OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

「上から目線」の時代 (冷泉 彰彦)

2012-04-28 10:18:14 | 本と雑誌

Eye  タイトルに惹かれて手に取った本です。
 「上から目線」という言葉をキーに、円滑なコミュニケーションをとる方法について論考が進みます。

 著者は、「上から目線」が問題視されるようになった背景には、「空気の消滅」を伴うコミュニケーション不全があると指摘しています。具体的なメカニズムはこうです。

(p147より引用) 「何らかのコンフリクトが発生」→「話しあいの前提となる価値観が共有できない」→「にもかかわらず一方が他方をヒエラルキーの力で押し切ろうとする」→「押し切られた側に見下されたという被害感が発生」

 ポイントは、「話しあいの前提となる価値観が共有できない」という部分です。著者がいう「空気」には、「価値観の暗黙的共有の場」といった意味づけがされているようです。

 ともあれ、日常生活の場でのこういったコミュニケーション不全は、たとえば、「初対面の人との対話」のぎこちなさに現れます。

(p65より引用) 現在の社会において初対面の人と話ができなくなったのは、社会が悪くなったり自分の話術が下手になったからではない。・・・要するに以前には「初対面同士の雑談」にもテンプレートがあり、人々はそれに乗っかっていけば自然にそこには「関係の空気」が生まれたので、その空気の中で会話をスムーズに進めていただけなのだ。現代の日本ではそのテンプレートが失われたことで、空気も生まれにくくなっているのである。

 そういう「関係の空気」がない中で、個々人の「価値観」を無防備に持ち込むと、そこに「目線の応酬」(上から目線の交錯)が起こるというのです。
 著者は、「関係の空気」の中で交わされる会話には、お決まりのパターン、すなわち「テンプレート」が存在していたと考えています。この「テンプレート」は、1980年代以降、様々なシーンでの顧客対応のマニュアル化の流れの中で「全能化」「硬直化」してきました。

(p142より引用) ここではムリなテンプレートの発達が、人間味のある柔軟な会話を阻害し、いったんそこに利害の対立が持ち込まれたときにはコミュニケーションの弾力性が失われてしまうという構造がある。

 さて、本書を読んでの感想ですが、著者が紹介している事象(コミュニケーション不全)の解説については、首肯できるところが大いにありました。しかしながら、それを改善するための対策については、正直なところ腹に落ちませんでしたね。
 たとえば、こういうコメント。

(p247より引用) あくまで、相手との関係において、日本語の自然なフレームである「上下関係」を作り出すことが大事であり、その上で具体的な問題解決のための生産性のある会話へと進むことがもっと大事なのである。

 著者の主張の基本的な方向性が、どうも小手先の形式的対応を勧めているように読めてしまうのです。「日本語の型」にこだわり過ぎるあまり、人間関係における精神性・社会性の分析が不十分な感は否めません。
 私としては、著者の提言が、それらの深い考察を踏まえた根本的対策にまで踏み込んでいないという印象を抱いてしまいました。少々残念です。


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DNAの伝播 (イノベーションのDNA(クレイトン・クリステンセン))

2012-04-22 09:07:07 | 本と雑誌

Starbucks_corporation_logo_2011  クリステンセンは、本書において、革新的なビジネスアイデアを創出し事業化した起業家やCEO―ピエール・オミダイア(イーベイ)、ジェフ・ベゾス(アマゾン・ドットコム)、マーク・ベニオフ(セールスフォース・ドットコム)らへのインタビューやスティーブ・ジョブズ(アップル)、ハワード・シュルツ(スターバックス)らの自伝等の分析から、「イノベータのDNA」としての5つのスキル(発見力)を抽出しその詳細を解き明かしています。

 本書の後半では、そのDNAを特別な人に止めるのではなく、組織に伝播させる方法について言及しています。

(p191より引用) イノベーティブな企業が組織の人材プロセス、指針となる哲学に、イノベーションのDNAコードを直に組みこんでいることがわかった。

 著者は、この知見をイノベーティブな組織をつくる「3P (People・Process・Philosophy)の枠組」として整理しています。

 たとえば、最初のP(eople)、「人材」についてです。
 イノベータ個人に必要は素養については、本書の前半で解説されていますが、チーム・組織は、個人の集まりとして一つの有機体として機能しなくてはなりません。そこで重要になるのが「メンバ構成」です。

(p203より引用) メンバーが互いに補い合う発見力をもっていれば、スキルの多様性がチーム全体のイノベーション能力を高める。・・・チーム全体として見たときの新しいアイデアの創出力は、一人ひとりの能力の総和や、一つの発見力だけに優れたチームの能力を一貫して上回るのだ。

 個々のメンバが自らの得意とする「○○力」を発揮し、互いに補完し合うことにより、組織としての「発見力」の最大化を実現するのです。そして、そのプロセスを経ることで、イノベーティブな個人のDNAはより拡大・充実した形で組織内に反映されます。

(P239より引用) イノベーティブなリーダーは、自分自身の発見行動を組みこんだプロセスを構築することで、自らのイノベータDNAスキルを組織に植えつけているのだ。

 さて、こうした「発見力」の強化に併せて、組織(企業)としては、もうひとつの重要な「力」を高める必要があります。「実行力」です。
 この力は、多くの場合、イノベータ型の人間には欠けている素養のようです。

(p203より引用) 五つの発見力に優れた人材をチームや組織に集めることは確かに大切だが、発見志向型の人材さえいればよいというものではない。・・・発見志向型のリーダーは、結果を出すのがうまい人材のもつ実行力を必要とする。イノベーティブなチームを巧みに率いるリーダーは、自らの発見力と実行力の構成を知り、自らの弱みをほかのメンバーの強みによってしっかり補っている。

 HONDAの本田宗一郎氏には藤沢武夫氏、SONYの井深大氏には盛田昭夫氏・・・、しばしば、イノベーティブなリーダの横には、自分の弱点を補完してくれる素晴らしいパートナーが据わっていました。


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発見力 (イノベーションのDNA(クレイトン・クリステンセン))

2012-04-19 23:37:47 | 本と雑誌

Apple_logo_think_different  著者は「イノベーションのジレンマ」のクレイトン・クリステンセン。
 今回のテーマは、イノベーションの源泉となる「発見力」です。

 この力は、本書の原典のタイトル(The Innovator’s DNA)にも表れているように、基本的には「人」に存します。そこで、著者は、まずは、数多くの関係者へのインタビューや調査により抽出された「個人のスキル・特性」としての「発見力」の実態とその獲得方法を示し、続いて、それを組織内に展開していくプロセスについても言及するという構成を選択しました。

 まずは、著者が「イノベータDNA」と名づけたものを構成する5つの「発見力」を列挙しておきましょう。これがAppleで言えば「人と違う考え方(Think Different)」の源です。

(p28より引用) これらの発見力―認知的スキルの関連づける力と、行動的スキルの質問力、観察力、ネットワーク力、実験力―が合わさり組成されるものを、「イノベータDNA」と名づけた。イノベータDNAとは、イノベーティブなビジネスアイデアを生み出すためのカギなのだ。

 イノベータは、質問・観察・ネットワーク・実験を通して獲得した多種多様な情報やアイデアを、普通の人が気づかないような組み合わせに「関連づけ(1つめの力)」し直すことにより、新たな事業・製品・サービス・プロセスを生み出すのです。

 「発見力」の2つめは「質問力」です。
 イノベータは、常に「常識を疑う」という立ち位置から挑発的な質問を繰り出します。

(p81より引用) まず、現状を探る深海探査から始め、次に・・・可能性を探求するために空高く舞い上がる。現状に着目するときは、一流のジャーナリストや捜査官がやるように「誰が(Who)」「何を(What)」「いつ(When)」「どこで(Where)」「どのように(How)」の5W1Hの質問をたたみかけ、表層を掘り下げて、・・・また「なぜこうなった」の質問を連発することで、なぜ物事がいまのような状態になったのか、その原因把握に努める。

 こういった質問で「いまどうなのか」を完璧に理解したイノベータは、次に、それを破壊する「解決策」を探すために次なる質問に切り替えます。「なぜ(無理)なのか?」「なぜ○○ではないのか?」「もし~だったら?」といった類の問いかけです。

 「発見力」の3つめは「観察力」です。
 対象をじっくり観察することにより新たな気づきを得るわけですが、それにも勘所があります。

(p118より引用) クック(インテュイットの創業者スコット・クック)は、サプライズ―予想外のこと―をつねに意識的に探さなければならないという。目に映るものは、頭の中で固定観念に同化するうちに、たいてい隅に追いやられてしまうからだ。・・・

 ただ、「予想外のこと」は、そもそも意識から外れたところにあるものです。それを「意識的に」探すといっても難しいですね。簡単に気づくぐらいなら「予想外のこと」にはならないわけですから。
 何か抽象的なアドバイスで、新たな気づきの実効を上げるのは大変です。

(p118より引用) 気づかれないものに気づくには、周辺視野が必要だ。イノベータはつねに経験の外れにある物事をとらえる・・・ことで、新しいアイデアを掘り起こしている。

 思いがけないものは、必ずしも目に見えるものとは限りません。味覚・聴覚・触覚・・・といった五感を意識的に働かせて探し回るのです。

 さらに著者は、残り二つの「発見力」として「ネットワーク力」「実験力」を続いて紹介していきます。
 著者によると「実験力」はちょっと異質です。

(p151より引用) 質問、観察、ネットワーキングは、過去(どうだったか)と現在(どうなのか)についての情報を与えてくれる。だが将来成功する方法について手がかりを得るには、実験に勝る方法はないことを、優れた実験者は心得ている。言い換えれば実験は、新しい解決策を探すとき、「もし~だったら」の質問に対する答えを出すのに最も適した方法なのだ。

 とはいえ、「実験」には手間がかかります。
 イノベータは、鋭い質問・子細な観察・幅広い意見収集等によって実験にかかるコストと時間を最小限に止めようとします。しかし、だからといって「実験」は不要にはなりません。実験は、現実の世界で成功に導くための有益かつ膨大な手がかりを与えてくれるのです。


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官僚を国民のために働かせる法 (古賀 茂明)

2012-04-15 09:09:51 | 本と雑誌

Soshiki  ちょっと前に、同じ著者の「官僚の責任」という本を読んだばかりなのですが、たまたまよく行く図書館の新刊書の書棚で見かけたので手に取ってみました。
 前著で著者の主張の骨子は理解していたので、正直なところ新たな気づきはなかったですね。とはいえ、いくつか私の気になったところを書き留めておきます。

 まずは、前著でも指摘していた、民主党の政治主導のはき違えについてのコメント。

(p147より引用) 日本だけなんですよ。いちいち「政治家が行政を主導します」なんてことを主張しなくてはいけないのは。
 ですから、政治主導自体は政策でもなんでもありません。やって当然のことです。重要なのは、政治主導によって、何をするか、ということです。

 そして、「何をするか」という点でも民主党政権は迷走しました。たとえば「事業仕分け」

(p154より引用) 政治家としてやるべきは、ムダを探すことではなく、優先順位をはっきりさせることです。

 細かい無駄をどう削るかは官僚が考えればいい、にもかかわらず、民主党は、ここでも官僚と同じ土俵に下りて行ってしまいました。

 こういった政権政党とは思えないような民主党の未熟さは、そもそもの議員の素養にも拠りますが、政党としての経験の乏しさにも原因があるというのが著者の見立てです。

(p161より引用) 野党時代が長かったがゆえに、「相手のアラを一つひとつ突くための勉強はしたが、より広い観点から体系立てて答えを見つける勉強はしてこなかった」

 さて、本書を読み通してですが、強いて前著との差分を言えば、著者の「国家公務員制度改革」の具体的施策の説明が充実されたあたりでしょうか。

 官僚の立場から言えば、確かに驚愕動地、極めて刺激的な改革策が列挙されていますね。
 とはいえ、その中には、「成果主義」「360度評価」等、民間企業においても、その実効が疑問視されているようなものも含まれています。もちろん、「具体的な成果」や「多面的な評価」を重視するという基本的な方向性自体を否定するものではありませんが、伏魔殿のような官僚組織に対して有効に機能するかは極めて疑問です。

 むしろ、前著でも著者が指摘しているように、官僚組織の自浄機能に期待するのではなく、「国民が政治家の尻を叩いて公務員改革を行う」といった「外圧」が不可欠でしょう。ただ、保守的な組織は外からの攻撃が強まると内部結束を固めようとします。積極的・強制的な「省庁間人事交流」「官民交流」等により役所内に多様な異分子を配置する、それにより「役人然としたメンタリティ」の意識変革を図るといった策も効果的だと思います。


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かもめ (チェーホフ)

2012-04-11 23:40:10 | 本と雑誌

Anton_chekhov_reads_the_seagull  偏食気味で良くないのですが、そもそも文学系の本を読むことは少ないですね。

 特に戯曲は、シェークスピアを除いてほとんど読んだことがありません。ここ1・2年ぐらいでは、アイスキュロスの「アガメムノーン」、泉鏡花の「夜叉ヶ池・天守物語」ぐらいです。
 ということで、恥ずかしながらチェーホフははじめてになります。

 この「かもめ」、後の「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」とともに四大戯曲と呼ばれたチェーホフの代表作のひとつです。短い作品ですが、本書のタイトル「かもめ」が登場するシーンを中心に印象に残ったところをいくつか書き留めておきます。

 まずは、自作の演劇を母親であり女優のアルカージナに酷評されたトレープレフが、猟銃で撃ち落した「かもめ」を持って領主の娘ニーナの前に登場するシーン。

(p63より引用) トレープレフ、ニーナの足もとにかもめを置く。・・・
トレープレフ ぼくは今日このかもめを撃ち殺すような卑劣なまねをした。君の足もとに置いていきます。
ニーナ どうなさったの?(かもめを手にとって、しげしげと眺め入る)
トレープレフ (間をおいて)やがてぼくもこういうふうに自分を撃ち殺すんだ。
ニーナ あなた、すっかり変わったわ。
トレープレフ そう、君が心変わりしてからね。

 そこに小説家トリゴーリンがやってきます。トレープレフが去り、ニーナにトリゴーリンは話しかけます。ニーナが持っているかもめに目を留めたトリゴーリンは、自分の手帳になにやら書き付けます。

(p75より引用) ・・・ちょっとした短編の題材です。ある湖の岸に、あなたのような若い娘が子供のころから暮らしている。かもめのように湖が好きで、仕合せで、かもめのように自由だった。ところが、そこにたまたま男がやってきて、彼女を見そめ、退屈まぎれにその娘を破滅させる。このかもめのように。

 そして、後日、トリゴーリンとニーナの別れのシーン。

(p82より引用) トリゴーリン ええ、思い出しますよ、忘れるものですか、あの晴れた日のあなたのことをね。おぼえておいでですか、一週間前、あなたは明るい色のドレスを着てらした・・・。二人でお話ししましたね・・・それにあのとき、ベンチには白いかもめが置いてあった。
ニーナ (物思いに沈んで)そう、かもめが・・・。

 ストーリーの詳しい顛末には触れませんが、トリゴーニンの書き付けた短編の着想どおりに物語は進みます。
 終幕近く、トレープレフとニーナの台詞の交換、ニーナは「私は、かもめ・・・」と何度もつぶやくのです。ニーナは忍耐に目覚め、トレープレフは絶望の淵へ。再び多くの人物が登場して一気に結末のシーンへと向かいます。
 

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平家物語 (角川書店 編)

2012-04-08 09:59:30 | 本と雑誌

Dannoura_kassen  今年のNHK大河ドラマは「平清盛」
 私はドラマには全く関心がないのですが、改めて気になって手に取った本です。

 「平家物語」は、ご存じのとおり、平安末期、貴族政治から院政さらには武家政治への移行期およそ50年間の激動の時代を舞台にした軍記物語です。
 原書はかなりの長編ですが全編を読み通す元気もないので、現代語訳が中心のエッセンス版で妥協してしまいました。

 古文の教科書でもお馴染みの作品ですから、大体のストーリーは、断片的なシーンの継接ぎですが何となくイメージできます。文章も和漢混淆文で、平安初期の宮廷ものに比べると格段に読みやすいですね。
 戦いに臨む人物描写や合戦の様など、実際の情景が総天然色で眼前に彷彿とされる文章です。しかし、一通り読み通してみても、やはり、あの有名な冒頭の一節に如くものはありません。

(p16より引用) 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる者久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き人もつひには滅びぬ、ひとえに風の前の塵に同じ。

 ただ、これだけの紹介ではあまりにさびしいので、強いて、そのほかのくだりで印象に残ったものをひとつふたつ書き留めておきます。

 まずは、巻第三の「足摺り」
 安元3年(1177年)、藤原成親・西光らによる平氏打倒の密議が行われましたが、密告により露見、俊寛は藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島へ配流されました。その後、清盛は成経・康頼のみ赦免し、使者を鬼界ヶ島に送りました。
 二人を乗せた船が漕ぎ出されていく場面です。

(p60より引用) 僧都せん方なさに、渚に上がり倒れ伏し、幼き者の乳母や母などを慕ふやうに、足摺りをして、「これ、乗せて行け、具して行け」と宣ひて、喚き叫び給へども、漕ぎゆく船の習ひにて、跡は白波ばかりなり。いまだ遠からぬ船なれども、涙にくれて見えざりければ、僧都、高き所に走り上がり、沖の方をぞ招きける。

 このシーンは、現在でも「俊寛」という演目で歌舞伎でも上演されています。私も数年前、十八代目中村勘三郎で観ました。ラストシーン、舞台が回り、崖上から行く船を追う勘三郎「俊寛」の姿は印象的でした。

 もうひとつ、源平の戦いの雌雄が決せられた壇ノ浦の合戦、巻第十一の「能登殿最期」の一節。
 平氏随一の猛将として知られた能登守教経の奮闘ぶりの後、知盛「見るべき程の事は見つ」とのつぶやくとともに入水。壇ノ浦の合戦は源氏方の勝利に終わりました。

(p250より引用) 海上には、赤旗・赤符ども、切り捨てかなぐり捨てたりければ、龍田河の紅葉葉を、嵐の吹き散らしたるに異ならず。汀に寄する白波は、薄紅にぞなりにける。主もなき空しき船どもは、潮に引かれ風に随ひて、いづちを指すともなく、ゆられ行くこそ悲しけれ。

 華やかな戦装束に身を包んだ武士、紅白の旗・幟が交錯する合戦の絵模様から一転、まさに諸行無常の物悲しさが染み入るくだりです。


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ガンディー 獄中からの手紙 (ガンディー)

2012-04-05 22:46:34 | 本と雑誌

Mkgandhi  本名は、モハンダス・カラムチャンド・ガンディー。言うまでもなくマハトマ・ガンディー(マハートマー=「偉大なる魂」)として知られるインド独立の父です。

 1930年、ガンディーはヤラヴァーダー中央刑務所に収監されていました。本書は、その期間中に、自らが設立した修道場で彼の教えを実践する弟子たちに宛てた書簡集です。
 実を言えば、今まで私は、ガンディーに関するまとまった著作を読んだことがなかったので、彼の思想に直接触れるのはこれが初めてになります。

 ということで、まずは、手始めにガンディーの有名な「非暴力」の思想について、訳者森本達雄氏の巻末の解説から引用しておきます。

(p137より引用) ガンディーの説く非暴力とは、たんに相手(敵)に対して手を振りあげず、物理的な圧力を加えないというだけの消極的・否定的な方法ではない。それは、愛と自己犠牲をとおして、相手に己の非を気づかせる、言いかえれば、自己犠牲をとおして人間的良心を喚び覚まし、振りあげた手をおろさせる積極的な愛の行為である。

 本書では、この「非暴力」の教えが随所に出てきます。
 たとえば「寛容即宗教の平等」の書簡でのガンディーの言葉です。

(p76より引用) 相手が愛の法を守らないばあい、暴力的な態度に出てくるかもしれません。それでもなおわたしたちが真の愛を心にいだきつづけるならば、ついには、相手の敵意に打ち克つでしょう。わたしたちが間違っていると思う相手にも苛立たず、必要とあらば、自ら苦しみをひきうける覚悟をせよ、との黄金律にさえ従うならば、行く手に立ちはだかるいっさいの障壁は、おのずから消滅するでしょう。

 ガンディーの教えによると、この「非暴力」は「アヒンサー(=ahimsa(愛))」の一つの現出形です。

(p21より引用) 生きとし生けるすべてのものに危害を加えないというのは、たしかにアヒンサーの一部にちがいありませんが、それはアヒンサーの最低限の表現です。

 そして、この「アヒンサー」も最終の目的ではありません。

(p22より引用) アヒンサーと真理はあまりにも密接に絡み合っているために、実際にはもつれを解きほぐして区別することはできません。・・・にもかかわらず、アヒンサーはあくまでも手段であり、真理が目的です。

 真理を完全に体得すると、もはや、何一つ他に学ぶべきものはなくなる、一切の執着心から解き放たれて自由になるとガンディーは説いています。すなわち、輪廻の束縛から逃れて「解脱」に至るのです。

 ガンディーの思想は、複数の宗教の存在を肯定します。真の宗教はひとつではあるが、それが人間という媒体を通してさまざまな形に表出しているのだと考えるのです。ここには「寛容」の思想が在ります。しかし、ガンディーは「寛容」という言葉を好みませんでした。

(p68より引用) 寛容という語には、他人の宗教が自分のものより劣っているといったいわれなき思いあがりが含まれています〔また尊重という語にも、ある種の恩きせがましさが読みとれます〕。これにたいしてアヒンサーは、他人の宗教心にたいして、わたしたちが自分の信仰にいだいているのと同じ尊敬を払うべきことを教え、ひいては自分の宗教の不完全さをも認めることになります。

 「絶対」を尊重し目指しながらも、自らを「相対化」する懐の深い姿勢だと思います。

 さて、本書はとても刺激的で興味深い内容でしたが、その中から最後にひとつ、とても考えさせられたくだりをご紹介します。ガンディーが「謙虚」について語ったところです。

(p80より引用) 謙虚そのものは戒律にはなりえない。なぜならそれは、意識的に実践されるものではないからです。それでいて謙虚さは、アヒンサーには不可欠の条件です。・・・ただ、なんぴともそれを訓練によって身につけたためしはありません。・・・謙虚さを教化するのは、結果的には偽善を教えることになるからです。

 私自身、改めて姿勢を正さなくてはなりません。


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新編 普通をだれも教えてくれない (鷲田 清一)

2012-04-01 10:04:57 | 本と雑誌

Hanshin_awaji_daishinsai  会社近くの図書館の書棚を眺めていたとき、ちょっと変わったタイトルが気になって手に取った本です。

 著者の鷲田清一氏は大阪大学総長も務めた哲学者です。哲学といっても専門は「臨床哲学」とのこと。私としては、初めて耳にしたジャンルです。

(p64より引用) 哲学は市井の多くのひとたちのなかに生きている。多くのひとたちによって生きられている。ほんとうに大事なものは何か、それをひとびとの生き方のうちに見つけるのが哲学ではないのか。・・・そんな思いで同僚とはじめた「臨床哲学」の事業はまちがっていないと、確信を新たにした。

 本書は、こういった視点から鷲田氏が様々な新聞・雑誌に発表したエッセイを取りまとめたものです。身近にある多彩なテーマを著者独特の切り口で解きほぐしていて、なかなか興味深い内容でした。

 たとえば、「被災の周辺に〈顔〉が感じられる」というタイトルの小編から。
 著者は、街中で見かける「顔」、生身の顔もポスター等の顔も、「応答のない抽象的な顔」だと感じていました。しかし、1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神淡路大震災直後、被災地近辺では、圧倒的な存在感を持った「顔」が著者に迫ってきたのでした。

(p92より引用) それぞれのひとがそれぞれにかけがえのない「あのひと」に思いをはせる、そういう思いつめた気配を、道行くひとの顔や背筋や指先にふと感じた。

 昨年の今頃も日本中でそういう顔が溢れていたことでしょう。

(p93より引用) 面前でじっと見つめられるというのでなくてもいい。だれかがわたしを気づかい、わたしを遠目に見守っている、そういう感触、それが〈顔〉の経験ではないか。顔とは、「呼びかけ」、あるいはささやかな「訴え」であり、見られるものではなくて与えるものだ、そしてそういう顔の存在が他人を深く力づけるのだということを、つくづく思ったここ数日であった。「ボランティア」の精神というのも、実はこの、〈顔〉を差し出すという行為のなかにあるのかもしれない。

 もうひとつ、「私的なものの場所」というエッセイから、「他者」との関わりの中での「自分」についての考察。

(p201より引用) じぶんはだれか。それをすぐに内部に、つまりじぶんのなかで持続する同一性に求める習慣から一度じぶんを隔てる必要がありそうだ。わたしたちの「だれ」はむしろ、他人との関係のなかで配給される。この関係が、わたしたちにアイデンティティのステージ、それも複数のステージを設定してくれるということ、そこに視線を戻す必要がある。その意味では、先の震災後、多くのひとがかかわったボランティア活動も、そういうステージにじぶんを置く行為だったように思えてくる。
《私生活に欠けているのは他人である》

 他者との関わりが新たなアイデンティティの可能性を拡げてくれるという考えです。
 一昔前に流行った「自分探し」、(私はこの言葉にはどうも馴染めないのですが、)この探索が何か真なる自分が自分の内部にあることを前提にしているのであれば、決してこの営為のゴールは見えないのだと思います。アイデンティティが内在的な単一なものであるという硬直的な考えは、かえってアイデンティティの不安定さを増幅してしまうのです。

 最後は「思いが届くだろうか ホスピタリティについて」の章、「ささえあいの形」で語られている「インターディペンデンス(相互依存)」の形。

(p291より引用) 他人が過ごした時間の厚みを、微笑んで受けとめる。同情するでも批評するでもない。距離を埋めも空けもしない。ただしっかりと受けとめること、それだけが相手を支える力となる。

 この究極の感覚、その境地にはもちろん到底至っていませんが、ほんの少しわかる気がします。


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