OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

親密な手紙 (大江 健三郎)

2024-05-31 11:40:33 | 本と雑誌

 いつも利用している図書館の新着本リストで目につきました。

 大江健三郎さんに関わる本は、以前「同じ年に生まれて-音楽、文学が僕らをつくった」という小沢征爾さんとの対談集ぐらいしか読んだことはないと思います。

 本書は、小冊子「図書」連載のコラムを収録したものとのことで、第一印象では読みやすそうな印象をもったので手に取ってみました。

 数々の興味深いエピソードや大江さんらしい思索の紹介がありましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをひとつ書き留めておきましょう。

 「人間を慰めることこそ」と題された小文から。大江さんの義父にあたる伊丹万作さんのエッセイからの引用です。

(p29より引用) 私が十三に代って書いた解説のなかに引用しているものだが、伊丹万作が戦後すぐ、その死の直前に発表したエッセイの次の言葉に、「福島三・一一」後の日本の知識人たちからあらためて共感をあらわす幾つもの言及が行なわれた。ここにも私はそれを繰り返したい。《・・・・・・だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。》

 まさに、知識人たる伊丹万作氏の面目躍如の指摘ですね。

 さて、本書を読んでの率直な感想です。

 大江さんの作品とはいえ、小冊子に連絡されたエッセイ、コラムを採録したものとのことで少々気楽に構えていたのですが、読み進めていくにつれ私の手には全く負えなくなってきました。
 大江さんと交友関係にある方々の話題については当然私の予備知識は皆無ですし、処々に登場する御子息の光さんに係るエピソードもその背景としてある大江さんの心情まで思いを巡らすこともできずで、かなりの消化不良で終わったという情けない結果でした。

 さて、私にとっては手強い大江作品、次は何にチャレンジしましょうか・・・。

 

 

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恐山殺人事件 (内田 康夫)

2024-05-26 14:54:52 | 本と雑誌

 かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。

 ただ、私の出張先も以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “浅見光彦シリーズ” の制覇にトライしてみようと思い始ました。

 この作品は「第21作目」です。今回の舞台は “恐山”
 恐山には、大学時代に東北をぐるっと回る旅行をした際訪れたことがあります。もう45年ほど前になりますが、いかにも “賽の河原” といった荒涼とした風景が記憶に残っています。

 ネタバレになるとまずいので内容の詳細には触れませんが、この作品、内田さんのミステリーにしてはかなりレベルが低いと言わざるを得ません。
 犯行の動機は極めて在り来たりですし、読者の推理をミスリードさせるようなエピソードもかなり唐突に差し込まれていて、不自然さが半端ではありません。警察の事件捜査と並行して光彦の推理を辿るという楽しみも用意されず、ラストも雑ですね、とても残念です。

 さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら” です。

 次は、「日光殺人事件」ですね。

 

 

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錆びない生き方 (五木 寛之)

2024-05-21 09:23:43 | 本と雑誌

 いつも利用している図書館の新着本リストで目につきました。

 「サンデー毎日」連載のコラムの書籍化です。定番の「五木寛之」さんの最新版といってもいいエッセイなので、条件反射的に手に取ってみました。

 早速、私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。

 まずは、1972年春、モハメッド・アリさんへのインタビューの思い出から。

(p145より引用) 少量の白身魚の身を指でほぐして、貴重なものを味わうように口に運びながら、アリはこんなことを話した。
「たとえばエンジェル・ケーキといえば真っ白いケーキで、デビル・ケーキというのはチョコレートで作った黒いケーキのことです。黒い帽子というと不吉の星を意味するし、脅迫することをブラック・メイルという。ブラック・リスト、ブラック・マーケット、とにかく白は常に良くて、黒は常に悪いという印象を私たちは植えつけられてきました。この刷りこみから自由になることが私たちには大事なんです
 これまで会った中でも、ことに忘れがたい人物の一人である。

 モハメッド・アリさんとはじめて会った五木さんは、繊細で知的な人物だという印象を受けたといいます。

 次に、1979年冬、写真家リチャード・アドベンさんへのインタビュー。

(p147より引用) アベドンがベトナム戦争のときに、現地で多くの写真を撮ったことは、あまり語られることがない。私がそのことをたずねたとき、彼は口ごもりながら答えた。
「そう。ぼくはベトナムで千枚以上の写真を撮った。でも、その中の一枚だけしか発表しなかった。ある将軍のポートレートを、一枚だけね」
「なぜベトナムの写真を発表しなかったんですか」
 彼はしばらく黙ってから答えた。
「ぼくの撮った戦争の写真が、あまりにも美しすぎたから」
 私には彼の言わんとするところがよくわかった。

 “考えオチ” のような問答ですが、これもまた言葉のコントラストが心の底にまで響きますね。

 さて、本書を読んでの感想ですが、何より五木さんが持つ “素晴らしい言葉” に出会う能力には驚かされます。何がその確率を高めているのでしょう。
 もちろん “類は友を呼ぶ” ということで、その機会が増すということもあるでしょうし、五木さん自身が育んできた “感度の高さ” も大きな要因です。

 私にはそういった素養は全くないので、こうやって五木さんの著作を読むことで、ご相伴に与ることができでいるわけです。

 

 

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殺人のスポットライト (森村 誠一)

2024-05-16 10:16:36 | 本と雑誌

 いつも行く図書館の返却本の棚で目につきました。

 今読みかけている海外ミステリーのページがなかなか進まないので気分を変えたかったのと、ちょっと前に読んだ森村誠一さんの作品が今ひとつだったリベンジをということで手に取ってみた次第です。

 本書は、新宿のホームレスの世界を舞台とした8編の短編小説集です。

 ネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、やはりミステリーの「短編」というのは物足りなさが拭えませんね。
 ラストに向かっての急転直下の謎解きの強引さは、森村さんの筆力を持ってしても避けられなかったようです。

 

 

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大人のための生物学の教科書 最新の知識を本質的に理解する (石川 香・岩瀬 哲・相馬 融)

2024-05-11 11:07:20 | 本と雑誌

 

 いつも利用している図書館の新着本リストで目についた本です。

 高校生のときは文系クラスだったので、理科は「化学Ⅰ」「生物Ⅰ」を選択していました。そのころから生物はそこそこ得意で、今でも「生物学」については結構関心があります。

 本書は、ブルーバックスの新刊ということもあり、さっそく手に取ってみました。
 最近の話題を踏まえたテーマの選択は、私のような “生物学素人” にはありがたいですね。

 それそれの章ごとに興味深い話は多々ありましたが、その中から特に印象に残ったものをいくつか覚えとして書き留めておきます。

 まずは、「呼吸と発酵」。「呼吸」の基本で私が誤解していたところです。
「呼吸(酸素を利用した好気呼吸)」は「解糖系→クエン酸回路→電子伝達系」というステップでATP(アデノシン三リン酸)を生成します。

(p61より引用) ここで注意したいのは、クエン酸回路までの呼吸反応の過程では「まだ」酸素が登場していないということだ。 つまり、二酸化炭素の排出は、酸素が反応系に入るよりも「先に」起こるのだ。私たちは「酸素を吸って二酸化炭素を吐く」といった表現から、あたかも吸った酸素に炭素がくっついて二酸化炭素に変化したかのように思いがちである。実際、まだ呼吸反応の詳細がわからなかった時代に、フランスのラヴォアジェ(1743-1794)は「酸素を消費して二酸化炭素を放出する」という共通点に着目して、「呼吸は本質的に燃焼と同じである」と発表した。しかし、燃焼では酸素に直接炭素が結びついて二酸化炭素が生成されるのに対し、呼吸で放出される二酸化炭素の酸素原子は私たちが吸い込んだ酸素ではなく、ブドウ糖や水に由来する点で、異なっている。

 ミクロなレベルでは、“とても複雑な反応の連鎖” でエネルギーの生成がなされているのですね。

 もうひとつ、“マクロ的視点” の話題、「森の意義」について。

(p280より引用) 地球上にはさまざまな生態系があるが、森林生態系こそ最も複雑で成熟した自然である。「複雑」というのは豊かな生物相(多様性)と、それを可能にする高い生産力をもつという意味で、豊富な生産者(緑色植物)が築く広い底辺の上に生態的ピラミッドが何段も乗っている、まさに「量」が「質」を支える構造だ。また「成熟した」というのは遷移という気の遠くなるような長い時間を経て到達した安定という意味で、私たちが森を見るときその背後には数百年から数千年という時間が込めら れている。

 そして、恐ろしいことは、その営々として積み上げられた時間の堆積が、一瞬の人工的営為で破壊されてしまうという今の現実なのです。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 著者の相馬融さんが「あとがき」に、本書の構成(目次立て)の骨子をこう記しています。

(p332より引用) 一応空間軸という視点で、小さいものから大きいものへと配置し、それぞれの中で時間軸を取り入れて語り、最後に時間軸をまとめて俯瞰するという感じである。

 まさにこの目次が示しているように、本書の魅力は、生物学への誘いとしての「体形的な網羅性」にあると思います。
 私にとっては、はるか昔の学生時代の記憶を思い起こしつつ、最新の研究成果の一端に触れるという貴重な体験と新たな刺激を得ることができました。

 

 

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古代文字の解読 (高津 春繁・関根 正雄)

2024-05-07 11:15:34 | 本と雑誌

 いつも利用している図書館の新着本リストで目についたので手に取ってみました。

 エジプト聖刻文字、楔形文字、ヒッタイト文書、ウガリット文書、ミュケーナイ文書、「古代文字の解読」という日ごろ触れることのないジャンルは大いに気になりますね。
 1964年発刊の著作が底本ということなので、今から半世紀以上前の内容ですが、当時の時代感も合わせて感じられる興味深いものでした。

 ただ、とても残念で情けないことに、本書に記された解説は言語学の専門的記述ばかりで、正直そちらの方面には全く門外漢の私にとっては全くついていくことができませんでした。

 そのなかで、何とか解説のイメージが浮かんだところを書き留めておきましょう。
 エジプト聖刻文字と楔形文字の「解読の手順についての相似」に触れたくだりです。

(p134より引用) アケメネス朝の王達の刻文にみられる第三類が第一類の翻訳であることは明らかであった。第一類の古代ペルシア語がこのペルシア王国の主な言語で、それ故第一に記されていたからである。それで第三類の解読は、第二章に述べたロゼッタ石によるエジプト聖刻文字の解読が、聖刻文字の下に書かれていたギリシア文によったのと同じような事情になった。聖刻文字解読の場合に、プトレマイオス、クレオパトラー、ベレニケー等の固有名詞が最初の手がかりとなった、と同じように、アケメネス朝の王達の刻文の第三類解読の場合も、固有名詞に最初の注意が向けられた。

 このように、解読にあたっては、同じ内容を異なる文字で表した、それも有名な「固有名詞」を含んだ「遺物」の存在が解読のキーファクタだったようです。

 ともかく、本書、私の手には負えませんでしたね。もう少し、それぞれの言語の解読にあたっての素人でも分かるような苦労話やエピソードめいた逸話が紹介されているのかと思ったのですが・・・、全く予想と期待が外れてしまいました。

 もちろん、それは本書の価値を否定するものではありません。ひとえに私の勝手な思い込みとは違っていたということです。

 

 

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ゼロから分かる! 図解落語入門 (稲田 和浩)

2024-05-02 10:34:21 | 本と雑誌

 

 いつも利用している図書館のテーマ本コーナーで目についたので手に取ってみました。

 私は結構「落語」が好きで、夜、寝る前に布団に入ってCDで落語を一席聞くのが、このところの習慣のようになっています。

 さて、本書、改めて「落語の入門書」にはどんなことが書かれているのか楽しみに読み始めたのですが、落語の演目や落語家の紹介、寄席への誘い、落語家の平生をはじめ、落語で描かれた江戸風情の解説まで多彩なトピックが取り上げられていて、なかなかに楽しめる内容でした。

 著者の稲田和浩さんは、私とほぼ同年代ということもあり、昭和を中心とした部分の解説はスッと入ってきましたね。

 

 

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精選女性随筆集 第九巻 須賀敦子 (川上 弘美 編)

2024-04-27 10:40:42 | 本と雑誌

 須賀敦子さんの作品は、10年以上前に「ヴェネツィアの宿」を読んだことがあるのですが、それ以来になります。ずっと気になっていた作家さんですが、今般「精選女性随筆集」の中に見つけたので手に取ってみました。

 どの作品も上品で繊細な感性が漂いながらも、しっかりと須賀さんの思索の流路が綴られていますね。

 ということで、載録された作品の中から、特に、私の印象に残ったくだりを(かなりの長文になりますが)覚えとして書き留めておきます。

 父との思い出をモチーフにした「オリエント・エクスプレス」と題した小文。
 須賀さんは、重篤な病状にあるお父様に贈るコーヒーカップを手に入れるためにミラノ中央駅のホームに向かい、入線していたオリエント・エクスプレスの車掌長に話しかけました。

(p97より引用) ヨーロッパの急行列車でも稀になりつつある、威厳たっぷりだが人の好さがにじみ出ている、恰幅のいいその車掌長に、私は、日本にいる父が重病で、近々彼に会うため私が東京に帰ること、そしてその父が若いとき、正確にいえば一九三六年に、パリからシンプロン峠を越えてイスタンブールまで旅したこと、そのオリエント・エクスプレスの車内で使っていたコーヒー・カップを持って帰ってほしいと、人づてにたのんで来たことなどを手みじかに話した。ひとつだけ、カップだけでいいから欲しいんだけれど、領けていただけるかしら、とたずねると、彼は、はじめは笑っていた顔をだんだんとかげらせたかと思うと、低い声の答えが返ってきた。
「わかりました。ちょっと、お待ちいただけますか」
 そういって車内に消えると、彼はまもなく大切そうに白いリネンのナプキンにくるんだ 包みをもってあらわれた。・・・
「こんなで、よろしいのですか。私からもご病気のお父様によろしくとお伝えください」

 そして、急ぎ帰国した須賀さんはお父様の病室に飛び込みました。

(p98より引用) 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレス・・・・・・は?
・・・ 私は飛行機の中からずっと手にかかえてきたワゴン・リ社の青い寝台車の模型と白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。
 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。

 確かに須賀さんの綴る文は、情趣にあふれ穏やかな質感をもった出色のものだと思いますが、はやり、それを活かしているのは、心に響くモチーフやエピソードを捉えるピュアな感性なのでしょう。

 

 

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街場の成熟論 (内田 樹)

2024-04-21 11:54:48 | 本と雑誌

 いつも聴いている大竹まことさんのpodcast番組に著者の内田樹さんがゲスト出演していて、本書についてお話ししていました。

 内田さんの著作はいままでも「日本辺境論」をはじめとして何冊か読んでいます。
 内田さんの主張は、ご自身の “思考の軸足” にブレがないので、昨今のいろいろな社会事象に関する私自身の考え方の揺らぎをアジャストするのにとても参考になります。

 ということで、いつもながら興味深い気づきは多々ありましたが、それらの中から特に印象に残ったものをいくつか覚えとして書き留めておきます。

 まずは、「選挙と公約」というタイトルの小文から、「日本の有権者の投票行動における決定要因」について、内田さんの理解を語っているところです。

(p98より引用) 選挙における政党の得票の多寡と、政党が掲げる公約の適否の間には相関がない。・・・
 ・・・選挙に勝った政党は政策が正しいから勝ったのではない。「勝ちそうな政党」だったから勝ったのである。選挙に負けた政党は政策が間違っていたから負けたのではない。「負けそう」だから負けたのである。
 有権者たちは「勝ち馬に乗る」ことを最優先して投票行動を行っている。その「馬」がいったいどこに国民を連れてゆくことになるのかには彼らはあまり興味がない。

 大胆な仮説ですが、実際の結果を振り返ると(情けないことですが)確かになるほどと首肯できますね。
 そして、内田さんはこう続けています。

(p100より引用) 選挙というのは、勝った政党の掲げた政策の方が優先的に実施される可能性が高いという、ただそれだけのものである。それ以上の意味を選挙に与えてはならない。
 「正しい政策を選べ」と求められていると思うからそれが分からない有権者は棄権する。だから、これほど棄権率が高いのである。有権者は「正しい」ことを求められていない。「自分が暮らしやすい社会」を想像することを求められているのである。それほど難しい仕事だ
ろうか。

 これは確かに現実的な行動論ですが、今の多くの有権者は「『自分が暮らしやすい社会』が選挙により実現できる」という意識すら希薄であり、そもそものところ「選挙行動と結果の相関に対する不信感(無力感)」とその顛末としての「行動意欲の欠如」が実態のようにも思います。すなわち「私が、選挙に行って誰かに一票を投票しても、世の中何も変わらない」という諦観が先に立っているのだと思います。
 これを突き崩すには “投票による変化の成功体験” が最も有効な手段なのですが、不幸にも、多くの有権者はその「過去の痛い失敗例」をいまだに強く記憶しているのです・・・。

 次は「格差について」のコラムでの内田さんの指摘。

(p130より引用) 格差というのは単に財が「偏移」しているということではない。格差は必ず、何の価値も生み出していない仕事に高額の給料が払われ、エッセンシャル・ワーカーが最低賃金に苦しむという様態をとる。必ずそうなる。

 この指摘も納得感がありますね。
 社会の発生論的に、いわゆる “ブルシット・ジョブ・ワーカー” は、支配階級であったり管理層であったりするのが通例なので、この是正には「公権力の関与」が求められるのです。ただ、その具体的な関与手段として、「公権力による富の再配分」は現実的には効果薄だと内田さんは考えています。
 内田さんのお勧めは、富裕層から吸い上げた資産を活用した「公共財の充実」、すなわち、誰でもが自由に使える “公共基盤(コモン)の再生” です。

 そして、最後に書きとめておくのは「V 語り継ぐべきこと」の章で記された内田さんによる「半藤一利さんの著書(語り継ぐこの国のかたち)の解説文」の中のくだりです。

(p253より引用) 歴史修正主義者が登場してきたのは、日本でもヨーロッパでも1980年代に入ってからである。まるで戦争経験者が死に始めるのを見計らったように、戦争について「見て来たような」話をする人間たちがぞろぞろと出てきたのである。
 歴史修正主義は戦争経験者たちの集団的な沈黙の帰結である。・・・
 だからこそ半藤さんの「歴史探偵」の仕事が必要だったのだと思う。半藤さんは戦争経験者たちが言挙げしないまま墓場まで持ってゆくつもりだった記憶の貴重な断片を取り出して、記録することを個人的なミッションとしていた。

 半藤さんの思想と活動を通して、“「歴史」に真摯に向き合い、その記憶から謙虚に学ぼうとする姿勢” を、内田さんはとても大切なものとして伝えようとしています。

 

 

 

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佐用姫伝説殺人事件 (内田 康夫)

2024-04-15 12:47:53 | 本と雑誌

 かなり以前に読んでいた内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” ですが、このところ、私の出張先が舞台となった作品を、あるものは初めて、あるものは再度読んでみています。

 ただ、私の出張先も以前勤務していた会社のころを含めるとそこそこの都道府県にわたるので、どうせなら “浅見光彦シリーズ” の制覇にトライしてみようと思い始ました。

 この作品は「第20作目」です。
 今回の舞台は佐賀の “唐津” “有田”。唐津には昔熊本勤務時代に家族で訪れたことがあります。作品に登場している “呼子” にも足を伸ばしました。
 また本作品は “陶芸” がモチーフになっているのですが、“有田” にはここ数年、毎年のように顔を出しています。町の中心から少し外れたところにある「CHINA ON THE PARK」は深川製磁の工房やギャラリーがあって見学するだけでも楽しいです。超お勧めですね。

 で、肝心の作品の印象です。
 ネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、トリックも月並み、オーソドックスな内田作品といった感想ですね。犯行の動機には少々無理があるように感じるのがちょっと残念です・・・。

 さて、取り掛かってみている “浅見光彦シリーズ制覇チャレンジ”、それほど強い意志をもって完遂しようとも思っていませんので、まあ、“どこまで続くことやら”。

 次は、「恐山殺人事件」ですね。

 

 

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黒い海 船は突然、深海へ消えた (伊澤 理江)

2024-04-09 09:22:38 | 本と雑誌

 いつも聴いている大竹まことさんのpodcastの番組に著者の伊澤理江さんがゲスト出演していて、本書についてお話ししていました。

 漁船(第58寿和丸)沈没事故発生(2008年6月23日 千葉県銚子市犬吠埼灯台の東方沖350 km)から11年後の2019年、別の取材で訪れた小名浜港(福島県いわき市)での事故関係者たちの会話をきっかけに、その沈没時の状況とそれに対する公式報告の不自然さを奇異に思った伊澤さんが、事故の真相を粘り強い調査・取材で顕かにして行きます。

 数々の興味深いエピソードが記されていましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。

 まずは、第58寿和丸の運輸安全委員会による事故報告書。それは、まさに東日本大震災が福島を襲った直後に公表されました。

(p145より引用) そうした大混乱が全く収まっていない2011年4月2日、運輸安全委員会は第58寿和丸の事故報告書を公表したのだ。混乱の渦中にいた野崎や酢屋商店の関係者たちは、これをどう受け止めたのか。野崎が振り返る。
 「すごくショックだった。うちらだけでなく、福島全体の漁業もどうすんだ、こうすんだって やっているそんな時期に寿和丸の報告書を出すんだな。ひどい。本来は1年で報告書を出さなければいけないはずなのに、それを過ぎても委員会は報告書を出さなかった。『結論を出さないのはおかしいんじゃないんですか』と、ずっと言っていたんだけど、出されてみると、あのタイミングか、と」
 野崎や第58寿和丸の生存者らにショックを与えたのは、報告書の公表時期の問題だけではなかった。彼らを納得させる内容にはほど遠かった。
 報告書は、大きな波が第58寿和丸を襲い、船を転覆・沈没させたと結論付けていた。船体が損傷したのではないかという生存者や僚船の乗組員らの証言は、完全に無視されている。「船体損傷」の根拠と考えられていた大量の油の流出については、驚くべきことに、そもそもそこまで大量の油など流出していないという結論になっていた。

 そして、こう述懐は続きます。

(p147より引用) 酢屋商店社長の野崎は、最初に報告書を見たとき「あり得ない状況を組み合わせることで、どうやったら波で転覆させられるかを一生懸命考えたような内容だ」と思った。

 ここまで現場の証言や物証を無視し、委員会の「推定の積み上げ」を根拠とした報告内容がいかなる背景のもとで作成されたのか、伊澤さんの取材はその核心に迫っていきます。

 しかしながら、調査関係者の記憶を辿る道は遠く、また(ご都合主義?の)守秘義務の壁に阻まれ、得られたとしてもその証言は断片的で要領を得ないものでした。

(p184より引用) いずれにせよ、事故原因を特定できなかった運輸安全委員会は結局、「波が原因」という海保の見立てに追随して結果ありきの路線を進み、海事部会で議論を進めたのだろう。
 第58寿和丸の取材に着手した当初、私は、運輸安全委員会は何らかの真実を隠すために潜水調査を拒み、強引な報告書を作成したのではないかとの疑念を持っていた。それはある意味、買いかぶり過ぎだったのかもしれない。実際にはリソースが限られるなかで、「教訓を残す」という役割を外形的に整える仕事をこなしただけのように思えた。

 伊澤さんはそのようにも思い始めました。

 そして、その後も事故原因の究明に資するであろう専門知識を深め、関係者への取材を続けた伊澤さんは、幾重にも重なる “機密” の壁に遮られながらも、最終的には「潜水艦との衝突」が事故原因であったであろうと信ずるに至りました。

 今、第58寿和丸の事故原因を究明する営みは、公文書の情報開示請求に対する「不開示決定の取消」を求める伊澤さんたちの運輸安全委員会を相手取った行政訴訟という「司法」の手に委ねられています。

(p294より引用) 船体が沈んでいる以上、第58寿和丸の側から原因を特定し、証明することはほぼ不可能かもしれない。この先も続く私の取材は、結果として潜水艦の特定には至らないかもしれない。
 それでも私は、17人もの船員が命を落とした大事故について当事者たちの証言に忠実に記録を残したいと考えてきた。

 伊澤さんの真実追及への熱意が溢れ迸る本書、まさに “渾身の力作” です。

 

 

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訂正する力 (東 浩紀)

2024-04-02 10:16:07 | 本と雑誌

 いつも利用している図書館の新着本リストで目についたので手に取ってみました。

 東浩紀さんの著作は「ゲンロン戦記-「知の観客」をつくる」に続いて2冊目です。
 先の本は “ビジネス書” 的な内容だったので、この著作では、本来?の東さんらしい思索的メッセージに触れられるかと期待して読んだものです。

 多彩なテーマに関する東さんらしいコメントや示唆がありましたが、それらの中から特に私の関心を惹いたところをいくつか書き留めておきましょう。

 まずは、「はじめに」に記されている「訂正する力」の定義

(p4より引用) ものごとをまえに進めるために、現在と過去をつなぎなおす力。それが本書が言う「訂正する力」です。

 “リセット” とは違います。“老いる” ことも「訂正」のひとつの姿だというのです。

(p6より引用) では、老いるとはなんでしょうか。それは、若いころの過ちを「訂正」し続けるということです。・・・同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。

 イントロダクションとしては、分かりやすい説明ですね。

 そして、「訂正する力」の発揮は、「じつは・・・だった」という気づきを発見しそれを積み重ねていくという現実的なプロセスをたどります。

(p111より引用) 社会はリセットできない。人間は合理的には動かない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。それが本書の基本的な立場です。

 そうやって「訂正」することを認めあう人間関係が、そこに生きる人々の人生を豊かなものにしていくのだと東さんは語るのです。

(p156より引用) 人生は、訂正する力で豊かになります。自分のイメージが他人のなかでたえず訂正され、他人のイメージも自分のなかでたえず訂正されていく、そういう柔軟な環境が生きることをとても楽にしてくれるからです。

 「訂正を認め合える」ということは そこに “信頼関係” が築けているということでもあるからです。
 そして、東さんは、「訂正を認める」ことにより “極論を共存させる” こともできると指摘しています。

(p236より引用) 縄文と弥生。朝廷と武士。攘夷と開国。明治と戦後。閉じることと開かれること。作為と自然。漢意と大和心。保守とリベラル。ふたつの極論の対立は何回も何回も繰り返される。そして両者を往復するかたちでアイデンティティが形成される。

 そこに、日本が持つ “両義的な文化的ダイナミズム” の源があり、その点をもって「日本は、じつは “訂正できる国” だった」と東さんは主張しているのです。

 さて、本書を読み通しての感想です。

 先に読んだ「ゲンロン戦記」とは全く異なるテイストです。こちらの方が東さんが本来得意とするジャンルでしょうから、前著と比較すると納得性や読みやすさに圧倒的な差がありますね。

 私自身、東さんの著作はほとんど読んだことがないので、彼の思想そのものはまだ全く理解しているわけではありませんが、“A or B” という「0(ゼロ)1の結論」を突きつけてくる昨今の短絡的議論のトレンドに対し、本書で東さんが提起している「現実的な弁証法的思考スタイル」は “思索のプロセス” としては十分採るに値するものだと思います。

 

 

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暇と退屈の倫理学 (國分 功一郎)

2024-03-29 10:38:31 | 本と雑誌

 いつも聴いている茂木健一郎さんのpodcastの番組に著者の國分功一郎さんがゲスト出演していて、茂木さんと本書についてお話ししていました。
 なかなか面白そうなやり取りだったので、ちょっと気になって手に取ってみました。(数年前に出版された本ですが、文庫化されて、近場の図書館ではいまだに10人以上の待ち行列でした)

 数々の興味深い思索の解説がありましたが、それらの中から、私が関心を惹いて理解できたような感触を得たところをひとつ書き留めておきましょう。

 それは、「人類の定住化と退屈との関係」について。
 人類の “定住化” は約1万年前から食糧生産に先だって中緯度地方にて始まったとのことですが、國分さんは「定住によって人間は、退屈を回避する必要に迫られるようになった」と指摘しています。
 遊動生活では移動のたびに新たな環境に適応すべく常に感覚を活性化させていました。

(p104より引用) だが、定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。人間はその優れた探索能力を発揮する場面を失っていく。だから定住者は、行き場をなくした己の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面をもとめければならない。

 そして、その人間の有り余る心理能力を吸収する装置や場面として「文明」が生起したと考えるのです。

 さて、國分さんは、以降、マルクス、ルソー、ハイデッガーといった超有名な思想家の論考を取り上げつつ、「暇と退屈」をめぐる多様な思索を紹介していくのですが、正直、私の場合、かなり早い段階から國分さんの解説に頭がついていかなくなりました。
 そして、その後はページのみが繰られていって、最後の「結論」の章のこういうくだりにたどり着いたという顛末です・・・。

(p409より引用) 世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思
考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。

(p409より引用) さて、本書にとっての最初の問いは、どうしても退屈してしまう人間の生とどう向き合って生きていくかということだった。それに対し、〈人間であること〉を楽しみ、〈動物になること〉を待ち構えるという結論が導きだされた。

 やっぱり駄目ですね。せっかくの國分さんの丁寧な解説をもってしても、私には、何も理解できませんでした。もう一度読み直さなくてはならないようです。

 ただ、私の場合、そもそも思考する訓練が全くできていないので、何度読んでも理解には至らないかもしれません。ともかく、まずは「考える」ことができるようにならなくては、幾度となく “返り討ち” に会うだけでしょう。

 しかし、このレベルの哲学書が「25万部突破のロングセラー(2022年度時点)」とのこと、私にとっては驚愕の事実ですね。

 

 

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札幌時計台殺人事件 (木谷 恭介)

2024-03-25 10:42:23 | 本と雑誌

 このところ気分転換に読んでいるミステリー小説は、全シリーズ読破にチャレンジしている内田康夫さんの “浅見光彦シリーズ” に偏っているのですが、時折は、ちょっと息抜きとして、今まであまり読んだことのない作家の方々の作品にトライしてみようと思っています。

 今回は、いつも利用している図書館で目についた本です。
 北海道が大好きな私にとって “旅情ミステリー” と小さく付記された「札幌時計台殺人事件」というタイトルは問答無用で気になりました。著者の木谷恭介さんは、内田康夫さんより7歳年上の作家で、たぶんその作品を読むのは初めてだと思います。

 さて、ミステリー小説なのでネタバレになるとまずいので内容には触れませんが、読んでみると、典型的な「2時間ドラマの原作」のような印象でした。主人公のキャラクタ設定や謎解きで訪れる場所は、まさに絵になるテレビドラマ向けです。

 私個人としては、本作の舞台となった札幌の街中や積丹半島は、私も何度か訪れて結構土地勘もあるところなので、懐かしさもあって、それなりには楽しめましたが、ミステリー作品としてのエンターテインメント性という点では “平均的” ですね。

 

 

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推す力 人生をかけたアイドル論 (中森 明夫)

2024-03-21 13:38:17 | 本と雑誌

 いつも利用している図書館の新着本の棚で目についたので手に取ってみました。

 著者の中森明夫さんは、コラムニストでアイドル評論家。
 中森さんの書き物は雑誌等で目にしたことはありますが、一冊の本として読むのはたぶん初めてだと思います。

 本書は中森さんの “得意ジャンル” である「日本のアイドルの半世紀」をたどったものですが、中森さんが私と同年代ということもあり、登場しているアイドルのみなさんは私も馴染みの方々だろうと期待して読み始めました。

 予想どおり数々の興味深いエピソードの紹介がありました。
 とはいえ、1971年の南沙織さんにはじまり、1980年代のアイドル全盛時代の話題には十分ついて行けたのですが、2000年代、2010年代と時を経るにつれてやはり無理でしたね。“大人数グループ乱立” のころからです。

 そういう中で、私でも首肯できる中森さんのコメントを書き留めておきます。
 “メディア環境の変化が生み出した新たなアイドル誕生” を指摘したくだりです。

(p194より引用) たとえば地方に住む、芸能プロダクションに所属しない1人の少女がいるとしよう。路上でライブをやって、スマホで動画を撮り、YouTubeにアップする。なんと、たった一人でアイドル活動が展開できるのだ。いつでも、どこでも、誰でもアイドルになれる。24時間、世界中に発信できる。これは大変なことだ。アイドルをめぐるメディア環境は、一変してしまった。

 このインターネットのインパクトは絶大でした。「アイドルを目指して上京した」という前近代的なエピソードは雲散霧消してしまいましたね。

 そして、今は “生成AI” の時代。
 さて、リアルアイドルとバーチャルアイドルは、“代替” の関係でしょうか?それともどちらかが他方を “補完” するような関係になるでしょうか?やはり望むべくは、双方が両立して “相乗” 効果(シナジー)を発揮する姿を期待したいですね。

 もう一か所。
 中森さんは、何人ものアイドルがまだ世に出る前の “原石” だったころ、それを探し当てる場に何度か立ち会っています。「国民的美少女コンテスト」や「東宝シンデレラオーディション」などがそれです。選ぶ側も選ばれる側も “将来の姿” を見ています。

(p250より引用) アイドルを「推す」ということは、そう、未来を信じることなのだ。

 このフレーズ、本書を締めくくるにはピッタリです。いいですね。

 

 

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