | カワサキ単車の昔話

A1(1966),H1(1968),Z1(1972)。

この3機種と共にカワサキの二輪事業は発展し、カワサキのブランドと二輪事業の基盤を造ったと言っていい。

これらはアメリカでのカワサキの事業展開の歴史であり、この時期のアメリカでの事業展開が若しなかったら、カワサキの二輪事業はまた違った道を歩んだであろう。

この時期のアメリカを引っ張ったのが浜脇さんである。
今回、改めて浜さんの本を読んでみて思うところがいっぱいあったし、当時を懐かしく思い出せた。

A1の発売からマッハⅢの60年後半にカワサキは実用車のカワサキから大型車、スポーツのカワサキへとイメージを変えていった。

国内でもB8,B1の実用車が主力で東北、九州などの地方の時代から、ようやく東京、大阪などの都会へと販売の重点が移されたのである。

私自身もその流れの中で、67年から4年間東北を担当していたが、71年には大阪担当となり73年には東京、名古屋、大阪の直営部の担当となっている。

アメリカも日本もZ1で大躍進をするのだが、
この時期のアメリカ市場の拡大は凄まじいと言っていいほどのものであった。

1966年に部品会社としてシカゴに直販会社アメリカカワサキ設立し、現地主義を表明してアメリカ人アランマセックをGMに採用し優秀な現地人中心のアメリカ式経営方式を採用している。

商品開発も経営方式もベースにある考え方は「差別化」である
他の競合他社との徹底した差別化戦略がそこにあった。

浜さんの本の中に「差別化」と言う言葉を見つけて大いに我が意を得たのである。

68年にはKMCを設立、現地のマーケッテングから72年に上市されたZ1の開発を技術部と共に成功させて飛躍を続けた。

73年には売上高1億ドル、税引き前利益400万ドルの優良企業になっている。


ニューヨーク市場への上場を究極の目標とし、コマーシャルペーパー発行による資金調達やアメリカでの現地生産を目指したリンカーン工場の設立など、いずれもスケールの大きい日本の企業では初めての試みであった。

73年にリンカーン工場の建設に着手しているが,ホンダのアメリカ生産に先んずること3年であった。

このような新しい取り組みにより75年頃まで、アメリカ市場の最盛期が続いたのである。

単車に携わった人たち誰もが懐かしく想い出す最高の時期であった。

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カワサキ単車の昔話ー50

2007-04-10 05:59:33 | カワサキ単車の昔話
1964年3月浜脇さんの本によると、ブラジルでの事業展開を諦め帰国の途につくが帰りにアメリカに立ち寄りカワサキの二輪事業のアメリカでの展開を企図している。

丁度その頃日本では、日本能率協会の調査で「単車事業脈あり」と判断されて64年1月に会社の方針として単車再建が宣言されている。

能率協会の意見書の項目の中の一つに「広告宣伝の項目」があり、
本社は開発費として年1億2千万円を予算計上してくれたのである。
私はたまたま、その広告宣伝課を担当することになった、そんな時期であった。

レースもこの費用の中で運営され、モトクロスを中心に本格的に取り組んだ。


当時は、市場は国内がまだまだ中心で、アメリカの市場対策には浜脇さん以下7人のサムライが苦労を重ねたようである。

7人のサムライとは私の勝手な推測だが、浜脇、久保,杉沼、田崎、種子島、中川、斉藤ではないだろうか。66年ごろのアメリカのメンバーである。

66年にAIがアメリカで発表されているが、7人のサムライにちなんで「サムライ」と名づけられている。

このA1のテスト時点では出来たばかりの名神高速で行われ、当時カワサキのライダーであった金谷や星野、山本などがテストを手伝ったりしている。

この66年にシカゴに、今のKMCの前身のアメリカンカワサキが設立されてアメリカでの直販体制が始まるのである。

当時、私が予算管理していた1億2千万円の広告宣伝費は、私の年収が50万円に満たない時代であったから相当な額で、注目されていて悪く言えば諸先輩たちが何かと理屈を行けて「タカリにきた」ものである。

これは国内向けの対策費ではあったが、アメリカ市場対策に浜脇さんにも用立てした。
これが当時の岩城常務にバレテ私はひどく怒られたのだが、この話は浜脇さんには言っていないのでご存知ないと思う。

浜脇さんは当時の少ない輸出台数ではあったが、輸出金額のほんの数%だが負担して国内に戻してくれるようなことにしてくれた。

この数%がその後、アメリカの大発展でどんどん金額が大きくなり、国内が経営不振が続いた時代にそれこそ億の単位となって、国内販社の経営に貢献したものである。

当時輸出マージンと称されていたものだが、1980年に400FXが出て国内が立ち直った時点まで続いたのである。

まだ川崎航空機の時代で、川重,川車、川航の三社合併前でありタイミングとしてもいい時期であったと思う。

KMCとして設立されたのは合併の前年1968年のことである。
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カワサキ単車の昔話-49

2007-04-09 06:01:53 | カワサキ単車の昔話
もう何年もBMWに乗っている。私の唯一の贅沢みたいなものである。

BMに乗ったきっかけは、浜脇さんがBMWジャパンの社長になって、何人かの人がカワサキから異動した。
その中の一人に中田譲君という仙台時代一緒に仕事をしたのがいて、彼に薦められたのが直接の動機である。

そんなことで、その後ずっと乗り続けているのだが、昨年明石のBMWのショールームに遊びに行ったときに、浜脇洋二さんの書かれた「45歳までにあなたもトップになれる」と題した本を頂いた。

もう引退した身で今さらトップにも興味がなくそのままにしていたが、つい先日Z1会のコンペに浜脇さんが参加されることになって思い出して読んでみた。


浜脇さんは私より3~4年先輩で、私の入社当時は本社の経営企画におられた。
その頃はまだ本社も明石にいて、事務所の同じ階にいたこともありよく知っている。

碁が強かったし、話が面白かった。とにかくスケールが大きかった。
この本の物語はこの頃のことから始まっている。

当時の川崎航空機は明石工場がもともと航空機のエンジン製作をしていたことから、エンジンの活用が柱で井関への農発エンジンや、マツダなどへのミッション供給など、その中の一つにメイハツ工業へのバイクエンジンの供給もあったのである。

戦後の復興期で近代化が着々と進みバイクの需要もうなぎのぼりの時期だった。

日本のモータリーゼーションの到来を予見して「カワサキのエンブレムをつけたクルマを走らせたい」という夢。

そのクルマとは、二輪ではなく四輪だったのである
私が入社した昭和32年(1957)ごろの話である。

確かに、岐阜工場を巻き込んでの四輪製造の話はあった。

カワサキのZ旗であるという意味をこめて「KZプロジェクト」と名づけられたプロジェクトであったが、
事業化の検討に入った頃に三菱500やマツダ360の販売開始があった。
この出遅れが致命的で昭和34年(1959)にこのプロジェクトは中止が決定するのである。

この乗用車プロジェクトで、下から旗を振ったのが浜脇さんであったことはこの本ではじめて知った。

浜脇さんは、その後本社の調査課でブラジル市場などの調査を担当したが事業としては実現せず、アメリカでのモーターサイクル事業展開に三度目の夢を託すのである。

その頃からは私の記憶にも鮮明に残っている
本当に昔話であるが、何事も最初に井戸を掘るときの話は面白いのである。
昔を一緒に楽しんでみたい。


つい先日、こんな浜さんと久しぶりに会っていろんな話ができ、ゴルフを楽しめたのは良かったと思っている。



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東京&大阪モーターショー

2007-04-08 06:31:27 | カワサキ単車の昔話
昨日自宅に送られてきた二輪車新聞に東京と大阪で続いて行われたモーターショーの特集記事が載っている。

「シーズン開幕!春の二大ショー」
「両会場とも来場者増加」
と見出しも華々しく、カラー写真がいっぱいでショーの賑やかな感じがよく解る。

ブログの中のバイク関係の記事にも「ショーに行ってきました」と書いてあるのが多かったので改めてじっくり読んでみた。

東京が34回、大阪が23回目、現役時代から特に大阪は個人的にも関係の深かった行事である。

現代は、趣味も遊びも多様化して、若者はバイク一筋と言う時代ではなくなったが、それだけにより洗練されたファンが高く多様化された雰囲気を求めえる結果が、性能だけでなく独特のムードを持つ外車ファンの増加に繋がっているのだと思う。

「MOTO CAFE」をテーマに掲げた大阪では、
カフェに集まった二輪車好きの仲間たちが、熱く語らいその魅力や楽しさを多くの人たちにアピールしようというのがコンセプトで、
クルマと共に用品関連も同一ブースに展示されているのがいい。

昔と比べて、当然のことながら出品されているクルマの持つ雰囲気が華やかになっている。
それだけ時代は進んでいるのだと思う。
特にスタイリングが、ユニークなクルマが沢山あって楽しい。

バイクは、好きな人にとっては何ものにも変え難いかっこいい乗り物である。
乗る人の期待に応えるかっこよさがまず求められるのは当然である。

我々の時代と違ってH、S、Y、Kの国内4社だけでなく、
今はハーレー、BMW,ドウカテイ、トライアンフなどアメリカや二輪の本場ヨーロッパからのメーカーのクルマも人気があって、華やかさを倍加させている。

それを提供しているメーカーや販社も、単にバイクというハードだけでなく、ユーザーが真に求めているソフト面への対応がより大事な時代になったのだと思う。
ソフト対策の重要性がハーレーなどの伸びに顕著に、その傾向が見られる。

いずれにしても、来場者が増加していることはバイク業界にとってもいいことだと思う。
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仕掛けと遊び心

2007-04-07 06:11:19 | 樋渡啓祐さんのこと
何度も採り上げるのは面白いからである。

掛け声ばかりで、なかなか前に進まない他の自治体を尻目に、
佐賀県武雄市樋渡啓祐市長は独走状況になってきた。

昨日の武雄市長物語も面白い。

こども部を造ったら、「子育て応援の店」が急増したというのである。

「行政が笛を吹いてもなかなか市民の皆さんが呼応して頂けないと言うのが全国のどの自治体にも見られるケース。然し武雄は今人気沸騰のがばいばあちゃんもそうですが多くの市民の皆さんが参加して頂けます。」と言っておられます。


何故、武雄市だけがそんなに上手く動くのか。

さらっと、樋渡さんは言っておられるが、ここまで来るまでにホントに沢山の仕掛けを造っておられるからだと思っている。
この短い文章の中にも、リンクで繋いでヨコへの広がりを図ったり、人への心遣いが素晴らしい。

一般に企業でもどこでも方針を出し、計画を発表するまでは熱心だが、
目標実現のための「仕掛け」には全然関心も示さないし、「仕掛け造り」などという言葉すらアタマのなかにないのである。

方針や計画を打ち出せば、部下が動くのは当然と思っているトップが多すぎるのではないだろうか。
計画が出来たら、「出来た」と完結してしまう、タテ型組織の弊害である。そこから細かい仕掛けを造ってヨコに繋ぐ努力をしない。
そんなことでは部下は勿論、命令権のない市民が動いたりは絶対にしないのである。

樋渡さんのやり方は、ホントに小さなことも見逃さない仕掛けがあちこちに見られる。それは見事である。


何が仕掛けかと言われると難しいが、
一言でいうと「人の気持ちが解っている」というか
「人の気持ちを大事にしている」それが仕掛けに繋がっている。

そして、「何となく遊びの感覚がある」ので人は動くのである。

世の中では、「仕事よりは遊びのほうが楽しいに決まっている」というのが相場なのだが、
実は、上手く動き出すと「仕事は遊びよりもずっと楽しいもの」なのである。

それがが成功するともっと楽しく、それに参加した人たちはみんな胸を張り誇りをもつのである。

今、武雄市はそんないい状況になっている。それを切らすことなく繋いでゆく仕掛けがいっぱい見られる。
「市長としてこの動きを強く、そして、大きくしてゆきたいと思います」と宣言して結んでおられる。


物事の真の目標を「実現するために」是非「小さな仕掛け」でも仕掛けてみられてはと思うのだが。


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松坂大リーグデビュー

2007-04-06 06:08:59 | スポーツ
期待を裏切らない活躍が出来る人、これが真のスターだと思う。

松坂大輔は高校時代からずっとそういう期待に応えてきた。
プロに入ってからの、イチローとの対戦など数々の舞台でそれを実証してきた。

昨年はワールドベースボールで見事日本を優勝に導きMVPを獲得した。

今朝は、3時に起きて松坂のデビュー戦を見守った。

流石、松坂と言える内容であった。
最初の打者にヒットを打たれたが、後を無難にしめてそれ以降10個の三振をうばうなど安定をしたピッチングを披露した。

ホームランを打たれ1点を失い、シャットアウトは逃がしたが、7回を投げきってマウンドを降りた。

西武時代もそうだったが松坂が投げるときは意外に打線が振るわず接戦が多くなる。
今回も松坂がマウンドを跡にした7回では、勝利投手の資格は取ったが2-1の接線であった。

今、8回表にボストンが3点を加えて4-1とリードを加えている。松坂の勝利投手、1勝目に数歩前進した状況で9回のロイヤルズの攻撃を迎えている。

この回を抑えると松坂の大リーグ1勝目である。
松坂はベンチに戻って試合の経過を見つめている。

6時8分、レッドソックスが勝利した。

松坂大リーグデビューを勝利投手で飾った。
勝利1分後、このブログを発信した。 松坂おめでとう。
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今年度第1回Zー1会ゴルフ

2007-04-05 06:20:33 | スポーツ
今年度の第1回Z1会ゴルフコンペがあって参加した。

カワサキのZ1を愛する人たちが集うコンペで、三木セブンCCで年に4回の開催である。
昔の仲間たちの本当に楽しく気持ちのいいメンバーの集まりである。

カワサキの伝説の名車Z1の開発責任者であった大槻さんが会長でエンジン設計を担当した稲村さんが副会長である。

集まっているメンバーは技術、生産、、企画、営業、品証部門などメーカーの各部門は勿論、販売会社、販売店や元ライダーなど多士済々である。
まさに二輪事業が展開できるスタッフが揃っている。

なぜかレースの関わった人たちが多いのも、この会の特徴といえるだろう。
カワサキのはじめてのMXで青野ヶ原を走った飯原君、その他ライダーでは的野、金谷、清原、塚本君。メカニックとしては藤原、森田君、歴代監督や関係者として大槻,井手、百合草、井上、大津、重本、吉田さんなどなど。

こういう同じ釜の飯を食った人たちが醸し出す雰囲気がいいのだと思う。

今回は特に、単車事業の創業時、アメリカ市場を開拓しカワサキの二輪事業の基礎を築いた元KMC社長の浜脇洋二さんも参加された。浜脇さんの時代に造られた「Good Times Consept」は今も尚カワサキの基本理念として受け継がれている。

また元カワサキのレースライダーであった
金谷秀夫君らも初参加して30人以上の賑やかなコンペとなった。


まさに春の嵐のような1日で、桜が咲いているというのに肌寒く午後には一時小雪も舞い散る天候であったが、楽しいコンペであった。

今回の優勝は4アンダーでカワサキマイスターを経営する森田君、2位には一緒のパーテイだった大前さん(元川重常務)が2アンダーで、3位は元ライダーの塚本君と入り、ブービーに浜脇さんと印象に残るメンバーで構成された。

68歳以上のシニアの部は大前太さんの優勝であった。
大前さんは私の企画時代、技術オンチの私を支えてくれた仲間で、今回このブログのことも話したのでひょっとすると読んでくれているかも知れない。

私は前半は55と駄目だったが後半43と12スコアの改善が出来て大波賞を頂けた。今年2回目のゴルフだったが、次回は頑張りたいと思っている。

次回は6月6日と既に決まっている。
終わったばかりだが次回が待ち遠しくなるようないいコンペである。


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三木市の新組織、新人事

2007-04-04 06:01:32 | みっきぃふるさとふれあい公園
「広報みき」で新らしい4月1日からの組織とその運営方針が発表された。

また、市のホームページの記者発表の項で、人事異動に関する考え方が詳しく公開されている。
三木市の情報公開の頻度と内容は全国的に見てもトップクラスだと思う。

昨年、4月から三木市の行政に関心を持ち出して以来、情報源の殆ど全てを市のホームページから得ているが、市の動きや考え方はほぼ正確に把握できる水準にある。

今回の人事異動についても、個々の方たちについてはよく解らぬのは当然であるが、その基本コンセプトについては十分にその意図を理解できるものである。

非常にドラスチックで、今年に賭ける意気込みが肌に感じられるものになっている。


記者発表された内容によると

基本的な考え方として、
1.新たな政策課題に対応するために
2.若手、中堅職員の積極的登用
3.女性の管理職への登用
4.本庁と吉川支所との人事交流
を挙げるとともに、その移動の規模は1036人の職員のうち38,2%に当たる396人を移動させる大規模なものとなっている。

また、事務部門を横断的に総合的に調整し政策立案機能の一層の充実を図るため、事務部門を統括する理事の配置など、お役所のタテ割り機能からの脱皮を意図していることがよく解る。


新しい組織と人事が発表され、文字通り人心一新して新しい年度がスタートする。

新しい職場で、新しい気持ちで、ひとりひとりの職員の方が行政のプロとしての自覚をもって取り組まれることを望むものである。

「日本一美しいまち」を目指す三木市が、日々取りくまれる行政の分野に於いても
「時代を先取りした新しい展開」を実績として残してゆく、そんな2年目になればと期待したい。

コメント (2)
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広報みき、4月1日号

2007-04-03 06:33:50 | みっきぃふるさとふれあい公園
4月1日。新しい平成19年度がスタートした。

毎月1日と15日に配布される「広報みき」には新事業年度を迎えて、三木式自治2年目の予算編成や新組織の解説が記載されている。

組織改正のポイントは

1.戦略的に「日本一美しいまちづくり」を進めます。

2.市民の声の的確な把握や新しい課題に対応します。

3.機動力のある組織ですばやく応えます。

と簡潔に解りやすく表現されているが、今からの1年ポイント通りの動きを期待したいものである。


新しい組織や新しい名前も発表された。
企画管理部や市民ふれあい部、新しい室として市長室、環境創造室など、また情報システム課、美しいまちづくり課なども新設された。

それぞれユニークないい名前であるが、その名の通りの機能を是非果たして欲しい。

特に今回独立充実された市長室には、三木市のイメージ向上のためいい広報と、マーケッテングマインドをもった広聴の充実を望みたい。

また、情報管理が情報システムに名前が変わった。
管理をするだけの単純な機能から、IT時代の主役としてのシステムの創造を担当することになるのだろう。

美しいまちづくり課は、積極的に今年も先頭を走ってくれるだろう。

1年経って、この広報みきはすっきりと纏って、今年の方向を示している。
基本のコンセプトや実際の実務が、すっきりすることがいい広報に繋がるのである。
その意味では1年目の活動の成果が広報誌に現れていうとも言えよう。

広報みきも2年目に入り、新しいコンセプトで再スタートすることも庁内会議で検討されている。
更に明確なコンセプトを確立し、対象を明確にしたいい広報誌に育って欲しい。


いずれにしても、
日本一美しいまち三木」を目指す2年目の薮本市政の期待を裏切らない、より積極的な展開を期待いたいと思う。



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競争

2007-04-02 05:53:06 | 発想$感想
世の中、すべて競争の世界である。

何かを競って生きていくのは人生の宿命のように思う。

こんな競争の世界に人々は生きている筈なのに、
それを避けようとする風潮が小学校の徒競走などに見られるのは如何なものか。

競争には必ず勝敗はつきものである。勝つに越したことはないが、勝ち続けることも不可能である。

勝利の美酒に酔う喜びとともに、敗北感を味わうこともまた人生である。

今、言われている格差社会もあまり言い過ぎるのは、人の努力を否定してしまうのではないかとも思う。


競争の中で、レースやマラソンなど勝ち負けを争うスポーツ競技は、やっている選手本人にもそれを観る人にとってもその時々の状況や勝敗の結果がわかり易い。

競争の本質というか、競争のための心構えとして、

競争のための準備。
競争のスタート。
トップ集団の中にいること。

の三つが一番大事で、レースやマラソンなどで勝つために、
万全の準備や練習、少しでも早いスタートを、そしてトップグループの中にいることが勝つための条件であることは誰にでも解るはずである。


然し、世の中での競争はスポーツ競技とは違って、競争をしているという意識を持たないうちに終わってしまって結果だけが待ち受けていることが多いのではないだろうか。

準備を怠らず、
スタートに遅れないように、
そして世の中の流れの中にいることは、
世の中の競争に於いても勝ち抜くMUST条件と思うのだが、それを意識している人は僅かである。

また、競争には全てルールがある。
ルールを守るのは当然で、誤魔化したりする談合などは競争のルール違反である。
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