OMOI-KOMI - 我流の作法 -

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これで古典がよくわかる (橋本 治)

2009-03-29 15:49:50 | 本と雑誌

Yoshida_kenko  いつも読書の参考にさせていただいている「ふとっちょパパ」さんが以前紹介されていたので読んでみました。

 「古典」の入門解説というよりも、現代日本語のルーツである「和漢混淆文」に至る日本語の歴史を、「古典」の文章を材料に説いたような内容です。

 和漢混淆文は鎌倉時代に登場します。

 
(p67より引用) 重要なことは、「兼好法師の時代になって、やっと現代人でも読めるような文章が登場する」です。だから、それ以前の古典-『源氏物語』や『枕草子』が読めなくったって、読んでも意味がわからなくったって、べつに不思議でもなんでもないんです。

 
 平安時代は「和歌」の時代でした。
 「和歌」は実用的なコミュニケーションツールだったのです。

 
(p79より引用) 平安時代というのは、まだ「普通の日本語の文章」がなかった時代なんです。日本人が普通に「日本語の文章」を書いて、それが十分に「自分の感情」を伝えられるようになった時、和歌というものは「生活必需品」から「教養」へと転落するのです。

 
 平安時代を代表する著作は、やはり「源氏物語」「枕草子」です。
 それらは「ひらがな」で書かれていました。ひらがなだけで書かれた「和文体」は句読点もなく、主語述語の関係もあいまいです。まさに「話し言葉」をそのまま「ひらがなに起こした」ものです。
 著者は、源氏物語の分かりにくさの原因について、「複雑な心理描写の内容」を「かんたんな(ひらがなの)文章」で書こうとしためだと説明しています。

 こういった「話し言葉のひらがな」と「書き言葉の漢字」とが程よくミックスされることによって、分りやすい日本語表記法としての「和漢混淆文」が生れました。

 
(p217より引用) 「和漢混淆文」は、日本人が日本人のために生み出した、最も合理的でわかりやすい文章の形です。・・・「自分たちは、公式文書を漢文で書く。でも自分たちは、ひらがなで書いた方がいいような日本語をしゃべる」という矛盾があったから、「漢文」はどんどんどんどん「漢字+ひらがな」の「今の日本語」に近づいたんです。漢文という、「外国語」でしかない書き言葉を「日本語」に変えたのは、「話し言葉」なんです。

 
 本書には、古典に対して興味がわくようないくつものネタが仕込まれています。

 たとえば、「万葉ぶり」をキーワードにした2人の人物、「武の上皇」と「文の将軍」の紹介。
 その2人とは、新古今和歌集を編んだ文化人でありつつも武士に武力で対抗しようとした後鳥羽上皇と、武士の棟梁でありながら都にあこがれ、自らの歌を金槐和歌集にまとめた源実朝です。
 著者によると、源実朝は「おたく青年の元祖」だというのです。

 また、「古典の訳」についても、著者ならではのセンスが溢れています。
 古文の授業では必ず取り上げられる代表的な単語「あわれ」と「をかし」の訳し方です。
 「あわれ」は「ジーンとくること」、「をかし」は「すてき」。

 さらに、有名な「徒然草」の冒頭も、橋本流ではこうなります。

 
(p192より引用) 《つれづれなるままに日くらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ》-この文章の訳は、「退屈でしょうがないから、一日中硯に向かって、心に浮かんでくるどうでもいいことをタラタラと書きつけていると、へんてこりんな感じがホントにアブナイんだよなァ」になります。一体なんなんでしょう?

 
 最後に、著者が説く「古典」の楽しみです。

 
(p219より引用) 古典が教えてくれることで一番重要なことは、「え、昔っから人間てそうだったの?」という、「人間に関する事実」です。・・・古典は、そういう「とんでもない現代人」でいっぱいなんです。

 
 

これで古典がよくわかる (ちくま文庫) これで古典がよくわかる (ちくま文庫)
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発売日:2001-12

 
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そして南海先生 (三酔人経綸問答(中江兆民))

2009-03-28 12:48:00 | 本と雑誌

 洋学紳士氏と豪傑氏、「新しずき」と「昔なつかし」の両説が揃ったところで、南海先生はこう語り始めます。

 
(p93より引用) 紳士君の説は、ヨーロッパの学者がその頭の中で発酵させ、言葉や文字では発表したが、まだ世の中に実現されていないところの、眼もまばゆい思想上の瑞雲のようなもの。豪傑君の説は、昔のすぐれた偉人が、百年、千年に一度、じっさい事業におこなって功名をかち得たことはあるが、今日ではもはや実行し得ない政治的手品です。・・・どちらも現在の役にたつはずのものではありません。

 
 洋学紳士氏の理想論に対しては、こう言います。

 
(p97より引用) 紳士君は、もっぱら民主制度を主張されるが、どうもまだ、政治の本質というものをよくつかんでいない点があるように思われます。政治の本質とはなにか。国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうど見あいつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。

 
 社会制度の段階的進歩は、民度の高まりに合わせなくてはかえって混乱を招くとの主張です。実際に民主制を導入する前に、まずは大衆に民主思想を芽生えさせるのが先だと説きます。

 南海先生曰く、「思想は原因で、事業は結果」です。南海先生は進化の理法を「思想と事業の往還運動」と捉えています。

 
(p100より引用) 世界各国の事跡は、世界各国の思想の結果です。・・・思想が事業を生み、事業がまた思想を生み、このようにして、変転してやまないこと、これが、とりもなおさず、進化の神の進路です。

 
 また、南海先生は、自らの外交・防衛についての考え方をこう顕かにしています。

 
(p108より引用) 外交上の良策とは、世界のどの国とも平和友好関係をふかめ、万やむを得ないばあいになっても、あくまで防衛戦略を採り、遠く軍隊を出征させる労苦や費用を避けて、人民の肩の荷を軽くしてやるよう尽力すること、これです。

 
 本書は、現代文訳と原文、そして巻末に桑原武夫氏による「解説」という構成です。

 その「解説」において「三酔人」の性格付けがされています。

 
(p261より引用) スマートな風采で、言語明晰な哲学者である洋学紳士は、西洋近代思想を理想主義的に代表する。かすりの和服を着た壮士風の論客は豪傑君とよばれ、膨張主義的国権主義を代表する。進歩はけっして一直線ではなく、まがりくねり、進むとみれば退き、退くとみれば進むとする南海先生は、理想をもちながら、その実現においては、時と場所の限定を自覚して慎重でなければならないとする現実主義を代表する。

 
 南海先生が自らの姿勢を表した言葉です。

 
(p109より引用) いやしくも国家百年の大計を論ずるようなばあいには、奇抜を看板にし、新しさを売物にして痛快がるというようなことが、どうしてできましょうか。

 
 現代文訳の部分だけなら100ページ程度の本ですが、桑原氏の評価は極めて高いものがあります。

 
(p263より引用) 現在の日本は、平和、自由、防衛、進歩・保守、民権・国権などあらゆる重要問題において、なお『三酔人経綸問答』の示した枠内にあるといって過言ではない。・・・本書は政治思想においてのみでなく、ひろく明治の文明を代表する最高の作品ということができるであろう。

 
 巻末の「解説」が書かれたのは1965年ですが、本書で述べられた兆民の主張は、当時でも十分通用するものだというのです。
 何のことはない、2009年の現代でもまだまだ通用するようです。
 
 

三酔人経綸問答 (岩波文庫) 三酔人経綸問答 (岩波文庫)
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紳士君と豪傑君 (三酔人経綸問答(中江兆民))

2009-03-26 22:47:18 | 本と雑誌

 中江兆民(1847~1901)は、明治期の自由民権思想家・評論家で、ルソーの社会契約論・人民主権論などを紹介、東洋のルソーと呼ばれました。

 タイトルにある「経綸」とは、注によると「たかい理想や識見に立脚して天下国家の政治をおこなうこと」との意味だそうです。

 本書は、今でいう政治評論家?である南海先生のもとを、洋学紳士氏と豪傑氏が尋ね、お酒を酌み交わしながら天下国家を論じあうという設定です。

 洋学紳士氏は、いわゆる進歩派です。国防に対しては非武装の立場です。

 
(p14より引用) 小国のわれわれは、彼らが心にあこがれながらも実践できないでいる無形の道義というものを、なぜこちらの軍備としないのですか。自由を軍隊とし、艦隊とし、平等を要塞にし、博愛を剣とし、大砲とするならば、敵するものが天下にありましょうか。

 
 また、社会制度としては「自由」と「平等」を重んじます。

 
(p39より引用) 政治的進化の理法をおしすすめて考えると、自由というもの一つだけでは、まだ制度が完全にできあがったとはいえないので、そのうえ平等が得られて、はじめて大成することができるのです。

 
 洋学紳士氏は、自由と平等の確立の程度に応じて、政治制度も3つの段階で進化してゆくと主張します。
 政治的進化の理法の第一歩が「君主宰相専制」、第二歩が「立憲政治」です。

 
(p40より引用) 王室が全国民のうえにいかめしく立ち、代々世襲制・・・というわけで、平等の大義がまだ完全ではないから、イギリス人のうちでも進んだ思想をもち、理想主義の連中のなかには、もう一歩進んで、自由の原理のほかにさらに平等の原理をも合せもつことによって、民主制を採用したい、と熱望するものがすこぶる多い。

 
 ということで、第三歩がゴールである「民主制」ということになります。

 洋学紳士氏は、世界中を、「国」という分けすらなくした「一個の大きな完全体」に仕上げるものとして「民主制」を礼讃します。ここにおいて、民主制は、非軍備・非抵抗主義につながるのです。
 同じ人民なのだから、相争うべきではないとの考えです。

 さて、守旧派である豪傑氏の反論が始まります。

 
(p60より引用) 哲学思想が人の心を盲にするといっても、こんなにまでひどかろうとは。紳士君がこの数時間しゃべりまくって、世界の形勢を論じ、政治の歴史を述べられたが、ぎりぎり決着の奥の手といえば、国中の人民がみな手をこまねいて、いっせいに敵の弾丸にたおれるというだけのこと。なんというお手軽な話です。有名な進化の神のご霊験というのは、要するにこんなことだったのですか。さいわいにして私は、ほかのおおくの人々が、この神のお慈悲にはけっして頼らないのを知っています。

 
 豪傑氏の説は、ヨーロッパ諸国が軍事競争に専心しているときを捉えて、日本もアジア・アフリカへ進出して列強と並び立つ大国となるべきとの考えです。
 
 

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おろしや国酔夢譚 (井上 靖)

2009-03-24 22:48:05 | 本と雑誌

Ekaterina_ii  今年は、今まであまり読まなかった「小説」にもチャレンジしてみようと思っていました。
 さてどんなものから読もうかと思っていたところ、雑誌「プレジデント」に経営者が薦める本の特集が掲載されていました。本書は、その中で三菱電機・野間口会長が紹介されていたものです。

 主人公は、大黒屋光太夫(1751 -1828)。
 江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船の船頭です。
 1782年江戸に向かって出帆したのですが、再び日本の地を踏んだのは10年後でした。

 本書は、光太夫一行の波乱に満ちた運命の旅程を描いた井上靖氏の作品です。

 8ヶ月の漂流から4年間にわたるアムチトカ島での生活の末、カムチャッカ半島に渡り、さらにオホーツクへ移された光太夫一行。この地から日本に戻れるのではとの一縷の望みも絶たれ、内陸のヤクーツクへ移ることになったとき、光太夫は、こう自分に言い聞かせました。

 
(p100より引用) こうなった以上は、渡り鳥の渡るのでも見るのを楽しみにして、千十三露里の大原野への旅へ出て行く以外仕方なかった。

 
 ヤクーツクからイルクーツクへ。光太夫一行は、日本からどんどん離れ、ロシアの社会にますます近づいていきます。イルクーツクでは、日本語学校教師として永住することを求められます。
 ロシアが日本人学校をかつて建て、また今再開しようとしているのを知ったときの光太夫の想いです。

 
(p159より引用) 光太夫はこの時ほど日本という国が小さく、しかも無欲に無防備に見えたことはなかった。蝦夷の北方に拡がっている大海域でいかなることが行われているか、自分たち六人の漂流民以外、日本人は誰も知ってはいないのである。光太夫はどんなことがあっても、日本へ帰らなければならないと思った。

 
 このとき光太夫は「世界」を感じたのでしょう。

 光太夫は、行動の岐路に面した際、止まることより動くことを常に選択して行きました。何としてでも日本に戻るという目標のために、その可能性の拡大を信じて決断を重ねていきました。
 その結果、光太夫は、ロシアの首都ペテルブルグにまで至り、女帝エカチェリーナ2世との謁見を頂点とする目が回るがごとき凄まじい異国の体験を積むことになりした。

 さて、約10年もの隔たりの後、ようやくついに念願かなって光太夫らは日本の地に戻ってきました。
 しかし、そのとき光太夫は・・・、

 
(p340より引用) 氷雪のアムチトカ島よりも、ニジネカムチャツクよりも、オホーツクよりも、もっと生きにくいところへ自分は帰って来たと思った。帰るべからざるところへ不覚にも帰ってしまったのである。・・・自分は自分を決して理解しないものにいま囲まれている。そんな気持ちだった。自分はこの国に生きるためには決して見てはならないものを見て来てしまったのである。

 
 10年の異国体験は、光太夫を、鎖国時代の日本という国には収まりきらないスケールにまで大きくしていたのです。
 
 

おろしや国酔夢譚 (文春文庫 い 2-1) おろしや国酔夢譚 (文春文庫 い 2-1)
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セブン‐イレブンの正体 (古川 琢也)

2009-03-22 16:14:18 | 本と雑誌

Seven_eleven  2008年の全国のコンビニの売上高は百貨店を凌駕する勢いです。(「コンビニ売上高、百貨店を初逆転 主婦・高齢者つかむ」2009年1月19日朝日新聞)
 店舗数も、入れ替わりは激しいものの年々増加し続け、すっかり生活に不可欠なものとして定着したといえるコンビニですが、2009年2月20 日の読売新聞に「セブン‐イレブン、加盟店の値引き不当制限か…公取委検査」との記事が報じられました。

 本書では、新聞報道された「過剰発注」「大量廃棄」それらの誘引となっている「ロスチャージ」という独特の会計処理といった実態を裏づけるようないくつもの証言・証拠が紹介されています。

 
(p78より引用) 流通業界が力を持ちすぎてしまって、ものづくりの現場が大事にされなくなっていますね。

 
 最近では、環境への配慮といったコンテクストの中で、「コンビニの24時間営業の是非」についても、一部自治体を中心に議論されつつあります。

 何かと風当たりも強くなってきたコンビニ業界ですが、こういった流れに対応する形で、(セブン‐イレブンに限った話ではありませんが、)本部から加盟店オーナーに対して、マスコミ取材を拒否するよう指導することもあるそうです。

 
(p108より引用) 加盟店オーナーが二四時間営業で非常に不利益を強いられているのであれば、意見も言わせないという本部の対応は、『正常な商慣習に照らして不当に加盟者に不利益となるように取引条件を設定し又は実施し』ていると認められ、『優越的地位の濫用』にあたるといえます

 
 この他にも、過重労働・極端な効率化実態等々・・・、100ページ強のボリュームですが、本書が指摘する問題は多岐にわたります。

 本書で紹介されている「コンビニ企業側からの反論」は、広報部門からの回答レベルでしかありませんから、本書の主張だけで事の正否を論ずるのは尚早です。

 いくつかの問題は、民事裁判や公正取引委員会の検査結果により明らかにされるのでしょう。
 
 

セブン‐イレブンの正体 セブン‐イレブンの正体
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発売日:2008-12

 
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子どもと話す 文学ってなに? (蜷川 泰司)

2009-03-20 13:54:09 | 本と雑誌

Virginia_woolf  「文学ってなに?」というタイトルに惹かれて読んでみました。

 私自身、いわゆる「文学」的な著作はほとんど読んでいないのですが、それは「文学」を「理解」することへの「自信のなさ」が影響しています。そういった私の「弱点」を埋めることができるのではとの期待もありました。

 が、やはり、それはどうも難しいようです。
 バフチンやベンヤミンの思想も紹介されているのですが、ちょっとそのあたりは私には理解しづらいものでした。

 
(p142より引用) バフチンは伝統ある詩に比べて、ともすれば低い地位を与えられかねない近代の立役者、小説の持つ独自の豊かな局面を取り出した。一方、ベンヤミンは物語りとの比較の中で、小説のもたらす危機的な側面をえぐり出したんだと思う。

 
 本書では、いくつかのテーマを掲げて「私」と「少年」との会話が進められていきます。

 そのテーマのひとつ「商品としての文学」についての部分です。
 15世紀の半ば、グーテンベルクによる活版印刷の発明・普及が、急速な「文学の商品化」を推し進めました。

 
(p133より引用) 近代ヨーロッパにおける書物社会の成立拡大とともに、小説という分野も歴史の表舞台に姿を現わしたんだが、何よりもそれは書物に依存し、それは〈聞かれる〉ものではなくて、あくまでも〈読まれる〉べきものであって、作者も読者も求められるべきはどこまでも孤独な作業じゃないのか。

 
 さらに、情報化が進むとゆったりと流れる物語の時間が消えてゆきます。

 
(p140より引用) 情報の時間は瞬時にいくらでも寸断されて、いかにも取り留めなく、すべての前後というものが取り去られ、持ち去られては消え去っていく。私たちは時間の中でこれまでにないほど分裂をとげる。限りなく、情報のモザイクのような生活の鋳型にはめ込まれていく。

 
 また、他方、出版(publish)からpubulication、さらにpubulicとの連想によって、出版の公共性の議論になり、「公衆」に対する「政治」の圧力に話が進んでゆきます。
 このあたりのくだりは、何となく理解できた気がするのですが、だからといって「文学」に近づいたという実感はありません。

 本書の中には、幾人もの作家・評論家・哲学者が登場してくるのですが、恥ずかしいことに、私は、名前ぐらいしか知りません。もちろん、名前さえ知らない作家もいました。

 やはり、そういった人たちの著作に数多く当たらなければだめだということでしょう。
 当然のことです。
 
 

子どもと話す 文学ってなに? 子どもと話す 文学ってなに?
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見えないリーダーシップ (タオ・マネジメント―老荘思想的経営論(田口佳史))

2009-03-18 22:37:23 | 本と雑誌

 本書は、老荘思想に則った企業経営のあり方を説いたものです。そこには、老荘流の「リーダーシップ」の形も紹介されています。

 一言でいえば「見えないリーダーシップ」です。

 
(p65より引用) 実は、組織をうまくならしめている者こそがトップであるとは、だれも気付きも思いもしていない状態こそが理想的姿といえる。

 
 「謙下」
 謙虚な姿勢を重んじ、尊大・傲慢を否定します。

 
(p82より引用) 虚の本質は「真実」である。しかし、己を虚しくするとは、以下のことではない。自分の見識を持たない。自分の信条を持たない。・・・
 自分をまず後にする。まず相手を先にすることである。

 
 これを企業経営に当てはめると、「顧客重視」「社員重視」の姿勢につながっていきます。
 「老子」の思想から、「社員重視」という観点にかかわるものとして2点記しておきます。

 ひとつには、「個性を重視した多様な人材の尊重」という考え方です。

 
(p95より引用) 道は不仁で、誰であろうと差別をしない。・・・
 また道は、相対的に見ることをしない。したがって、比較ということがない。人間を常に差別しない。能力や力量の比較で見ない。個々の個性、持ち味で見る。

 
 もうひとつは、「権力行使の抑止」です。

 
(p122より引用) 相手が自分よりも弱く、何ら抵抗する力を持たない時には、その絶対的権力を振るってはならない。人間として行ってはならない行為である。
 つまり、強い立場から命令するということは、一方的な通告となる。一方的ということは、調和に欠けるのである。調和に欠ける行為は、必ず災いを被ることになる。

 
 老荘思想の企業経営は、争わず、上善若水、柔軟な共生を目指します。無駄な力は行使しない「省エネルギー」型です。小さい自事柄を侮らず、丁寧に対処していきます。

 
(p194より引用) 大問題や難題の生じ難い、つまり総体のエネルギーを建設的なテーマに投入することができる企業においては、易しいことほど慎重に、小さなことほど細心に立ち向かうという、いわば「愚直さ」が尊重されているのである。

 
 また、経験を重んじます。著者のいう「真の知識」とは実行という経験から得たものをいいます。
 その観点から、机上の「戦略的思考」を強く否定しています。

 
(p200より引用) 頭脳の働きの中には、戦略的思考、つまり創造上における勝利の図式を思い描くという働きもあり、それはとかく野心や欲望を誘発しやすいものである。
 頭の中での勝利、あるいは勝利にいたる戦略構築は、それが鮮やかであればあるほど人間を酔わせるもので、それこそ妄想を生じやすくし、虚構を描きやすくする。更にこれらは、それ自体に力を持つもので、多くの人間を惑わす力を持っている。
 企業の中がひとたびこうした状況に犯されてしまうと、多くの社員は地道で素朴な肉体的実践を嫌うようになり、ただ単なる頭脳プレイを好むようになり、それはやがて妄想集団の悲劇である内部崩壊や社会との乖離を招くことにもなる。

 
 最後に、老荘思想における「望ましい経営者像」です。

 
(p233より引用) 成果は次世代の経営者に、自分は負担のみという案件を英断をもってスタートさせたかどうかほど、経営者の業績を語る場合に重要なものはない。

 企業を「充実発展継続」させることが経営者の使命であり、「自らは次世代のためにある」との自覚を肝に銘じる覚悟です。

 
 

タオ・マネジメント―老荘思想的経営論
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鞴(ふいご) (タオ・マネジメント―老荘思想的経営論(田口佳史))

2009-03-17 21:25:23 | 本と雑誌

 老荘思想では、その思想を説くためにメタファーが登場します。
 最も代表的なものはなんと言っても「水」だと思いますが、「鞴(ふいご)」も有名かもしれません。

 
(p28より引用) 天地が間断なく、無数の物事を生み出し続けているのは、天地の間はあたかも「鞴」のように、何もなく空間であるからだ。鞴も内が空気で充満しておらず、常に空っぽだから空気が吸い込め、空気を吐くことが出来る。以上が創造の真理である。・・・
 一人の人間も、いつまでも過去にとらわれることなく、日々一日一日、全く新しい純白のキャンパスに取り替えて朝を迎え、一日を過ごすこと。毎日新たな体験、新たな驚きと感動を求めて生きるよう心掛けると、そこには新しい創造のエネルギーが、身体の奥底からわき上がってくる。

 
 「空っぽ」であることは、新たなものが生まれる「もと」です。
 一杯に満ちていないことが重要です。

 
(p40より引用) より良い活動には、余裕というものが絶対に重要である。

 
 余裕があるということは、「謙虚な態度」につながります。「謙虚」といっても優柔不断で他者の言いなりになるというものではありません。
 老子のいう「謙虚さ」は、ぶれない軸を求めています。

 
(p250より引用) 謙虚とは、訴えるべき主義主張がないということではない。むしろ反対に、しっかりした主義主張があるから、相手を優先させる余裕が出てくるのである。また、だからこそ共鳴共感が生まれるのだ。

 
 「老子」において、すべての根源とされているのが「道」です。

 
(p44より引用) 道のあり様は、物事を保有、保持することにあるのではなく、物事を生み、為し、成長させ、成功、発展させることにある。

 
 「道」が「生み出す」ものであるならば、「徳」は「育て養う」もののようです。「徳」はプロセスです。

 
(p163より引用) 徳とはどのようなものなのか。
 生み出しても自分のものとせず、功を期待せず、大きく成長させても支配しようとしない、という姿勢のことをいう。・・・
 つまり、プロセスこそが価値であり、功なり名とげた後、大きく成長した後などというものに本質的な価値はない。
 創業者精神とは以上のことをいう・・・

 
 最後に、「老子」らしいフレーズを覚えとして記しておきます。

 
(p241より引用) 信言は美ならず、美言は信ならず。善者は辨せず、辨ずる者は善からず。知者は博からず。博き者は知らず。

 
 

タオ・マネジメント―老荘思想的経営論
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共生融和 (タオ・マネジメント―老荘思想的経営論(田口佳史))

2009-03-15 14:35:39 | 本と雑誌

 本書は、「プレジデント」という雑誌で特集された「経営者が薦める本」で紹介されていたので読んでみたものです。

 老荘思想に関しては、以前、金谷治氏の「老子」を読んだことがあります。

 本書は、老荘思想にもとづく企業経営の要諦を説いた珍しい著作です。
 「老子道徳経」81の章ごとに、書き下し文と一般的な解釈、それに加え、「経営」に敷衍させた解説が記されています。

 いくつもの老荘思想の基本コンセプトが紹介されていますが、まずは「不争」という考え方について。
 これは、「対立」ではなく「共生」を求めたものです。

 
(p12より引用) 対立の概念から共生融和の概念による企業経営に改めることこそが、企業自体の可能性を拡大し、企業社会を最良のあり方に近づけることにもなる。

 
 老子が説く「不争」の考え方を企業経営に当てはめると、それは「『オンリーワン企業』を目指せ」というメッセージになります。

 
(p103より引用) 企業においても同様で、競争することの不自然さを悟り、一刻も早く、この世で唯一の商品を持つオンリーワン企業となり、無競争市場を形成すべきである。・・・
 無競争は、心身の疲労を回避しているから、常にエネルギーが充満し、エネルギーの余裕を生み出す。
 それは、その企業に「柔軟性」という組織にとっての最高の要素を引き出すことになる。
 強壮が衰退の前兆ならば、柔軟は充実発展継続の前兆なのである。
 企業の、ゴールがないという宿命にとっては、この充実発展継続こそ最も重要にして不可欠なあり方である。

 
 争わないことにより無駄なエネルギーの浪費を抑え、その分、永続的な事業発展に向けた新たな取り組みを進めるべきとの考えです。
 著者は、このエネルギーの浪費について、競争のほかに精神的な側面からの原因も指摘しています。

 
(p173より引用) 人間が最も無駄に持てるエネルギーを使用してしまう状態とは何だろうか。
 それこそが「取り越し苦労」であるし、「邪推」といった憶測にもとづき、気をもんでエネルギーを浪費してしまうことである。

 
 確かに、未来の予測や他者の反応等、100%読みきれるものではないにも関わらずあれこれと思い悩むことはありますね。
 「案ずるより生むがやすし」。あれこれ考えるぐらいだったらともかく行動を起こしてみるというのが手っ取り早い対処法です。

 また、常日頃から、自分の考え方や発想の癖を明らかにしておく、話しかけられやすい雰囲気をつくる、といった努力も欠かせません。
 
 

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なぜ日本人は学ばなくなったのか (齋藤 孝)

2009-03-14 19:23:31 | 本と雑誌

 最近の著者が好んで使っている「あこがれにあこがれる」「心の不良債権」「私淑」「技化」といったフレーズを駆使して、現代日本の「教養崩壊状況」に警鐘を鳴らすことを試みた著作です。

 
(p204より引用) かつて三木清やその周辺を読んで自己形成した旧制高校の学生たちが、Jポップばかりを聞き、「ガンダム」やマンガを読んで世界観を形成している今の三十歳代を見たら、おそらく絶句することでしょう。
 それほど、今の日本は思想的なバックボーンを失っています。

 
 著者は、いろいろな側面から課題を抽出しては自説を展開していますが、その大きな部分は学校教育に関するものです。
 その中では、旧制高等学校の学生スタイルをひとつの理想モデルとし、それと比較した現在の大学生の学びに対する姿勢の変貌を語ったり、昨今のゆとり教育の問題点を昨今の小学校の現状から指摘したりしています。

 
(p72より引用) 努力することが苦にならない人、向上心を当たり前のように持つ人をつくるのは、まさに小学校の役割です。

 
 江戸時代から昭和初期にかけて、日本には、読書を中心とした「学び」の系譜が脈々と受け継がれていました。
 この点に関し、著者は、唐木順三氏の説として、夏目漱石や森鷗外に代表される「素読世代」と芥川龍之介から始まる「教養世代」に大別されるとの考え方を紹介しています。

 
(p122より引用) 武士は身体的な学びを非常に重視します。・・・頭でっかちではなく、身体そのものを通して学ぶことが当たり前という考え方です。それを踏まえているのが素読世代というわけです。
 それに対し、知識の量や幅の広さを誇るようになったのが教養世代です。両者の間には、学ぶことの身体性という点で、大きな溝があるといえるでしょう。素読時代を音読世代と言い換えれば、教養世代は黙読世代ということになります。

 
 また、著者は、日本の「学ぶ力」の低下の主原因のひとつとして、1960年代以降顕著になった「悪いとこ取りのアメリカ文化の導入」を挙げています。

 
(p101より引用) アメリカ的な「どこまでも行くぞ」というフロンティアスピリット、チャレンジを続ける強い気持ち、恐れのなさ、勇気、あるいは民主主義に対する強い意志などは、日本の若者文化には根づいていません。そのかわり、大人社会に反抗しつつ、結局大きな制度にはぶら下がるという生き方を選択した。つまり、日本的な「甘え」が消えない中での若者文化だったわけです。アメリカ文化の導入は、この点できわめて中途半端だったといえるでしょう。

 
 ロックンロールに代表される当時のアメリカ文化は、苦もなく得られる気持ちよさとい引き換えに、日本の若者から「学びの意欲」を消し去っていきました。

 最後に、著者は「あとがき」で、今の若者に対してこう訴えます。

 
(p219より引用) 自分は探すものではなく、学びにより形成するものだ。空気は読むものでなく、つくるものだ。

 
 

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「昭和」を点検する (半藤 一利・保阪 正康)

2009-03-10 22:51:58 | 本と雑誌

Pearl_harbor  たまたま図書館の書架で目に付いたので読んでみたものです。
 半藤氏と保阪氏という気心の知れたお二人の対談ですが、面白いのは、第二次大戦を中心とした昭和史について、「五つのキーワード」を設定して語り合うという趣向です。

 その「五つのキーワード」とは、

  • 世界の大勢―近代日本の呪文
  • この際だから―原則なき思考
  • ウチはウチ―国家的視野狭窄の悲喜劇
  • それはおまえの仕事だろう―セクショナリズムと無責任という宿痾
  • しかたなかった―状況への追随、既成事実への屈服

 それぞれのテーマごとに興味深い話が紹介されていますが、その中からいくつか書き記しておきます。

 まずは、「世界の大勢」の章から、使う人によりどうとでも意味づけられる「世界の大勢」という言葉に象徴される「受身の姿勢」について。

 
(p29より引用) 保阪 日本の外交を考えると、つねに外からの強烈な圧迫が加わってくるときに、急に動きだす。やはり受身なんですね。そういうかたちでしか日本人は動かないところが多々ある。その象徴的表現が「世界の大勢」だった。

 
 この「受身の姿勢」には、積極的に意図的行動をとる、状況に応じて先取りの手を打つといったビヘイビアは存在しません。

 
(p47より引用) 保阪 けっきょく、みずからあらゆる選択肢を削っていく態度が日中戦争の際に見られるんですね。この“癖”としかいいようのない態度は、のちの太平洋戦争のときにもみごとに出る。削りに削られた、ごく限られた選択肢だけを選んでそこに直進するというのが、これから後の日本の姿でしょう。

 
 もうひとつ「この際だから」の章で語られた「集団内共鳴現象」について。

 
(p73より引用) 保阪 私たちの国の政策決定集団は、狭い空間のなかで、おたがいに言葉を反応させあって、期待、願望、予想がすべて自分たちに都合のいい現実として認識され、言葉としてより強い方向に起案されていくという特徴をもっているように思われます。そのときに唱えられる呪文こそ「この際だから」なんじゃないかな。

 
 こういった閉鎖的な共鳴プロセスが、狭視野の自己中心的独断戦略を増長させていきました。

 さて、最後に紹介するのは、「しかたなかった」の章で紹介されている下級将校の方の言葉です。

 その方は、「蟻の兵隊」という映画にもなった「日本軍山西省残留問題」に関する「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」(昭和31年12月3日)で参考人として証言しました。

 
(p195より引用) 私は、過去の地位が高ければ高いほど、そのような人たちが、単に何げなく言ったようなことが、その人が偉ければ偉いほどに、それを有利に解釈したり、あるいは勝手な解釈をすることによって、多くの間違った行動が生まれることは当然だと思います。しかし、そのような場合に、だれに責任があるかという場合において、私はこの人が当然責任を負うべきだと思います。

 
 上官は無責任にも「しかたなかった」の一言で済ませるのでしょうが、彼らはまさに被害者でした。
 
 

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ポケットに名言を (寺山 修司)

2009-03-08 13:56:12 | 本と雑誌

Terayama  寺山修司(1935~83)氏は青森県出身、昭和30年代後半から40年代にかけて、サブカルチャーに文化的な力を与えた劇作家・演出家として活躍しました。

 本書の第1章で、寺山氏は「名言」についてこう切り出します。

 
(p8より引用) まさに、ブレヒトの「英雄論」をなぞれば「名言のない時代は不幸だが、名言を必要とする時代は、もっと不幸だ」からである。
 そして、今こそ
 そんな時代なのである。

 
 ちなみに、言い換えのもととなっているブレヒトの言葉はこうです。

 
(p91より引用) 英雄のいない時代は不幸だが、
 英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。
   ベルトルト・ブレヒト「ガリレオ・ガリレイの生涯」

 
 そして、さらにあとがきではこう言い放ちます。

 
(p174より引用) 「名言」などは、所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨ててゆく、といった態のものだということを知るべきだろう。

 
 さて、本書を読み通してみて、私の感性は、寺山氏の文学や演劇の世界とは遠く離れたものだと再認識しました。
 寺山氏が紹介してくれた名言のほとんどのものは、正直、私には響きませんでした・・・。(私の感性の未熟さは当然の原因ですが、理解しようとする近づき方自体が間違っていたのかもしれません。)

 とはいえ、そのなかで、何となく気になったフレーズを書き抜いてみます。

 
(p104より引用) ぽかんと花を眺めながら、人間もよいところがある、と思つた。花の美しさを見つけたのは人間だし、花を愛するのも人間だもの。
   太宰治「女生徒」

 
(p108より引用) あらゆるできごとは、もしそれが意味をもつとすれば、それは矛盾をふくんでいるからである。
   ヘンリー・ミラー「北回帰線」

 
(p131より引用) しばしばわれわれは、われわれのもっとも美しい行為をも恥ずかしく思うであろう、それを生み出したすべての動機をひとにみられたならば。
   ラ・ロシュフコォ伯爵「道徳的反省」

 
 この最後のラ・ロシュフコォ伯爵の言葉は厳しいですね。

 そして、

 
(p113より引用) わたしは、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、わたしは、命にかけて守る。
   ヴォルテール

 
 このヴォルテールの言葉はとても有名ですが、この言葉を寺山氏も名言として選んだということのほうが、むしろ私の関心を惹きました。

 本書の「名言」の章では、「人生」「孤独」「恋」・・・といったそれぞれのテーマごとに、寺山氏の「私のノート」という短いイントロ文が添えられています。

 そのなかの「忘却」の章での寺山氏のことばです。これも名言といえるでしょう。

 
(p115より引用) 私には、忘れてしまったものが一杯ある。だが、私はそれらを「捨てて来た」のでは決してない。忘れることもまた、愛することだという気がするのである。

 
 もうひとつ、「真実」の章の寺山氏は・・・、

 
(p121より引用) 美しくない真実は、ただの「事実」にすぎないだろう。

 
 最後に、私など思いもつかない台詞をひとつ。

 
(p59より引用) 三本のマッチ一つ一つ擦る夜のなか はじめのはきみの顔をいちどきに見るため つぎのはきみの目をみるため 最後のは君のくちびるをみるため 残りのくらやみは今のすべてを思い出すため きみを抱きしめながら
   ジャック・プレヴェール「夜のパリ」

 
 ジャック・プレヴェールは、シャンソン「枯葉」の詩の作者です。
 
 

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先頭ランナー (間違いだらけの経済政策(榊原英資))

2009-03-03 22:57:10 | 本と雑誌

 明治以来、日本は欧米諸国の後を追いかけ続けていました。初期はヨーロッパを、その後はアメリカを目標に、その国々での先行的な経験や知見をベストプラクティスとして取り込んでいったのです。

 著者は、本書で、「今や大衆消費社会という点では、日本が世界の先頭を走っている」という事実(転倒性)をはっきり認識することが重要だと主張しています。

 
(p40より引用) 今まで、そして現在も、日本人は日本で何か難しい問題が起こると、欧米を見回して、それにならって問題を解決しようとしてきました。しかし、この「転倒性」はその方法論自体を否定してしまうのです。先頭を走っている日本が後ろを振り返って欧米を見たところで、参考になるものはほとんどないというのです。

 
 さて、参考となるモデルがないとすると、解決策は自分で考え出すしかありません。
 その出発点は、やはり、「現場・現物・現実」になります。

 
(p205より引用) 時代の転換期、あるいは、環境が大きく変化するなかでは、いつも現場主義が有効です。日本経済全体にとっての現場、それは、ミクロの世界です。

 
 事象をマクロでつかむのではなく、個々の現実の事象に着目した解決策を打つという方法論です。
 具体的には、個別事象から問題点を抽出する。その問題点を「1段階論理化(抽象化)した課題」に止揚する。そして、その論理化された課題を、個別の問題点の解決の場に適用させて、全体整合性のある個別対策を実行するという段取りになるでしょう。

 
(p216より引用) 成長を重視するのか、格差是正を優先するのかというマクロの政策論争がまったく意味がないとは言いませんが、そろそろきめの細いミクロ政策を積み重ねて政府の政策の構造をしっかり示すべきでしょう。
 構造改革というと、規制の緩和を目指すべきだという一言で結論を出す人も少なくありませんが、問題はそう簡単ではありません。それぞれの分野で、規制の緩和をするのか強化をするのか、政府と民間の役割を明確にして、あたらしい日本経済の構造をはっきりさせるべきです。

 
 著者は、マクロ理論の適応の限界を認めた上で、ミクロ政策の充実を訴えています。

 本書の後半になると、食料やエネルギーといった資源政策等にも言及し、少々口が滑らかになり過ぎている感じもしないではありません。
 が、最近、マスコミ等でも話題になっている著者の最新刊ということで・・・。
 
 

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理論の役割 (間違いだらけの経済政策(榊原英資))

2009-03-01 15:57:53 | 本と雑誌

 著者は、元大蔵官僚のエコノミストです。
 本書において、著者は、現在の経済の構造変化に対応するためには、従来型のマクロ政策は役に立たず、それぞれの分野の需要と供給に直接影響を与えるミクロの政策が必要だと説きます。

 著者は、現在の日本の経済運営に関わっている人たちの「マクロ理論」信奉に問題があると指摘しています。

 
(p34より引用) 現実が大きく変化しているのに、あるいは、対象としている現実が理論の想定しているものと著しく異なっているのに、現在、確立している理論で現実を分析しようとする態度が、特に日本の政府当局者やエコノミストに強いようです。

 
 特に、ここ10数年間、「理論」は前提とした「現実」のもとでのみ機能するという「理論と現実との関係性」を逸脱した経済政策がとられてきたと言います。
 理論偏重の考え方です。

 
(p35より引用) 日本的現実と理論とがくい違うと、「日本的現実が遅れているのだから、まずこれを変えなくてはならない」という、本来の理論と現実のあり方からいったら、まさに逆立ちしたような議論がしばしばなされたのです。
 ・・・筆者も一つのきわめて有効な経済分析の枠組みとしてのマクロモデルを否定するつもりは毛頭ありません。
 しかし、構造が大きく変わっている場合には、その分析力には限界があり、かつ理論モデルの側から演繹的に現実を切ってはならないということには十分留意すべきだと言っているだけなのです。

 
 著者は、ひとつの指標で物価を判断することの問題点を繰り返し指摘しています。
 東アジアを中心とした経済統合によって構造的なコスト削減が可能となり、それが物価の安定状態(デフレ)をもたらしました。と同時に東アジア経済圏に対する日本からの輸出も活性化し景気拡大も進んだのです。
 景気拡大とデフレの同時進行という現実の姿は、従来からのマクロ理論では説明困難な状況です。
 さらに最近では、製品価格の下落(デフレ)と資源価格の上昇(インフレ)とが共存しています。

 
(p71より引用) インフレの時代だ、いや、まだデフレが続いているという議論をしていてもあまり生産的ではありません。問題は、価格の構造変化であり、一つに抽象された価格のレベルではないからです。
 つまり、一国・一財一価格を基本とするマクロ経済理論やマクロモデルが、経済統合・価格革命などの構造変化でその有効性を大きく減じてきたのです。

 
 元大蔵官僚であること、すなわち、ある意味では経済運営の失態の責めを負うべき立場にあることから、著者の発言の評価には触れ幅があるようです。
 ただ、本書についていえば、旧態然とした従来の経済政策の問題点を、初心者にも分かりやすく整理・解説しているように感じました。
 
 

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