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生命と記憶のパラドクス 福岡ハカセ、66の小さな発見 (福岡 伸一)

2015-08-30 21:22:55 | 本と雑誌

 「生物と無生物のあいだ」を皮切りに「動的平衡ダイアローグ」「フェルメール 光の王国」等々、福岡伸一氏の著作は何冊か読んでいます。
 本書は「週刊文春」で連載された小文をまとめたものとのこと。とても穏やかで軽いタッチの読み物です。

 本書の隋所に福岡氏一流の興味深い視座からのものの見方が開陳されています。
 たとえば「働きバチは不幸か」という章。


(p27より引用) 働きバチたちは、女王が君臨する王国の奴隷のように思えるけれど、実は、そんなことはない。役の割り振りは人間の勝手な見立てにすぎない。ハチの国の主権者は、働きバチそのものである。女王バチは、実は女王でもなんでもなく、巣の奥に幽閉された産卵マシーン。・・・僅かな数だけ生み出される雄のハチもまた働きバチの支配下にあり、用が済めば餌ももらえず捨てられる。働きバチだけが、よく食べ、よく学び、労働の喜びを感じ、世界の広さと豊かさを知り、天寿を全うして死ぬ。・・・働きバチこそが生の時間を謳歌しているのである。


 “なるほど、こういう捉え方もあるのか”と首肯できる面白い指摘ですね。

 そのほかにも「進化論」を材料にしたくだりもなかなか面白いものでした。

 ときどき聞く“進化論”の説明として、「キリンの首はなぜ長くなったのか」の理由を、「高いところにある葉っぱを食べようとする努力が代々受け継がれてきたため」というものがあります。これは、“獲得形質の遺伝”という今では否定されている考え方ですが、この説によると「使わないものは退化する」ということも導かれます。(最近では、獲得形質はRNAにより遺伝するという説も出てきているようですが・・・)
 しかし、現在の考え方は「進化には目的がない」というものです。即ち「進化」は“自然淘汰”の結果に過ぎないということであり、その意味では「退化」と考えられるような変化も「進化」であるということになります。


(p90より引用) 親から子へ伝達されるのはDNAだけであり、前の世代で起こった適応的変化は、次の世代ではすべてリセットされてしまう。・・・DNA上にランダムに起きた突然変異によってのみ、その機能は損なわれる。
 ・・・もし「退化」が受け継がれ、種の中で広がり、形質として固定されるためには、その退化に積極的な理由が必要となるのだ。つまり「退化」には進化的な意味がなければならない。不用だから消えたのではなく、消えたことが有利でなくてはならない。


 暗いところに生きる生物には「目」が退化したものがいます。「見えなくてもいい=目がなくてもいい」というレベルではなく、目がないことに積極的な有利点がなくてはならないということです。
 これについての著者の仮説は「視覚を維持しようとするための情報処理の負荷やエネルギー消費の回避」というものですが、仮にそうだとしても、そうなる(視覚を構成する要素が消失する)ためには気の遠くなるような「偶然の積み重ね」に拠るというのが進化論の考え方なんですね。

 

生命と記憶のパラドクス 福岡ハカセ、66の小さな発見 (文春文庫)
福岡 伸一
文藝春秋
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戦争と検閲―石川達三を読み直す (河原 理子)

2015-08-23 22:55:06 | 本と雑誌

 夏になると「戦争」に関する本を1冊は読もうと思っています。
 そんな中、いつも行っている図書館の新着本の棚で目についたので手に取ってみました。


 著者の川原理子さんは朝日新聞の記者とのこと、ある取材で石川達三氏の子息でる石川旺さんと出会ったのが本書を記すきっかけになったそうです。発禁処分を受けた「生きている兵隊」という達三氏の作品を材料に、当時の言論統制の実態を顕かにしていきます。

 石川達三氏が起訴された罪名は「新聞紙法違反」でした。
 1909年に公布された新聞紙法第23条には、

  • 内務大臣ハ新聞紙掲載ノ事項ニシテ安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スルモノト認ムルトキハ其ノ発売及頒布ヲ禁止シ必要ノ場合ニ於テハ之ヲ差押フルコトヲ得
  • 前項ノ場合ニ於テ内務大臣ハ同一主旨ノ事項ノ掲載ヲ差止ムルコトヲ得

と定められており、同第41条には「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル」事項を新聞紙に掲載した発行人・編集人に対する罰則が規定されています。

 もとより、ここでのポイントは「安寧秩序ヲ紊シ又ハ風俗ヲ害スル」事項の定義であり、その実運用の主体及び適用の実態です。
 たとえば、1937年盧溝橋事件の直後には、具体的適用のため「標準」が示されました。こういった行政的指導によって、言論統制の範囲は、時局の緊迫化に呼応しつつ明確な意図をもって拡げられていったのです。


(p16より引用) 八月十三日付で「時局二関スル出版物取締二関スル件」を出して、次のような「一般安寧禁止標準」を重視して出版物取り締まりにあたるよう、内務省が警視庁特高部長と各庁府県警察部長に求めている。・・・
 農村の疲弊も、戦時財政が生活を圧迫することも公知のことで、軍機とは言えない。そうした事柄の掲載を制限するのに「安寧」が使われていた。


 ともかく、国民の戦争遂行意欲を減退させるような軍部にとって都合の悪いことは知らしめない、こういった情報統制によって国民を判断停止状態に留め置くという為政者の志向はいつの時代にも少なからず存在します。
 新聞紙法の公布は明治42年(1909年)、その前身の新聞紙条例は明治8年(1875年)の公布ですから、言論統制や検閲の下地は、西欧思想が導入され文明開化で沸き立つ明治初期から始まっており、長い期間を経て着々と塗り込められていったのです。

 こういった流れに抗するのがジャーナリストであり作家の役割なのですが、当時は石川達三氏ですら、こういった心境だったのです。


(p106より引用) 戦時にあっての作家の活動はやはり国策の線に沿うてかくものでなくてはなるまい。その点に関しては誤りはなかったと信ずる。しかし作家の立場というものは国策と雖もその中に没入してしまってよいものではない。国策の線に沿いつつしかも線を離れた自由な眼を失ってよいものではない。この程度の自由さえも失ったならば作家は単なる扇動者になってしまうであろう。


 時局がら止むを得ないのでしょうが、危うい良識の綱渡りです。

 さて、戦時下において政府・軍部によって抑圧された「言論の自由」ですが、終戦後速やかに、GHQの指導により、制限を可能としていた各種法令の廃止が為されました。しかしながら、その実態はというと、為政者の交替はあったものの、新たな為政者の望む方針に沿った水面下での情報操作の動きが続いていたようです。


(p233より引用) ××や○○や空白を残すことを、GHQは許さなかった。新聞や出版物の検閲をしているということ自体が一般の人には伏せられていた。言論表現の自由を掲げているのだから、検閲の痕跡を紙面に残してはならないのだ。力の痕跡を残した戦前の検閲よりずっと巧妙な、“見えない検閲”だった。
 だから私(たち)は作為が加えられていることに気づかず、さらさら読み飛ばしてしまう。


 高見順は「敗戦日記」の中で、


(p231より引用) アメリカが我々に与えてくれた「言論の自由」は、アメリカに対しては通用しないということもわかった。


と記しています。
 

戦争と検閲―石川達三を読み直す (岩波新書)
河原 理子
岩波書店
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大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか (タイラー・コーエン)

2015-08-16 21:08:46 | 本と雑誌

 ちょっと話題になっている本です。
 コーエン氏の著作は、以前「大停滞」を読んでいるので、これで2冊目になります。

 本書は、テクノロジーの高度化・進化が近未来の雇用環境・労働現場へ及ぼす影響を論じたものです。その結果は、社会の富の分布にも変化をもたらすのですが、それは、将来に向かっての「中流層の縮小・富裕層と貧困層の差の拡大」という方向だと著者は指摘しています。

 そういった大きな流れに至る解説のなかで、著者は、テクノロジーの進化が労働環境に与える数々の影響を紹介しています。
 たとえば、そのひとつは「チーム志向の高まり」です。


(p35より引用) 賢い機械がもたらす革命は、仕事の世界をいっそうチーム志向に変えつつある。機械、コンピュータ、インターネットの力により、大勢の人間が協力して働くことが可能になった。ときには、世界中の人が結びつくケースもある。アップルのiPadの生産過程では、世界の多くの生産者がネットワークを築き、目を見張るような経済的協力関係を実践している。


 こういった労働環境の中の人間の位置取りが変化していく状況において、働く人間はどこにその存在意義を発揮するのか、これは、私たちの仕事への関わり方の今後を考えるにおいて重要な課題提起です。一体、どういったスキルの人材が求めらるのか、その人材はどういった役割を果たすのか・・・、著者はこう語っています。


(p36より引用) このようなシステムのもとでは、一人が失敗をしでかせば、非常に大きな経済的価値を生み出すための大規模な生産体制にダメージが及びかねない。・・・マネジャーの役割は、こうした分業体制を効率的に機能させることだ。


 「分業」といっても一つの工場内での分業とは、質も範囲も大きく異なります。また、求められる専門的スキルも飛躍的に高度なものになります。畢竟、そういったマネジメントができる人材は高報酬を得られますし、他方、断片的なプロセスに関する中途半端なスキルしかもっていない人材は、機械に取って代わられてしまうので、次第に職を失っていくことになります。

 著者は、今後のテクノロジー、特にコンピュータ関連技術の向上に伴う人間の関わり方・在り方として、「二つの変化」が起きつつあると説いています。


(p189より引用) 一方では、賢い機械と同じようにものを考えたり、少なくとも機械の行動原理を理解したりすることによって、高い地位に就き、高い収入を得る成功者が出現する。・・・要するに、高所得者の多くは、認知能力の面でコンピュータ化していくと思われる。しかし他方、私生活の面では、人間とコンピュータの違いが拡大するだろう。数字を記録したり、計算をしたり・・・といった基礎的な機能の多くをコンピュータに任せるようになるにつれて、私たちはこれまで以上に直感的にものを考え、日々の生活のなかの心理的・情緒的側面に敏感になる。その結果として、自発的な創造性が高まるだろう。


 そして、著者がより注目しているのは後者の流れのようです。


(p194より引用) よきにつけ悪しきにつけ、私たちが天才的なマシンに依存しない分野が(いくらかは)残りそうだ。


 この指摘に期待したいですね。私たちの日常の営みが次々と機械に置き換えられていくのは、それに決して楽しいものではありません。

 さて、本書を読み通して、特に印象に残った指摘を最後にもうひとつ書き留めておきます。
 著者は、科学の複雑化や専門分化の流れが逆転することはないのとの認識のもと、科学は、以前のように一人の人間の中で、全体像が把握され、新たな発見がなされていくということは不可能になっていくと考えています。


(p260より引用) 知識の全容は、個人の頭脳の中ではなく、科学というシステム全体に蓄えられるようになる。


 その意味では、膨大な知識の全容を把握している“未来の科学者”というのは、「ネットワーク化されたコンピュータ」だということになるのかもしれません。
 そういった環境下では、一体誰が「新たな理論の発見者」となるのでしょうか・・・。「コンピュータ」がノーベル賞の受賞者になるというのも、強ち冗談とも言えなくなってくるようです。しかし、その受賞対象たる新理論を人間が理解できるのか、選考委員もコンピュータ・・・?

 

大格差:機械の知能は仕事と所得をどう変えるか
若田部 昌澄,池村 千秋
エヌティティ出版
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いま、君たちに一番伝えたいこと (池上 彰)

2015-08-09 23:10:26 | 本と雑誌

 いまだ人気の衰えを知らない池上彰氏の著作です。
 タイトルから吉野源三郎氏の名著「君たちはどう生きるか」を連想して、手に取ってみました。

 池上氏の本は今までも何冊か読んでいますが、氏の本を前にすると、今度はどんな新たな知識を教えてくれるのかという期待とともに、それをどういうふうに伝えてくれるのかという「切り口」へのワクワク感がありますね。
 ですが、本書を読み終えてみると・・・、これは、かなりフラストレーションが溜まるものでした。
 取り上げているテーマはもちろん興味深いものが多かったのですが、その解説の内容やそこからの示唆という点では、正直なところ期待はずれです。

 たとえば、「イスラム国」について。
 「イスラム国」は、国際テロ組織「アルカイダ」・アフガニスタン反政府武装勢力「タリバン」に代わり、短期間に急速に巨大化していきました。その過程において、「カリフ制の復活」を唱え過激な活動をとるイスラム国の主張は、多くのアラブ人を惹きつけているという状況があることも否定できません。
 そのあたりの池上氏の解説はこんな感じです。


(p193より引用) 第1次世界大戦中、イギリスやフランスは、オスマン帝国が崩壊したら、その地域を山分けしようという秘密協定を結んでいました。「サイコス・ピコ協定」です。・・・
 この国境線を打ち破ったというのが、「イスラム国」の主張です。・・・
 ヨーロッパの列強によって勝手に引かれた国境線を、自分たちで引き直す-。この主張は、地元のアラブ人にとって魅力的な響きがあります。


 こういった説明から、現代の国際問題の背景解釈には歴史の知識が不可欠とのアドバイスにつながっていくのですが、どうもこの程度の短絡的なストーリー展開は、想定している対象が理系の大学生であるとしても(あるがゆえに)圧倒的に物足りないものがありますね。

 「いま、君たちに一番伝えたいこと」というタイトルが本書のメッセージを真に表わしているのだとすると、この程度の掘り下げ方で止まっているエピソードの列挙が「一番伝えたい」ということになるわけです・・・。ちょっと、幾らなんでもそれはないでしょう という感じですね。残念です。
 

いま、君たちに一番伝えたいこと
池上 彰
日本経済新聞出版社
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ピカソは本当に偉いのか? (西岡 文彦)

2015-08-02 20:25:45 | 本と雑誌

 知人のレビューをみて興味を持ちました。
 「ピカソの絵って、どこがスゴイの?」、初めてピカソを観た多くの人が抱く疑問です。私もその一人でした。

 著者の西岡氏は、本書で、「ピカソとその作品にまつわる素朴な疑問」に答えていきます。
 たとえば、ピカソの作品が高い値段で取引される理由。それは「画商の戦略的活用」にあったと言います。


(p28より引用) ピカソの成功の秘密は、19世紀後半に急成長した画商というビジネスの可能性を正確に見抜き、自分の作品の市場評価の確立と向上にあたって、彼らが果たす役割というものをとことん知り抜いていた点にありました。


 とはいえ、その前には環境の変化、すなわち「画商」の介在による「絵画ビジネス」の興隆がありました。絵画彫刻のスポンサーが教会・王侯貴族から新興富裕階級に移りつつあるとき、前衛絵画として「印象派」が登場し、急激に評価を高めた彼らの作品は市場において高値で取引されるようになっていたのです。


(p33より引用) ピカソの画家としての幸運は、まさにこの20世紀初頭という時期に新進画家としての評価を確立して、印象派に続く前衛のスター作家を求めていたマーケットの要請に、完璧に応えてみせた点にありました。
 そういう意味でピカソは、絵画史上に初めて登場した「最初から投機目的で買われる絵画」というものを象徴する存在といえます。


 ピカソは、自らの画家としての類まれな才能に加え、まさに商人としての感覚をもって世の時流をも味方につけました。


(p45より引用) 絵画ビジネスに関して抜群の才覚を持っていたピカソは、その時々の市場の状況に呼応して自身の作風を変幻自在に転換してみせています。
 画風を目まぐるしく変えたことから「カメレオン」の異名もとっていますが、その作風の変遷をつぶさに眺めてみますと、それぞれの時期に彼の絵を扱った画商の顧客の趣味を忠実に反映していることがわかります。・・・
 こうした柔軟にして周到な戦略は、ピカソが持って生まれた破格の天分と、父親が施した英才教育による絵画技術の所産であり、同時に、彼の持ち合わせていた機を見るにおそろしく敏な商才の賜物といえるでしょう。


 この「時流」という点では、絵画が置かれたポジションの変化もピカソにとって追い風だったようです。
 教会美術・王侯美術の時代の絵画は「写実」を重んじた「実用的機能」を課されていました。それが、市民の時代になり、技術的にも「写真」の登場により、その地位が大きく変動することになったのです。


(p125より引用) 写実的な描写において絵画が絶対に太刀打ちできない写真という技術の出現により、画家たちはカメラという機械に駆逐されることのない、より人間的な絵画を模索する必要に迫られたのです。・・・
 ・・・印象派が「タッチ」つまりは筆触を強調することで、絵画を写実から解放したのに対して、後期印象派はこのタッチを各人が独特に工夫することで、個性の表明としての「スタイル」つまりは様式というものを確立したわけです。


 この「スタイル」が画壇の中で芸術的な意味での主義・主張になっていくのですが、この流れに、ピカソの「キュビズム」がまさに“はまった”のでした。

 さて、本書を読み通しての感想ですが、著者は、門外漢としての私に、美術界の歴史やからくり等に関する様々な興味深い知識を教えてくれました。
 その中で、最後にひとつ、特になるほどと感じた指摘を書きとめておきます。
 ピカソに代表される“前衛芸術”に対する「進化論」の影響についてです。


(p166より引用) じつは、そうした破壊的な衝撃を備えた「前衛」という立場に、さらに強力な根拠を与えたものに、登場したばかりのダーウィンの進化論がありました。・・・
 それは、変化というものが、生存を賭けた闘いにおいては正義と同義であると主張するに等しい論理だったからです。そして、美術もまた、適者生存の原理に従い、変化しないことには未来に向けてその生存を確保できないと考えられるようになったのです。


 革新を追求した“前衛芸術”は「美を生き残らせる」ために論理必然的に登場したものだとの捉える考え方。過去の「美」についての常識を覆す“前衛芸術”の論理に、「進化論」が“科学的な根拠”を与えたとの主張です。
 これは、なかなか興味深い指摘ですね。
 

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)
西岡 文彦
新潮社
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