OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

手仕事の日本 (柳 宗悦)

2006-10-30 22:56:31 | 本と雑誌

Bingata  著者の柳宗悦(やなぎむねよし 1889~1961)は、東京生まれで民藝運動の提唱者として有名です。

 柳氏の説明によると、民藝は「民衆的工芸」の略語で一般の民衆が日常つかう実用品をさし、家具調度・衣服・食器・文房具などが含まれます。また、基本的に機械を使わない手作りの工芸品で、ひとりの芸術家による一品制作品ではなく、無名の工人の集団分業作業によって多量に生産され廉価で売られたものだとされます。

 本書は、柳氏による、全国の雑器(陶器・磁器・漆器等々)、織物、紙その他の実用的な民藝品を広く渉猟した記録です。

 淡々とした筆の中に、地方の地道な隠れた仕事への暖かい気遣いが感じられます。

(p12より引用) その優れた点は多くの場合民族的な特色が濃く現れてくることと、品物が手堅く親切に作られることであります。そこには自由と責任が保たれます。そのため仕事に悦びが伴ったり、また新しいものを創る力が現れたりします。それ故手仕事を最も人間的な仕事と見てよいでありましょう。

 柳氏は、民藝がもつ、華美な通俗に流されない「実用の美」を重んじました。
 民藝は、手仕事であるがゆえに、機械にはない「心」が底流に流れていると言います。

(p14より引用) そもそも手が機械と異る点は、それがいつも直接に心と繋がれていることであります。・・・手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを創らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。そうしてこれこそは品物に美しい性質を与える原因であると思われます。それ故手仕事は一面に心の仕事だと申してもよいでありましょう。

 機械による工芸は、「作品」としては退歩していると指摘します。

(p43より引用) 作り方には長足の進歩がありますが、作られる品にはむしろ退歩が目立つのは大きな矛盾といわねばなりません。

 柳氏は、たとえば、東北の山村に見られる風俗の美を賞讃します。笠・頭巾・背中当・手甲・蓑・藁沓・脛巾・・・

(p92より引用) いたずらに都の風を追う安っぽい身形よりも、土地から生れたこういう風俗の方が、どんなに美しいでありましょう。借物でも嘘物でもないからであります。

 この本が書かれたのはまさに戦時中です。昭和15年前後の日本の手仕事の現状が著されています。

 柳氏は、戦後の日本復興の中での工芸の役割に想いを巡らせます。
 日本の手仕事を、戦後の日本に活かさねばとの気概です。

(p185より引用) 本当の仕事を敬い本当の品物を愛するという心がなくなったら、世の中は軽薄なものになってしまうでありましょう。・・・嘘もののなかった時代や、本ものが安かった時代があったことは、吾々に大きな問題を投げかけてきます。これに対しどういう答えを準備したらよいでしょうか。

手仕事の日本 手仕事の日本
価格:¥ 735(税込)
発売日:1985-05

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Burn this book after you’ve read it. (グレープフルーツ・ジュース(オノ・ヨーコ))

2006-10-29 13:58:23 | 本と雑誌

Lennon  ぶっく1026さんのBlogで紹介されていたので、手にとって見ました。

 訳者の南風椎さんによるまえがきにはこう書かれています。

(p4より引用) 心ある人々に今も歌いつがれているこの「イマジン」
ヨーコの『グレープフルーツ』という本に
インスパイアされたものだと、ジョン自身が語っています。
「想像しなさい」という言葉は
ヨーコがジョンにあたえた
世界を変えるためのキーワードだったわけです。

 私の感性は、詩を読むことには全く向いていないので(詩を感じる感覚が非常に乏しいので)、正直、オノ・ヨーコさんの詩で何か触発されるようなことはありませんでした。
 そういう感性を持ちたいとは、結構本気で思っているのですが・・・。
 そもそも詩を「読もう」とする姿勢自体がよくないのかもしれません。

(p66より引用)
ある金額のドルを選びなさい。
そして想像しなさい。
a その金額で買える
すべての物のことを。
想像しなさい。
b その金額で買えない
すべての物のことを。
一枚の紙にそれを書き出しなさい。

 この本は、オノ・ヨーコさんの詩に33人の写真家の作品をコラボレートさせたものです。詩と写真とのシナジー・・・
 私にとっては、(残念ながら)それぞれの写真の印象も大きなインパクトを感じるほどではありませんでした。
 写真は写真としてのメッセージがあるべきだと思います。それぞれの写真に相応しい版で見ることができたら、きっと印象は違っていたのだと思います。

(p86より引用)
道を開けなさい。
風のために。

 予想通りではありますが、私とこういったタイプの本との相性は今ひとつのようです。

グレープフルーツ・ジュース グレープフルーツ・ジュース
価格:¥ 680(税込)
発売日:1998-04

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アインシュタインの発見 (山田 克哉)

2006-10-28 10:03:35 | 本と雑誌

Einstein  以前、岩波文庫の「相対性理論」は読んでみたのですが、なるほどというのが1割程度、残りは(当然のごとく)よく分かりませんでした。

 今回は、タイトルに「ゼロからわかる」とある超入門書を読んでみました。

 超入門書と銘打っているだけあって、「どうしてそうなるのか」という根拠(ロジック)について、数式なしで、具体例をあげながら説明してくれています。とはいえ、物理学の素養のない人間(私)にとっては、やはり簡単ではありません。

 以下には、本書を読んでの私の「覚え」を書き残しておきます。

 まずは、「一般相対性理論」についてです。

 本書によると、一つの物体は「重力質量」「慣性質量」という二つの質量をもっており、それらは等しいということが、「一般相対性理論」の端をなしたとのことです。
 一般相対性理論からは、「重力により空間と時間が曲がる」ということが導き出されると説明されています。

(p72より引用) 重力場の存在する空間では空間と時間が同時に曲がるので、「四次元時空が曲がる」と言う。
 この「時空の曲がり」こそが、アインシュタインの発見した一般相対性理論の神髄である。

 次に「特殊相対性理論」です。

(p97より引用) 特殊相対性理論は、「光速度不変」の公理とこれから紹介するもうひとつの公理によって成り立っている。それは、「物理法則はどんな慣性系から観測されても同じである」という公理である。

 これが、スタートで、

(p151より引用) 物質は消滅してエネルギーに化けるし、逆にエネルギーは物質に化ける。さらに、動いている粒子はそのスピードが上がるほど質量が増える。これらの事実は特殊相対性理論からの帰結である。

という論理展開に至ります。
 相対性理論の有名な数式(E=mc2(2乗))は、まさにこの点を表したものです。

(p98より引用) 実際、「速度が大きくなれば物体は重くなる」という仮定の正しさは、実験によって何度も確認されている。そして、この仮定を、「物体が加速されると物体の運動エネルギーが増加する」という事実と結びつけると、有名なE=mc2(2乗)(Eはエネルギー、mは質量、cは光の速度)という式が出てくるのである。この式は、物体(質量)がエネルギーに変換されうるし、またエネルギーは質量に変換されうる、ということを示している。

 相対性理論やそれを踏まえた量子力学は、宇宙の構造を解明したり、原子力開発に応用されたりしています。

 量子力学が関わるもう少し身近な現象として、こんな例が挙げられています。
 量子力学における電子のエネルギーの説明の部分です。

(p148より引用) 電子が高いエネルギー準位から低いエネルギー準位へとエネルギーを減らすときに、光子が放出されるということである。つまり、原子が光を発するのである。

 これが「ネオンサイン」の発光の原理だそうです。

 今回もまた、私の理解力不足のために消化不良でした。
 基本的に物理学の素養がないので理解できないのが当然ですが、また、何か素人わかりしそうな本があれば読んでみようと思います。

ゼロからわかるアインシュタインの発見 ゼロからわかるアインシュタインの発見
価格:¥ 735(税込)
発売日:2006-09

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オシムの言葉 (木村 元彦)

2006-10-27 00:54:07 | 本と雑誌

Yugoslavija  私は小学校のころはサッカー小僧でした。
 今でもサッカーを見るのは大好きです。

 組織・システムをあれこれ話題にする最近の戦術議論の中、「走る」というシンプルではありますがサッカーにおいて最も基本的な教えを厳しく実践するオシム氏は、以前から非常に気になる存在でした。

 これまでベストセラー系の本は、特にそれが旬の時には手を出さなかったのですが、この本は是非とも読んでみたいと思っていました。(ちなみに、ふとっちょパパさんのBlogでも紹介されています)

 まずは、タイトルであるオシム氏の「言葉」について、初代スロベニア代表監督ベルデニックのコメントです。

(p26より引用) 「当初はユーモアの鎧を纏ってはぐらかされているが、日本人はやがてオシムがどれほど偉大な監督であるかに気がつくだろう。ヨーロッパでは本当のユーモアは知性とも同義になる。気がつくはずだ。オシムの言葉の、面白みだけではないその内実の深さにね」

 この本を読んで特に感じることは、オシム氏の言葉は、常に「ひとり一人の人」に向かっているということです。一般的な箴言・格言の類ではありません。
 何より「人」を大事に考えています。

(p121より引用) システムはもっとできる選手から自由を奪う。システムが選手を作るんじゃなくて、選手がシステムを作っていくべきだと考えている。チームでこのシステムをしたいと考えて当てはめる。でもできる選手がいない。じゃあ、外から買ってくるというのは本末転倒だ。チームが一番効率よく力が発揮できるシステムを選手が捜していくべきだ。

 オシム氏は、一生懸命愚直に努力する選手を評価します。
 そういう選手を、強い信念と暖かい愛情をもって育て上げていきます。

(p208より引用) 「ミスをした選手を使わないと、彼らは怖がってリスクを冒さなくなってしまう」

 この本で紹介されているオシム氏の言葉はどれも素晴らしいものです。その中で、強いてひとつ私が選んだ氏の「最高の言葉」です。

(p35より引用) 「監督に、最後の佐藤のシュートが残念でしたね、と聞いたんだよ。そうしたら、『シュートは外れる時もある。それよりもあの時間帯に、ボランチがあそこまで走っていたことをなぜ褒めてあげないのか』と言われたよ」

 サッカーをやったことがある者なら、この言葉がどれほど嬉しいものであるかわかると思います。

 この本のサブタイトルは「フィールドの向こうに人生が見える」です。
 「東欧のブラジル」といわれたサッカー強国のユーゴスラビアは、ボスニア紛争の戦火に見舞われ、複数の民族国家に分裂するという巨大な歴史のうねりの真っ只中に巻き込まれてゆきました。そのときのユーゴスラビア代表監督がオシム氏でした。

 サラエボの戦火の中のオシム氏とその家族の生き方も心に残ります。

 オシム氏の強靭な精神力や他文化に対する許容力は、そういった悲惨な戦争経験から得られたのでは、との問いに対する氏の答えです。

(p129より引用) 「確かにそういう所から影響を受けたかもしれないが・・・。ただ、言葉にする時は影響は受けていないと言ったほうがいいだろう」
 オシムは静かな口調で否定する。
「そういうものから学べたとするのなら、それが必要なものになってしまう。そういう戦争が・・・」

 もうひとつの「オシムの言葉」です。

オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2005-12

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「空」 (般若心経(玄侑 宗久))

2006-10-26 00:45:10 | 本と雑誌

Stupa  百科事典によると「空はいっさいの実体(有)を否定し、それに執着しない人間の精神作用である」と説明されています。

 般若心経を解するには、この「空」という概念が肝になります。

(p39より引用) 仏教的なモノの見方をまとめるなら、あらゆる現象は単独で自立した主体(自性)をもたず、無限の関係性のなかで絶えず変化しながら発生する出来事であり、しかも秩序から無秩序に向かう(壊れる)方向に変化しつつある、ということでしょうか。

 「色不異空」、「色は空に異ならず」。
 「色」とは、物質的現象すなわち「形あるもの」を言います。また、「変化するもの」「壊れるもの」という意味もあります。
 「空」は、「自性」という固定的実体がないということです。

 般若心経の中でも代表的な句である「色即是空」は、

(p52より引用) 我々が知覚するあらゆる現象は、空性である。つまり固定的実体がない、ということ

 また、「空即是色」は

(p52より引用) 「空」であるが故に「縁起」し、あらゆることが現象してくる、ということ

だそうです。

 この「空」という概念は「梵我一如」の根底でもあります。

(p55より引用) 世尊は、ウパニシャッド哲学の云う「梵我」という二元を、共に「空性」であると悟って止揚されたのです。この意味での「梵我一如」を悟ることが初期の「悟り」とされました。

 「般若波羅蜜多」は「空」の実現そのものでもありました。まさに「般若の空」です。

 「空」に至らない段階は「私」が残っている状態です。
 「私」があると「意識」が生まれます。

(p155より引用) 「意識」などは、最も虚構性の高い代物であるわけです。「般若」の眼で見れば、全てが自性のない暫定的な出来事なのでした。

 「私」がある限りは「空」に至ることはできません。

(p199より引用) 自分で作った「私」という殻がいかに「苦」を生みだすものであるか、・・・
 知的に明確に知ることで得られるのは、やすらぎではなく単なる満足にすぎません。知的に知る主体は「私」だからです。

現代語訳 般若心経 現代語訳 般若心経
価格:¥ 735(税込)
発売日:2006-09

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

般若心経 (玄侑 宗久)

2006-10-25 01:22:52 | 本と雑誌

Shaka  孔子や老子といった極めてポピュラーな思想家の著作は目にする機会が多いので、何となく「儒教思想」「老荘思想」とはこんなものかというイメージが浮びます。

 他方、東洋思想におけるひとつの大きな底流である「仏教」については、どうも「宗教」という色彩が強く、そういった先入観からなかなか触れる機会がありませんでした。

 このところ「武士道」「五輪書」あたりの流れから「禅」関連の本も読んだりしましたが、今回は、最もベーシックな仏教関係の知識をということで「般若心経」を選んでみました。

 「般若心経」は、ご存知の通り「大乗仏教」における代表的な経典のひとつです。

 般若心経は「般若波羅蜜多」を主眼目においています。
 「般若」とは、「理知によらない体験的な『知』の様式」だと言います。「般若波羅蜜多」で「智慧の完成」と訳されることが多いとのことです。

 般若心経は、「般若波羅蜜多」に至る道を説いていますが、最後に、それに達するための咒文を示しています。

(p194より引用) このお経は、テーマが「般若波羅蜜多」という普遍的真理、そしてそれを実現するための咒文です。

 「響き」が「文字」を越えた導きになるとの考えです。

 そもそもバラモン教をはじめとするインドの宗教文化においては、「聖典の暗誦」が基本的な修行でした。

(p126より引用) 言葉というものが、どのような状況で誰に向けられたものであるかを抜きに一般化されて伝えられるべきでないという考え方。・・・表情や声の響きその他、音声言語には文字には写しとれない豊かな情報が含まれているということです。

 言葉は、その聞き手に対して発せられます。聖人の教えは一人一人に向かうということです。

 本書の巻末に「般若心経」の全文が載っています。
 本文262文字。試しに音読してみましょう。

現代語訳 般若心経 現代語訳 般若心経
価格:¥ 735(税込)
発売日:2006-09

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英国人写真家の見た日本 (H.G ポンティング)

2006-10-23 23:52:29 | 本と雑誌

 スコット南極探検隊の映像記録を残したポンティングは、日露戦争を挟んで延べ3年間日本に滞在しました。
 その間、様々な人々と交流をし、また日本各地を訪れ多くの貴重な経験をしました。
 京都の名工を訪ねたかと思うと、浅間山噴火に遭遇し、富士登山・保津川下りなども楽しみました。

 その情景描写は細やかで豊かです。
 その土地土地で出会った日本人に対する暖かな視線は、その文章とともに掲載された多くの写真で証明されています。

Tsurugaoka_hachimangu  本書の多くを占めるそういった日本各地の情景描写や人物描写の中で、一点、色合いの異なる叙述があったのが、鎌倉鶴岡八幡宮に係る一節でした。

 ポンディング氏は、日露戦争での旅順陥落の翌日、鶴岡八幡宮に訪れました。
 そこで、勝利のお礼参りに集まる日本の老若男女を目にしました。その姿は全く静かで、意気揚々とした様子のかけらもなかったと言います。

(p280より引用) この優しい妻たちや年老いた両親が、控え目な態度で心中は不安に苦しみながら、この軍神の神社に集まって、頭を下げて祈る光景を見て私は心が痛むのを感じた。

 ポンディング氏は、外国人として初めて日本陸軍に従軍しました。
 そして、日露戦争に参加し、生の軍人を通して日本人を見るという稀有な体験をしたのです。

(p282より引用) 日露戦争の間、日本の兵隊は戦死を熱望し、その妻や両親も彼が国のために死ぬことを願って送り出すのだという誇張された報道が多く見られた。こういう記事は日本に初めて来たばかりの記者によって書かれたもので、彼らは日本人や日本語を全く理解せずに、この絵のように美しい国に感激のあまり、事実を歪曲して描いたのである。日本人の間に何年も生活した経験がないかぎり、日本人の心の奥にあるものを理解することは誰にもできない。・・・私は戦場や病院や家庭で、数多くの日本の兵隊や両親たちに会って話をしたが、自分が死にたいと思った兵隊は一人もいなかったし、息子や夫が戦死することを願うような非人間的な父親も母親も妻も一人としていなかった。

英国人写真家の見た明治日本―この世の楽園・日本 英国人写真家の見た明治日本―この世の楽園・日本
価格:¥ 1,155(税込)
発売日:2005-05

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歴史を考えるヒント (網野 善彦)

2006-10-22 14:02:00 | 本と雑誌

Ichi  網野氏の著作は、このBlogでも以前「日本の歴史をよみなおす」をご紹介しました。
 そこでは、「百姓」という言葉の表わす実態がいわゆる「農民」ではないとの指摘から、江戸時代以前の日本が思いの外多面的な社会相を呈していたことを明らかにしていました。

 今回の本も、普段何気なく使っているいくつかの言葉の歴史的背景を辿ることによって、「多様な日本社会」の有様を平易に描き出しています。

(p141- 142より引用) 実際、江戸時代の社会が従来考えられてきたほど閉鎖的でなかったことは、近年広く認められるようになってきました。・・・
 産業・技術の面でも、確かにヨーロッパで生まれた蒸気機関はなかったにしても、それに直ちに対応できるだけの潜在的な力は十分に持っていたと考えられます。百姓、普通の人たちの生活の中に非常に多様な正業、技術が蓄積されており、それを基盤に高度な職人芸が展開していたのです。

 この本で取り上げられている言葉の多くは、「市場」「手形」「切手」「為替」といった当時の日本の経済活動に関わるものです。

(p151より引用) 「手」には交換という意味が含まれていると考えています。

 そこには、「無縁」という概念が関係してきます。中世の商業は、いったん「無縁(誰の所有物でもなくなること)」という状態が介在して「相互交換」が行なわれたのではないかと網野氏は論じています。このあたりの立論はなかなか興味深いものがあります。

(p160より引用) 近代以前の日本の商業・金融は、われわれが思っているよりもはるかに高度な発展を遂げていたと思います。・・・
 そうした成熟した商業・金融の発展があったので、六、七百年前から使われていた言葉が、高度な資本主義社会となった現在まで生きつづけているのではないかと思います。

 もうひとつの網野氏の視点は、歴史背景をもつ「言葉」の地域間の「差」てす。これらは、特に「地域名」や「身分呼称」に表れます。
 網野氏によると、「サントリー佐治社長(当時)の“熊襲”発言」も、この「言葉に対する歴史的認識の欠如」が底流にあったのだと言います。

(p51より引用) それぞれの地域に固有の歴史があることに気づいていないがゆえの失敗だと思うのです。そして、この出来事は、日本人が決して一様ではなく、多様な歴史を持っていることについての認識の欠如が、時として人の心を傷つけてしまうことも有りうる、という事実を示す好例だと思います。
・・・今回は、今なお生きているそうした地域の多様性への理解を、言葉の問題を通じて深めて頂ければと思ってお話しいたしました。

 これも大事にしなくてはならない視点だと思います。

歴史を考えるヒント 歴史を考えるヒント
価格:¥ 1,155(税込)
発売日:2001-01

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蓮如 (五木 寛之)

2006-10-21 15:07:19 | 本と雑誌

Rennyo  「五木寛之氏」と「蓮如」と「岩波新書」という取り合わせが気になって読んでみました。

 五木寛之氏の本は、はるか昔、中学時代に「風に吹かれて」というエッセーをはじめ何冊か読みました。当時はちょっとした流行でした。

 さて、この本ですが、五木氏自らいわく「蓮如紹介パンフレット」とのことです。蓮如という不思議な魅力をもつ人物のアウトラインを、五木寛之流の関心と感性で辿っていきます。

 蓮如(1415~99)は戦国時代の浄土真宗の僧で本願寺中興の祖と言われています。
 蓮如を語る際には、浄土真宗の開祖親鸞と比較されることが多いようです。
 五木氏によると、両者の対比は以下のようになります。

(p43より引用) 蓮如は、まったくそれと対照的です。彼は、親鸞が自己の「苦悩」を出発点としたのに対して、現世に生きてゆく人間の「悲苦」、つまり悲しみを原点として出発しました。

 五木氏の語る蓮如像は、本書のあとがきに記された以下の文に表わされています。
 蓮如もまた、大きな歴史のうねりのなかで、あるときには自律的に振舞い、あるときには他律的に振付けられたのです。

(p193より引用) ある個人を歴史を動かす巨大な司祭のように見なすことにも私は反対です。加賀の一向一揆に火を点じたのが蓮如であると同時に、北陸の被支配民衆の津波のようなエネルギーこそが蓮如を大波のてっぺんに押し上げ、そして投げ捨てたのだと私は考えます。親鸞が関東の野を去るのも、蓮如が吉崎から逃れるのも、ともに自力の働きだけではないでしょう。人の生涯には、それぞれに大きな他力の風が吹いている、と感じるのです。

 本書は、もとより蓮如に関する学術的な専門書ではありません。五木氏自らも、「聖俗具有のモンスターともいうべき蓮如への私的なオマージュ」だと述べています。

 ただ、蓮如という生々しい存在感溢れる人物を語る文脈を通して、五木氏の抱いている「歴史感」も垣間見ることができます。

(p46より引用) 人間の情念、怒り、悲しみ、血の記憶と、そこに注がれた大量の涙。そのような、いわば近代の理性が古いおくれたものとして軽蔑してきた情念によって、いま歴史がつくられつつある、それが現代であると思うのです。

蓮如―聖俗具有の人間像 蓮如―聖俗具有の人間像
価格:¥ 735(税込)
発売日:1994-07

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個性を育てる徒弟制度 (木のいのち木のこころ 天(西岡 常一))

2006-10-20 00:45:36 | 本と雑誌

Hourinnzisannzyuunotousinn  西岡氏は、祖父を師匠に厳しい「徒弟制度」の中で育ちました。
 西岡氏には弟子はひとりしかいません。その弟子、小川三夫氏を取るにあたっても3回追い返したといいます。そして、弟子にすると決めるや、納得づくでとことん育てました。

(p88より引用) 徒弟制度は時間がかかります。大量生産がききませんのや。一人一人違うものを育てるんやからな。

 徒弟制度による育成は、まずは弟子の側に厳しい修行に耐えて「一人前になるという強い意志」がなければなりませんが、育成する側にも「一人前に育てるという覚悟と使命感」が不可欠です。
 その意味では、1対1の真剣な「教育」の実践です。

(p90より引用) 徒弟制度といいましたら古いもんといわれていますが、古いからすべてが悪いというもんやないやないですか。すべて同じ人間にしようという教育よりは、よっぽど人間的な育て方でっせ。
 私は長いこと法隆寺や薬師寺などの古代建築を見て不揃いの木を扱ってきましたが、自分が育てられて来た徒弟制がすべて悪いとは思いませんな。むしろこんな時代やから、個性を大事にして人を育てるという意味では、もっと見直されてもいいんと違いますか。

 職人としての技能は、本を読んで頭で理解しても決して身に付きません。また、他人に教わるだけでもだめです。本人自身が、地道な経験を重ねることで、感覚としてまた体で覚えるしかありません。

(p94より引用) 頭ごなしに「こうやるんだ」と教わってもできません。手取り足取り丁寧に事細かに教わってもできませんな。
 素直に、自分の癖を取って、自分で考え、工夫して、努力して初めて身につくんです。苦労して、考え考えしてやっているうちに、ふっと抜けるんですな。そしてこうやるのかと気がつくんです。こうして覚えたことは決して忘れませんで。

 こういう覚え方に至るのも、徒弟制度での師匠の指導の賜物です。

 師匠は、四六時中、弟子の様子を厳しくも温かい眼でつぶさに見ています。
 そして、遠まわしに、弟子が、自分の頭で考えそれにより自らの向上心が高まるような、そんな一言をかけるのです。

木のいのち木のこころ〈天〉 木のいのち木のこころ〈天〉
価格:¥ 1,427(税込)
発売日:1993-12

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

口伝の心構え (木のいのち木のこころ 天(西岡 常一))

2006-10-18 00:31:49 | 本と雑誌

Yakushiji  西岡氏が、直接には師匠である祖父から、そして源ははるか昔の飛鳥の工人から受け継いだ「口伝」です。
 細かくは100を越える数あるそうですが、その中で氏が特に重きを置いているものを紹介しています。

(p52より引用) 口伝にも木の扱いに関してはいろいろ教えております。
「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」
「木は生育の方位のままに使え」
「堂塔の木組みは木の癖で組め」
 いずれも木の使い方の心構えを説いたものですな。要は自然の教えるままにしなさいと言うているわけです。その自然に対する心構えというのがどうしても大事になりますな。ものを扱うのも技術も、心構えなしには育たんもんですわ。

 西岡氏にとって「口伝」は、自分の思考そのものと化しています。氏の姿勢は、そのまま、まさに「口伝」の具現と言えます。

(p54より引用) やっぱりたった一本の木でも、それがどんなふうにして種が播かれ、時期が来て仲間と競争して大きくなった、そこはどんな山やったんやろ、風は強かったやろか、お日さんはどっちから当たったんやろ、私ならそんなことを考えますもんな。
 それで、その木の生きてきた環境、その木の持っている特質を生かしてやらな、たとえ名材といえども無駄になってしまいますわ。ちょっとした気配りのなさが、これまで生きてきた木の命を無駄にしてしまうことになるんやから、われわれは十分に考えななりませんわ。

 そういう西岡氏の言は重厚です。名人の年輪を感じさせます。
 以下は「木の風格」に関する西岡氏の言葉ですが、まさに「人」にも当てはまる卓見です。

(p34より引用) 年を取っている木で大きなものでも、中が空洞やウロができているもんは一見若々しいですな。こういう木は周囲だけが生きていますのや。栄養が全体に達しんと、葉のところだけが若々しいんやけど、年を取って中がしっかり詰まっとるのは栄養が回りきらんから黄ばんだような、くすんだ感じがしますんですな。これも弱って黄ばんどるのとは違いまっせ。こういう木は材にしても風格がありますな。

木のいのち木のこころ〈天〉 木のいのち木のこころ〈天〉
価格:¥ 1,427(税込)
発売日:1993-12

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

個性の木組み (木のいのち木のこころ 天(西岡 常一))

2006-10-16 23:54:35 | 本と雑誌

Horyuji_gojyunoto_1   著者の西岡常一氏は、世界最古の木造建築である法隆寺の修繕・解体の仕事を代々受け継いできた「法隆寺大工」の最後の棟梁となった人物です。

 その西岡氏が、法隆寺大工に代々伝わる「口伝」をもとに、その経験と叡智を記したのが本書です。

 西岡氏は、飛鳥の工人の叡智のひとつとして、「木の癖を見抜きそれぞれの違いを活かす木組み」を紹介しています。

(p4より引用) 私らが相手にするのは檜です。木は人間と同じで一本ずつが全部違うんです。それぞれの木の癖を見抜いて、それにあった使い方をしなくてはなりません。そうすれば、千年の樹齢の檜であれば、千年以上持つ建造物ができるんです。これは法隆寺が立派に証明してくれています。

 西岡氏の「木」に対する姿勢は、「人」に対する姿勢にそのままつながります。
 「違っているものの集まり」の美しさ・強さを説きます。

(p90より引用) これらの建物の各部材には、どこにも規格にはまったものはありませんのや。・・・よく見ましたら、それぞれが不揃いなのがわかりまっせ。どれもみんな職人が精魂を込めて造ったものです。それがあの自然のなかに美しく建ってまっしゃろ。不揃いながら調和が取れてますのや。すべてを規格品で、みんな同じものが並んでもこの美しさはできませんで。不揃いやからいいんです。
 人間も同じです。自然には一つとして同じものがないんですから、それを調和させていくのがわれわれの知恵です。

 そういう西岡氏の目には、現代は「個性が埋没した世界」と映っているようです。「個性」を大事にとはいいながら、そういうお題目自体が、均質的な社会に浮遊しているといった感覚です。

(p2より引用) 時代は科学第一になって、すべてが数字や学問で置き換えられました。教育もそれにしたがって、内容が変わりました。「個性」を大事にする時代になったといいますな。
 しかし、私たち職人から見ましたら、みんな規格にはまった同じもののなかで暮らしているようにしか見えませんのや。使っている物も、住んでいる家も、着ている服も、人を育てる育て方も、そして考え方まで、みんな同じになっているんやないかと思っております。

 そんな没個性の世界からは、創造的な文化は育ちようがありません。

(p89より引用) 均一の世界、壊れない世界、どないしてもいい世界からは文化は生まれませんし、育ちませんわな。職人もいりません。

 もうひとつ、別の観点から話です。

 「個性重視」という場合、その人材活用の具体的方法として「適材適所」が言われます。
 西岡氏のいう「適材適所」は、普通に浮ぶイメージとちょっと違うかもしれません。「西岡氏流適材適所」は、ある人の(長所はもちろんですが)「欠点も生かす」ようにすることを言います。

(p116より引用) 適材適所といいますが、いいところばかりではなしに、欠点や弱点も生かしてその才能を発揮させてやらなならんのです。いいとこだけを拾い出して、いいとこに並べるというのとは違いますからな。・・・よく嫌なやつを無理して使うことないやないかと言われますが、そういうわけにはいきません。そういうわけにはいかんというよりも、そういうふうにいわれる人でも使えるところがありますのや。おもしろいことにそういう癖のある人にとても間に合うところが必ずありますさかいに。私はこれまで長いこと棟梁をやってきて、使え切れんから首にしたことは一度もありませんな。

 「個性の木組み」が、法隆寺を世界最古の木造建築物として今に残したのです。

木のいのち木のこころ〈天〉 木のいのち木のこころ〈天〉
価格:¥ 1,427(税込)
発売日:1993-12

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翻訳と日本の近代 (丸山 真男・加藤 周一)

2006-10-15 13:23:17 | 本と雑誌

 加藤周一氏の問いに丸山真男氏が答えるという問答形式で論が進みます。
 テーマは「翻訳」。明治期初期の翻訳について、何故、何を、如何に訳したかが語られます。

 たとえば、「論語」を例に、如何に訳したかのくだりです。
 ここでは、道徳観や政治観がその背景にある例を、「朱子」と「荻生徂徠」を材料に語っています。

(p77より引用) 「異端を攻むるはこれ害なるのみ」を、朱子の注だと「異端を学究すると本当の道がわからなくなる、だから害がある」という。これは修身的解釈です。ところが、徂徠の解釈では、「異端」は政治的な権力に対するアウトサイダーや反対派のことであり、「攻」は文字どおり、「攻める」「攻撃する」となる。異端を攻撃すると逆効果になるからやめた方がいいという意味になる。

 同じオリジナルの章句の解釈も、拠って立つバックボーンが異なると意味が全く異なってしまいます。

 特に儒教関係の書物について言えば、現在は多くの場合「教訓的」な解釈が一般になっていますが、それは「孟子」以降とのこと。
 この点に関して、丸山氏は、次のように、中国文学者の吉川幸次郎氏の言を紹介しています。(なお、ここで吉川氏が「わが国」と言っているのは「中国」のことです。

(p76より引用) そういうことをいうと、吉川さんなんかはぼくに対して反駁して、いやそれは日本の儒者が実際以上に儒教を修身的にしたのであって、「わが国の」儒教は違う(笑)、という。翻訳で読むとラディカルになるのというのと似ているんだけどね。実際は、論語を見てごらんなさい、「朋あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや」「学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」、これのどこが教訓的か。自然の人間の感情ではないかと。

 そのほかこの本で興味を抱いたのは、「社会・文化に与えた影響」という章での「進歩と進化」に関する部分でした。

(p154より引用) 進化論の影響を受けたかどうかが、中江兆民と福沢の決定的なちがいだと思うのです。兆民においては決定的です。「進化神」が出てくるでしょう。福沢のは進歩の思想なんだね。二人をくらべると進化の思想と進歩の思想の違いがよく出ている。進歩の思想は18世紀であり、進化は19世紀の後半にはじめて出てくる。進歩はいいものに決まっているけど、進化はいいとは決まっていない。・・・進化論は、自由民権の思想にも影響を持ちうるし、加藤弘之みたいに反動的な面にも利用されて、はじめから両義的な意味をもって日本に入ってくる。

翻訳と日本の近代 翻訳と日本の近代
価格:¥ 735(税込)
発売日:1998-10

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

要約の効能 (考える技術・書く技術(バーバラ・ミント))

2006-10-14 12:07:23 | 本と雑誌

 プレゼンテーションのHow Toでは、あることを説明する場合、まず、これから説明する具体的な項目の「数」を示してイントロとすることが薦められます。
 「・・・には、3つの課題があります」とか「・・・のために、5つの改善点を指摘します」といった感じです。

 が、著者は、そういった表現は「白紙の主張」であって不十分だと言います。
 著者が求める導入部の記述内容は、「最終結果がイメージできるように、行動や考えを具体的なことばにする」ことです。そのために必要な作業が「要約」です。

(p158より引用) 正しく要約を表現することの最大の価値は、そうすることが、いったい自分が何を本当に言いたいのかを見つけ出す助けになるということです。またもうひとつの価値は、読み手に対し、自分がこれから詳しく伝えようとしている考えを事前に伝え、読み手の頭の中に受け入れ態勢を準備させることです。

 著者は、こういった「要約」のコンセプトを踏まえた「グループ化」が適切になされていれば、自分の考えを相手(読み手)に明快に伝えることができると言います。
 具体的には、

(p102より引用) 第1に、考えのグループを構成しているロジックの枠組みを見つけ、それをロジックの順序で書き表わすことです。次に、混乱した考えの中から本質的な考えを抜き出すこと、つまり帰納法的な要約を見つけることです。

というプロセスにより、「ピラミッド構造」をつくりあげるのです。

 グループ化する場合は、「構造」「因果関係」「分類」という3つの視点のどれかの軸でまとめることになります。

 その際の肝は、「なぜ、これらをグループ化したのか」という「基準」です。
 これについて、著者は、以下の2点を挙げています。

(p164より引用)
・それらはすべてある特性を共有しており、かつ、その特性で関連づけられるすべての考えであるから(このケースでは、要約ポイントはその類似点の意味から得られる考えとなります)
・それらはすべてある結果を達成するために一緒にとらねばならない行動であるから(このケースでは、要約ポイントは一連の行動によって得られる直接の結果を述べます)

 さて、本書です。
 非常に懇切丁寧に説明されているのですが、一度ザッと読んだぐらいで著者の方法論を理解しきるというのは、私にはちょっと無理でした。

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則 考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:1999-03

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

考える技術・書く技術 (バーバラ・ミント)

2006-10-11 23:21:35 | 本と雑誌

 いわゆる「ロジカル・ライティング」の解説書です。
 著者のバーバラ・ミント氏は、世界の主要なコンサルティング・ファームに対してもライティングの講義を行っているこの分野の実力者です。

 当然のことながら、「ライティング」の前提には「シンキング」があります。
 この本では、分りやすい文章を書くためにはしっかりした「論理構成」が不可欠との観点から、いくつもの具体的なフレームワークやツールを紹介しています。
 たとえば、「適切な文章構成の3つの鉄則」として示しているのは、以下のポイントです。

(p15より引用) 
1.どのレベルであれ、メッセージはその下位グループ群を要約するものであること
2.各グループ内のメッセージは、常に同じ種類のものであること
3.各グループ内のメッセージは、常に論理的に順序づけられていること

 これが、まさに著者が提唱する「ピラミッド原則」の基本スキームになります。

 著者によると、ピラミッドを形成する「事実」や「思考」を論理的に並べるパターンは、以下の4つしかないと言います。

(p17より引用)
演繹の順序(大前提、小前提、結論)
時間の順序(1番目、2番目、3番目)
構造の順序(北から南、東から西、等)
比較の順序(1番重要なもの、2番目に重要なもの、等々)

 また、ピラミッド型に構成されたロジックに基づき「ビジネス文書」や「コンサルティング提案」等を書き起こす際には、「導入部」の内容がポイントになると述べています。
 この導入部の構成としては、「古典的なストーリー展開」を推奨しています。「状況→複雑化→疑問→解答」という一連の流れです。

(p26より引用) まず、「状況(Situation)」の時間と場所を設定します。この「状況」の中で何かが起きます。これを「複雑化(Complication)」と呼びます。この複雑化によって読み手は「疑問(Question)を抱き(あるいは、おそらく抱くはずであり)、それに対してあなたの文章が「答え(Answer)」を与えるというパターンです。

 割り切りすぎた説明という感じもしますが、まずは「基本の型を身につけることに専念すべし」ということです。

考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則 考える技術・書く技術―問題解決力を伸ばすピラミッド原則
価格:¥ 2,940(税込)
発売日:1999-03

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする