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昭和の教科書とこんなに違う 驚きの日本史講座 (河合 敦)

2016-02-28 21:51:29 | 本と雑誌

 「富本銭」って何?、数年前の娘たちの受験期に初めて目に入ったのですが・・・、私が中高生のころ、日本最古の貨幣といえば疑いもなく「和同開珎」でした。

 本書では、近年の日本史研究によって明らかにされた過去の教科書の記述を覆す数々の史実が紹介されています。
 近年の研究成果といっても、それは、X線写真や放射性炭素年代測定といった科学的手法によるものもあれば、新たな発掘・発見といった従来型作業によるものもあります。いずれにしても、明確な「物証」が従来の歴史認識・解釈を正していったのです。


(p86より引用) 国家の史書というものは、それを編纂したときの権力者に都合のよいように書かれるもの。敗者や弱者の声など反映されぬ勝者の改竄記録といってよいかもしれない。しかし、それしか史料がない以上、昔の歴史研究者たちは、これらを頼りに歴史を組み立てていくしか方法はなかったのである。


 これは、特に「古代」の史実についてはそうでした。
 そうした閉塞状況を大きく変えたのが「木簡」の登場だったのですが、木簡が日本で最初に発見されたのは1961年(平城京跡)だったのだそうです。結構最近なんですね。


(p86より引用) この木簡という文字史料の解析が進むにつれ、どんどん朝廷の史書にはない新事実が浮かび上がり、改新の詔についても「修飾」があることが判明したのだ。・・・ 木簡は長くても数行の文章で、荷札や手紙、看板などが多いが、そうしたものから私たちは古代人の具体的な生活を知ることができるようになってきている。


 こういった生活感のある発見の方が、じつは結構興味深い内容のものがあったりしますね。たとえば、7世紀後半、古墳時代末期にはすでに「九九」が使われていたのだそうです。

 これら物証によるもの以外に、解釈の変化によって教科書の記述のニュアンスが変わってきている例もあるようです。
 たとえば、徳川5代将軍綱吉。“天下の悪法”とされている「生類憐みの令」を制定したことでその治世の評価は低いものでしたが、最近の研究では再考されつつあるとのこと。


(p171より引用) 日本史の教科書でも「庶民は迷惑をこうむったが、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた」(『詳説日本史B』山川出版)とプラス面も明記しているのだ。・・・
 綱吉は、捨て子の禁止や囚人の待遇改善、行き倒れ人の保護などを命じ、儒教の仁愛思想を社会に普及しようと努めており、生類憐みの令もそうした政策の一環だと認識され、学者の間では近代社会福祉法の先駆と評価されるようになってきているのである。


 そもそも「教科書」の記述自体、その執筆当時の研究者間の「通説」が採り上げられたのものに過ぎませんから、当然、研究が進んでいくと、新たな「真実」が明らかになっていくことは当たり前のことでもあります。
 さらに「歴史」の場合、史実の存在そのものや史実の評価は、その当時の為政者が“望ましいと考える歴史認識”に左右されることも大いにあるわけですから、そこには確信犯的誤謬は付き物と考えておいた方がいいのでしょう。

 さて、本書を読み通してですが、私が勝手に期待していた内容とはかなり隔たりがあったというのが正直な感想ですね。
 たとえば、聖徳太子や足利尊氏を描いたとされる絵は実際は別人物だという話はよく聞きますが、それがどういう契機・経緯で判明したのか、それでは描かれた人物は本当は誰なのか、何故その絵が間違った解釈をされたのか・・・。そういった研究プロセスや成果を知りたかったのですが、そのあたりはほとんど説明されていません。
 本書と同じような切り口での史実の検証本は他にもいくつも出版されているので、また別の本を読んでみることにしましょう。

 

昭和の教科書とこんなに違う 驚きの日本史講座
河合 敦
祥伝社
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どんぐり (オノ・ヨーコ)

2016-02-21 23:02:38 | 本と雑誌

 いつも行っている図書館の新着書の棚で目についたので手に取ってみました。
 だいぶ前に「グレープフルーツ・ジュース」は読んでいるので、オノ・ヨーコさんの詩集は2冊目になります。

 見開きで、左に短い「詩」、右に点描の「絵」という構成。
 心に残ったフレーズを2・3、書き留めておきます。


(街の作品 Ⅶ)
大きな大きな虹が
北から南へかかっているところを想像する。
虹の両端を訪ねてみる。


 「想像する」「考える」といった自分の頭の中にイメージを浮かばせる、そういった“思考”を促す言葉が目立ちます。まさに “imagine” ですね。

 もうひとつ。


(生命の作品 Ⅲ)
1年に一度すべての人が歌うところを想像する。
その日には、
a) 弁護士は、歌で弁論合戦を行なう
b) 政治家は、歌でスピーチを行なう
c) 教師は、歌で講義を行なう
d) 兵士は、敵に向かい互いに歌い合う


 こういった「歌」をテーマにしたフレーズが「生命の作品」と名づけられたジャンルで登場しているのも、オノ・ヨーコさんならではの思想の表れなのでしょう。
 そして、同じく「生命の作品」の中には、こういった詩もありました。


(生命の作品 Ⅴ)
自分の姿を想像する
母親の子宮の中で
胎児になっている。

しばらくその状態でいる。

外の世界に出たいかを自分に問う。
これまでに起こったこと、
自分自身がまわりに与えた影響を
踏まえて。 


 時に立ち止まり、しばし振り返ってみる、この詩集の中で一番インパクトのあった作品です。

 とはいえ、この風変わりな詩集、正直なところ私にはちょっと合わなかったですね。
 私の感性に勝手なバイアスがかかってしまうのでしょう、つい「オノ・ヨーコさん」の詩集と聞くと、それだけで(ジョン・レノンにも通じる)何がしかのメッセージ性を“感じよう”としてしまうようです。語られる詩の言葉に、素直な姿勢で向き合えなかったのかもしれません。

 

どんぐり
越膳 こずえ
河出書房新社
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臨済録 (入矢 義高)

2016-02-14 22:41:50 | 本と雑誌

 中国唐の禅僧で臨済宗の開祖臨済義玄の言行を弟子慧然が記したものです。
 “語録”の中でも一定の評価を受けているものということで手に取ってみました。

 “語録”といっても「仏の教え」をベースにしたものですから、私のように最低限の仏教・禅宗の基礎的な素養すらない人間が読んでもやはり全く理解できませんでしたね。

 たとえば、“棒と喝のどちらが法の示し方として勘所を得ているか”を説いた一節はこんな具合です。


(p167より引用) 師は楽普に問うた、「これまで、ある人は棒を用い、ある人は喝を浴びせた。このどちらがぴたりだと思うか。」楽普「どちらもぴたりときていません。」師「ではどうやればぴたりとくるか。」楽普はそこで一喝した。師は打った。


 恥ずかしながら、私にはこれがどういうメッセージなのかさっぱり分かりません。
 とはいえ、そのなかでも、2・3、単なる覚えでしかありませんが、気になったくだりを書き留めておきます。

 まずは、「外に仏法を求める修行者の姿勢」を否定する臨済の教え。
 臨済は、「何者にも依存しない“無依の道人”はお前たちそのものなのだ」とと説きます。


(p34より引用) 今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。・・・ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。・・・このごろの修行者たちが駄目なのは・・・自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。


 臨済は「自らを信じきれぬ修行者」を厳しく叱咤します。自らの外に求める仏はいないのです。それは、自らの認識でしかない、自らの外に客体としての仏が存在するわけではないのです。


(p91より引用) 諸君、真の仏に形はなく、真の法に相はない。しかるに君たちはひたすら幻のようなものについて、あれこれと思い描いている。だから、たとえ求め得たとしても、そんなものは狐狸の変化のようなもので、断じて真の仏ではない。


というわけです。
 そして、もうひとつ。潙山が後に、「師の法恩に報いるもの」という点から黄檗と臨済との師弟関係を語った言葉。


(p199より引用) 弟子の見識が師と同等では、師の徳を半減することになる。見識が師以上であってこそ、法を伝授される資格がある。


 弟子は師を越えた存在にならなくてはならない、師はそういう弟子を育てなくてはならないということですね。

 さて、本書を読んでの感想です。
 こういった類の書は、「解説本」ではなく「原典」に当たれとよく言われますが、とはいえ、原典に向かうのであれば最低限の知識は必要でしょう。それは、漢文・古文の解釈力はもちろん、仏教(禅)をはじめ基本的な東洋哲学の知識もです。さもないと私のように、ただ文字を追うだけという情けない様になってしまいます。
 ただ、ときに無謀にも、この手の書物を手に取ってみたくなるのが不思議ですね。

 

臨済録 (岩波文庫)
入矢 義高
岩波書店
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呼吸で心を整える (倉橋 竜哉)

2016-02-07 22:49:08 | 本と雑誌

 もう一冊、レビュープラスというブックレビューサイトから献本していただいたので読んでみました。
 この本も、こういうきっかけでもないと手に取ることはなかったでしょう。自分の興味・関心から言えば守備範囲外のジャンルですから。

 さて、このHow To本で著者が紹介する「呼吸法」は以下の5種類。

  •  前向きな「ため息」が、緊張感を和らげる――【ゆるめる呼吸】
  •  数えて呼吸するだけで、集中力が高まる――【数える呼吸】
  •  イヤな気持ちをリセットする技術――【歩く呼吸】
  •  頭の中に浮かんだ雑念を吐き出す――【声を出す呼吸】
  •  イライラや怒りを鎮める方法――【鎮める呼吸】

 この中では、「前向きな『ため息』」というフレーズが気に入りました。
 よくある啓発書では、「ため息」はネガティブな後ろ向きの動作で「よくないもの」の典型と言われています。しかしながら、ただ、「ため息なんかつくな」といって更にストレスを倍加させるぐらいなら、積極的な「ため息(大きな吐息)」で意識をリフレッシュさせることができるのであれば、大いに活用するべきでしょう。

 そういう「乗り」で著者の薦める呼吸法を辿っていくと、下手なビジネス書よりも役に立つように思います。
 ビジネス書が役に立たない最大の要因は、その内容もさることながら、そこでのアドバイスを「継続して実行」することができないという点にあります。その観点で言えば、本書で紹介されている呼吸法は、ともかく「手軽」なので、ちょっとやってみようという気になりますからね。

 そして、本書を読んで印象に残った点をもう一つ。
 本書で初めて知ったコンセプト、「マインドフルネス」です。これはストレス対処法のひとつでGoogleやintelが取り入れているということでちょっと話題になっているものとのことです。
 この「マインドフルネス」とは“心が「今ここ」にある状態”をいうのですが、この状態を作り出す方法のひとつが「自分の呼吸を感じること」なのだと著者は言います。


(p54より引用) 呼吸をただ感じるだけでも「今に集中すること」ができます。・・・
 幸せに感じるかどうかは、与えられた境遇によるものではなく、自分に「幸せだと感じる能力」があるかどうかです。


 この「幸せを感じる能力」は呼吸に意識を向けることで鍛えることができるというのが著者の主張です。
 「幸せだと感じる能力」というのは、面白い着眼ですね。どういう境遇であっても「能力」がないと「幸せ」と感じない、同じ境遇であっても、ある人は「幸せ」を感じ、ある人は「不幸」だと思う・・・。
 中村天風氏の有名な名言に「人生は心ひとつの置きどころ」という言葉がありました。

呼吸で心を整える (フォレスト2545新書)
倉橋竜哉
フォレスト出版

 

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