OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

老舗の哲学 (千年、働いてきました‐老舗企業大国ニッポン(野村 進))

2007-08-26 18:47:21 | 本と雑誌

Jyozo  本書で紹介されている老舗の経営者の方は、どこか常人離れ?しているところがあります。
 常人離れという言い方は正しくないかもしれません。矮小化された小賢しい才覚ではなく、大局観をもった経営哲学をもっているのです。

 たとえば、醗酵技術による「日本型バイオテクノロジー」の先駆者勇心酒造の徳山さんの「水平思考」です。

(p90より引用) ・・・徳山さんは、醸造業界低迷の大きな原因を「垂直思考の弊害」と考えた。
「『お酒はおいしい』とか『お米をもっと食べましょう』といったPRの仕方自体、垂直思考に凝り固まっている証拠なんですね。お米の場合、清酒や味噌、醤油、酢、みりん、あるいは焼酎、甘酒といった非常に優れた醸造・醗酵・抽出の技術があるんですけれども、明治以降、新しい用途開発がまったくと言っていいほどなされていなかった。・・・近代科学が行き詰っているいまだからこそ、米作りのような農業と醸造・醗酵の技術とをもう一度リンクさせて、付加価値の高いものを作ろうと、お米の研究に取りかかったわけです」
 これを徳山さんは、「垂直思考」から「水平思考」への切り換えと宣言した。

 また、徳山さんの「西洋と東洋の方法論の違い」についても、一家言お持ちです。

(p98より引用) 「西洋のヒューマニズムを『人道主義』と訳してきたのは、とんでもない誤訳やと思うんです。ある学者が言うてましたが、あれは『人間中心主義』と訳すべきなんです。つまり、何事も人間を中心に『生きてゆく』という発想。・・・一方、東洋には自然に『生かされている』という発想があります。・・・方法論でも、西洋が『単一思考』『細分化』であるのに対して、東洋は『相対合一論』『総合化』や、と。『相対合一論』というのは、相反することを合一しながら真実ひとつを目指してゆくということことです。・・・」

 セラリカNODAの野田さんは、面白い切り口から論を進めます。

(p112より引用) 「脊椎動物の最終形態が人間なら、無脊椎動物の最終形態は昆虫なんです」

という話から始まり、

(p112より引用) 「人間は地球の王様みたいになりましたが、昆虫のほうはおよそ百八十万種もの多様な生物種として存在している。それなのに、人間が“益虫”とみなして利用してきたのは、ミツバチとカイコくらいで、あとのほとんどは“害虫”と邪魔者扱いしてきました。・・・こういった人間からの価値付けだけで、邪魔者を排除する発想が、開発のために自然を破壊する行為にもつながっているんですね」

と、「人間中心の価値付け」が環境問題の根源にあることを指摘します。
 さらに、邪魔者を排除する「殺す発想」から「生かす発想」への転換を求めるのです。

(p113より引用) 最近の日本人は、農薬のかかっていない有機農産物をもてはやす一方で、夜中にゴキブリが一匹でも出てくると、大騒ぎをして殺虫剤で殺そうとする。農薬イコール殺虫剤なのだから、こんな矛盾した話はないと野田さんは苦笑したが、すぐ真顔になった。
こういう感性を不思議に思わないところに、現代を生きるわれわれの問題の根底があると思います。・・・いままでの『殺す発想』から『生かす発想』に転換する必要があると思うんですね」

 今に生き続け、独自の地位を築いている老舗企業は、やはりどこかひとつ「心棒」が通っています。

 そういう軸がしっかりしていると、いつか世の中がついてくることもあるのです。

 銅の精錬から現在では廃物処理という環境事業に携わっているDOWAの渡辺さんの「何が幸い」という話です。

(p78より引用) 「いや、まったく何が幸いするかわからないですよねえ。ここ、高度経済成長の時代には、全然マッチしていなかった工場なんですよ。・・・それが二十一世紀になったら、産業社会のほうが切り換わって、リサイクル社会ということになった。そうしたら、時代に全然マッチしていなかった工場が、一番役立つ工場になったということなんです。世の中での存在理由が出てきたんです。・・・」

千年、働いてきました―老舗企業大国ニッポン (角川oneテーマ21) 千年、働いてきました―老舗企業大国ニッポン (角川oneテーマ21)
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発売日:2006-11


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老舗の真髄 (千年、働いてきました‐老舗企業大国ニッポン(野村 進))

2007-08-25 14:59:45 | 本と雑誌

So903itv  この本、大分以前、ふっとちょパパさんが紹介されていました。

 日本のものづくりの老舗19社を取り上げ、その会社の今に続く「秘訣」を軽い筆致で紹介していきます。

 登場する企業は、社名を聞いても(私は)ほとんど知らない会社ばかりでしたが、その老舗の技術が活躍するシーンは、まさに先端技術が集約された製品の心臓部であったり、代替不可のクリティカルなパーツであったりします。

 そういう意外性も本書の楽しみですが、やはり、秀逸なのは、紹介されている老舗企業の経営ポリシーの数々でしょう。

 たとえば、現在では、携帯電話の配線基板などに使う電解銅箔を製造している福田金属箔粉工業の福田さんいう「身の程」経営です。

(p50より引用) 「身の程をわきまえる、というのが、ずうっと貫かれているのとちがうかな。・・・バブルのときなんか、それはもう土地を買えとかなんやかんや言われたんですけど、身の程をわきまえたら、自分たちのやる仕事は、そういうものじゃない、と。『コア・ミッション』から離れてはいけない、というのはわかっていました・・・金属の箔とが粉末を、いかに加工して、いかに人のためになるか。そういうコア・ミッションから離れないことが、自分の身の程をわきまえるということやなと思いますね。

 この考え方は、何のことはないまさに「コア・コンピタンス経営」そのものです。
 昨今、「コア・コンピタンス」などと声高に唱えられるずっと前から、今に続く老舗は、「身の程」という言葉で実践してきたのです。

 こういう老舗経営のDNAは、しばしば「家訓」という形で引き継がれています。

 「ライスパワーエキス」を開発した勇心酒造では、

(p95より引用) 「不義にして富まず」

 「木ロウ」のセラリカ野田では、

(p110より引用) 「私欲起こせば家を破滅する」

 「金象印シャベル」の浅香工業では、

(p159より引用) 「良品は、声なくして人を呼ぶ」

 「ふとん」の西川産業では、

(p213より引用) 「諸相場或ハ是ニ類似之所業堅ク禁止之事」

と様々ですが、すべて、今にも生きる的確な至言です。

 また、「家訓」ではありませんが、金沢の金箔業カタニ産業の蚊谷さん(社長)の大事にしている言葉も紹介されています。

(p143より引用) 蚊谷さんの座右の銘は、
「伝統は革新の連続」
というものだ。

 この言葉は、いまに残っている老舗企業にはすべからく当てはまる「老舗の真髄」のような気がします。

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カウンセリングとは何か (平木 典子)

2007-08-20 20:42:14 | 本と雑誌

 以前から職場のメンタルヘルスについて気になっているので、このBlogでもメンタルヘルス関係の本をいくつか紹介しています。

 それらの本には、等しく「コミュニケーション」の重要性が書かれています。もちろん、その中心は、「日頃の職場でのコミュニケーション」です。

 他方、専門的なケアとしてEAP(Employee Assistance Program)も活用されはじめたようです。
 専門スタッフによるカウンセリングが主なメニューですが、そのあたりに対する関心から読んでみたのがこの本です。

 カウンセリングの実践現場の様子が、プロセスを追って解説されています。

 まずは、そもそもの「カウンセリングの目的」です。

(p40より引用) カウンセリングとは、単に課題を解決して、よい成果を得ることだけではなく、むしろクライエントが解決のプロセスを体験し、それによって自律や成長が促されることを言う。

 カウンセリングの現場では、この「カウンセリングとは」について、相談者(クライエント)の誤解や思い込みが少なからず見られるようです。

 カウンセリングは、クライエントの悩みをカウンセラーが解決するのではないということです。
 あくまでも、カウンセラーは、クライエント自身による解決の援助をするのです。

 「援助」がカウンセラーの役割だとすると、その「立ち位置」がカウンセリングの成否の肝になります。非常に微妙な位置取りです。

(p46より引用) 共感するとは、相手と全く同じになってしまうことでもなければ、自分の感じや考えを相手に混入させることでもなく、違った立場の人間が相手の立場に立って感じ、考えてみようとすることである。それは非常に難しいことである。

 私にとって「カウンセリング」という営みは、今まではほとんど関わりない分野でしたが、本書を通して興味深く思った点を以下にご紹介します。

 まずは、「カウンセラーの職業倫理」について。
 これは、さもあらんという内容です。

(p57より引用) カウンセラーの職業倫理には、「自分の能力の限界を知って仕事をする」ことが決められている。

 自分の能力を知り、それを越えている場合は他の専門家にリファー(引継ぎ)をするのです。
 クライエント第一を貫く「専門家」としての重要な機能であり、正しいプロフェッショナリズムです。

 もうひとつは、「カウンセラーの優しさの源泉」についてのフレーズです。

(p73より引用) カウンセラーは、自分が知らないこと、わからないことが何かを知っていて、決してそれを無視したり、軽視したりせず、わからないこととして大切に抱えていて、いつかは理解しようとしている・・・カウンセラーは・・・、知らないことに対して真摯で、好奇心に満ち、粘り強く向かっていく。それゆえに、カウンセラーは、優しく、謙虚になれるのかもしれない。

 この姿勢には普遍性があります。
 目指したい姿勢です。

 なお、本書の巻末に「統合の原理としてのシステム理論」という章があります。

 この章で著者は、一般的な「システム理論」の観点から、心理療法に関する諸説の整理・統合をロジカルに考察しており、その検討内容を分かりやすく解説しています。
 私にとっては、カウンセリングの世界でも「システム理論」(ここでいう「システム」は関係性を中心とした広義な概念です)が登場するのかというちょっとした驚きがありました。

カウンセリングとは何か (朝日選書) カウンセリングとは何か (朝日選書)
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:1997-10


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ここだけは行ってみたい 秘境を巡る景色 (世界名景紀行)

2007-08-19 20:25:47 | 本と雑誌

Angel_fall  以前に、「地球の果てへ-世界秘境」という写真集を眺めたのですが、その流れで手に取った本です。

 ギアナ高地のエンゼルフォールトルコのカッパドキアといった有名どころに加えて、モーリタニアの巨大クレーターオーストラリアのピンクレイクといった珍しい風景も紹介されています。

 色彩の美しさという点では、これ以上の透明感は想像できないような南国の空と海のブルーに勝るものはありません。
 また、迫力という点では、何億年もの時間を経た地殻の移動や気象の変動が産み出した山や岩の奇景が群を抜いています。

 こういう写真をみていると、一度だけでもかの地に行ってその風景の中に立ってみたいという気持ちになります。

 もちろん、日本国内にも美しい風景は数え切れないほどあるでしょう。

Rishiri  物理的なスケールという点では、海外の風景に一歩も二歩も譲ることにはなりますが、感動という点では同等です。

 定番ではありますが、フェリーからみる利尻富士の全景や富良野の牧歌的風景、阿蘇から九重へ向かう丘陵、西表島の海などは、本書で紹介されている世界の名景に比しても、決して見劣りするものではありません。

 さて、本書に戻って、ちょっと重箱の隅の一言。

 この本のコンセプトですが、純粋な写真集というよりも珍しい風景の紹介というガイドブック的な色合いもあるので致し方ないとは思いますが、できればもう少し大判の体裁にして、1枚の写真が見開きをまたがないように配慮してくれていたら良かったですね。
 折角の迫力ある写真が、綴じ代のために見づらくなっているのが残念です。

ここだけは行ってみたい 秘境を巡る景色 (世界名景紀行) ここだけは行ってみたい 秘境を巡る景色 (世界名景紀行)
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2005-04


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立ち位置としての「補助線」 (フューチャリスト宣言(梅田望夫/茂木健一郎))

2007-08-18 20:55:36 | 本と雑誌

 いつも気にはなっていたのですが、茂木氏の考え方を「活字」で辿ったのはこの本が初めてでした。
 私にとっては、いろいろと刺激的な考え方を知るいい機会になりました。

 たとえば、テクノロジーを擬人化する言い方についての茂木氏のコメントから、「ディタッチメント」という考え方についてです。

(p40より引用) それは、イギリス人のある種のディタッチメント(detachment)、つまり、自分自身の立場を離れて公平客観的にものを見つめるという姿勢につながっている気がします。・・・全体としてどういう潮流が生じているのかを冷静に考えるセンスがある。その判断を、個人個人のストラテジーに関連づけながら、制度設計までも含めてかたちづくることが、イギリスの人たちはものすごくうまい。

 現実を踏まえたプラクティカルなセンスとヴィジョンベース・コンセプトベースの思考とが、うまくバランスし融合された考え方のようです。

(p41より引用) 形而上学的にすぎる「あるべき論」を立てるのではなく、人間というのはこうふるまうものだと理解した上で、人間社会はおそらくこういう方向に向かうだろう、というある種のビジョンや見通しを立てる。そこから、制度設計やルールを考える。

 もうひとつ、茂木氏のコメントで興味深かったのが「補助線」についてのコメントです。

(p136より引用) 僕は、昔からものを考えるときに、「補助線を引く」ということを大事にしています。・・・最近は「自らが補助線になる」ということをいつも考えているんです。自らが身を挺して補助線になり、それによって、周りの人々にこれまで見えづらかった世の中のありようが見えるようになる。そんな活動をしたいなと思うようになったんですよ。

 中学や高校の図形の問題で、「一本の補助線」によっていきなり思考が拓かれた経験は誰しも持っていると思います。

 周りの人々に、そういう爽快な気持ちを与えつつ新たな視界を拓く手助けをするのが「自らが補助線になる」という姿勢であるならば、私にとっても、目指すべき「目標」のひとつにしたいと思います。

 最後に、本書における両氏のコメントの中で象徴的だと感じたものをそれぞれワンフレーズずつご紹介します。

 「はじめに」での茂木健一郎氏のコメントです。

(p15より引用) 未来は予想するものではなく、創り出すものである。そして、未来に明るさを託すということは、すなわち、私たち人間自身を信頼するということである。
 私たちが人間を信頼すればするほど、未来は明るいものになっていく。

 そして、「おわりに」での梅田望夫氏のコメントです。

(p207より引用) 同時代の常識を鵜呑みにせず、冷徹で客観的な「未来を見据える目」を持って未来像を描き、その未来像を信じて果敢に行動することが、未来から無視されないためには必要不可欠なのである。

フューチャリスト宣言 (ちくま新書 656) フューチャリスト宣言 (ちくま新書 656)
価格:¥ 735(税込)
発売日:2007-05-08


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ネットの生活 (フューチャリスト宣言(梅田望夫/茂木健一郎))

2007-08-17 20:51:12 | 本と雑誌

 ちょっと前の調査では、日本語で書かれたBlogが世界で最も多いとのことです。
 特徴としては、短文の日々の日記的なものが多いらしいのです(このBlogもその類です)が、ともかく一人ひとりが外に向かってメッセージを発信し始めていることは確かです。

 このあたりの状況についての両氏のやりとりです。

(p84より引用)
茂木 ただ、そこに読み手と送り手の間の感覚のズレがあるのではないでしょうか。書く側はいろいろな想いを託して書くわけでしょう。それこそ自分の全存在のウェイトをかけて、ところが読む側、コミュニティ側は単なる一つのエントリーとして消費してしまう。なのに、それが自己実現だと思っている人がいると思うんですよ。
梅田 僕の感じは少し違って、仮に消費されるにしても誰かの心に残る。結果として何が起きるかというと、ある種の社会貢献、社会への関与ですよね。自分の考えをおもてに表現する。

 このやりとり、私なりに考えるに、茂木氏の指摘するほどBlogを書き手が真剣になっているかというと、その割合は決して多くはないように思います。
 自己満足的な独り言であったり、仲間内での交換日記的なノリのものが多数派ではないでしょうか。このBlogも典型的な自己満足型です。

 とすると、梅田氏が指摘するほどの社会貢献や社会関与も、実態としてはその程度は乏しいものでしょう。
 ただ、現在のネット環境の中に多数のメッセージが生起しているという状況は、チャレンジングな人にとっては無限のポテンシャルを秘めているとははっきり言えます。

 もう1点、ネットとリアル、2つの世界での生活についてです。

 梅田氏は、自身の生活はネット内が主だといいます。
 2面生活についての梅田氏のコメントです。

(p105-106より引用) ネットの上で何かを中途半端に有料にして生計を立てようというのは、うまくいきません。・・・ネットは絶対に有料にしちゃいけないんです。無料にしてそれで広告が入るかといったら、先進国でまともな生活ができるほどは普通は入らない。一方、リアルというのは不自由だからこそ、お金を使って自由を求めます。・・・この二つの世界での生計の立て方とか、それから知的満足のしかたとか、いろいろ組み合わせて戦略的に考えていく必要があります。

 このコメントは、ネット人間である梅田氏から発せられているだけに、かえって大いに示唆的です。

 茂木氏もまた、ネットでの生活の拡大・充実を支持し実践しています。

 日本からウィキペディアが生まれず、またオープンソースが馴染んでいない理由について語っている中で、茂木氏は、インターネットの特質をこう総括しています。

(p28より引用) 僕もまさに公共性と利他性こそが、インターネットの特質でなければならないと思います。

フューチャリスト宣言 (ちくま新書 656) フューチャリスト宣言 (ちくま新書 656)
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ネットの思想 (フューチャリスト宣言(梅田望夫/茂木健一郎))

2007-08-16 21:11:33 | 本と雑誌

 当代流行のオピニオンリーダである二人、梅田望夫・茂木健一郎両氏の対談を中心にした構成です。

 梅田氏の本は、「ウェブ進化論」「ウェブ人間論」に続いて3冊目です。
 その点、梅田氏からの情報としては、これはという目新しいものはありませんでした。

 強いて挙げるとすると「広告に関するグーグルの思想」でしょうか。

(p23より引用) グーグルという会社はいろんな意味で思想を先につくります。・・・そういう思想の一つに、必要とされるところにのみ情報を置くんだというのがある。広告とは情報である、という思想なんです。検索した後に出てくる広告というのは、検索したい言葉が既に入力された以上、その人にとって価値がある情報のはずだ、だからそこに出しているんだ、そういう論理です。その思想に合わないところの場所には、一切広告は出さない。

 この論理から、グーグルの検索のトップページはあれほどシンプルなわけです。
 あのトップページのページビューを考えるとものすごい広告価値があるはずですが、グーグルは自身の思想を優先しているのです。

 技術に加え、明確かつ強力なビジョン・コンセプトを礎にしている企業です。

 現在、日本でもグーグル的(あるいは非グーグル的)なWeb2.0企業を謳って多くの会社が立ち上がり始めました。
 これらのチャレンジの気風に対する社会環境のサポート体制について、梅田氏はこう評しています。

(p52より引用) バックアップ体制と言ったときに、官僚的なロジックでお金をいくらいくら出して、というのは全然だめで、本当に必要なバックアップ体制って、社会における精神なんですよね。欠点を含む小さな芽に対して「良き大人の態度」が取れるかということ。ここがいちばんのボトルネックです。日本は新しいことをやった人を賞賛しないですね。これが根本的にまずい。

 ただ、これは別にネットの世界だけの話でもなく、今に始まったことでもありません。
 恥ずべき態度です。

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環境問題はなぜウソがまかり通るのか (武田 邦彦)

2007-08-15 23:58:50 | 本と雑誌

Sansei_u_2  少々過激なタイトルの本です。

 ちょっと話題になっているということだったので、手にとってみました。
 (いつも読書の参考にさせていただいている「ふとっちょパパ」さんも読まれたようです)

 著者の武田氏の主張は、環境問題を取り巻く情報の誤謬を指摘するところに始まり、誤報に至る動機や背景、さらにはその根本原因としての現代人論にも及びます。

 動機や背景についての主張内容については、さもあらんと感じるところもありますが、反論も出るところだと思います。

 事実としての「情報の誤謬」については、たとえば「ペットボトルのリ サイクル」を材料に、武田氏は以下のように結論づけています。

(p50より引用) 環境という名の下に日本人全体が非効率なやり方を正しいリサイクルだと思い込んでいることになる。
 つまり、産業廃棄物も家庭から出る廃棄物もごみはごみ、分別しても資源にはならない。諦めて焼却するのがむしろ合理的、効率的な方法なのである。

 武田氏は、安易なリサイクル推進運動に疑問を投げかけています。
 氏の検証によると、「ペットボトルを100%リサイクルできたとしても、日本に1年間で2.5億トン輸入される石油のうち1000分の1相当の消費量が減るだけ」なのだそうです。

 これらの数字の当否はともかくとしても、本書で展開される論考の基本的なスキームには首肯できるところがあります。

 それは、「木を見て森を見ず」的な論を排斥し、前後のプロセスも含めた俯瞰的視点を示している点です。

 ペットボトルのリサイクルの目的は、「ごみの増加抑制」もあれば「石油資源の節約」もあるでしょう。
 武田氏の主張は、「リサイクルしようとペットボトルの使用量の増加の方が圧倒的に大きい」「石油資源の節約の効果は極小、むしろ石油化学工業の効率化等の方が根本的な対策のはず」というのです。
 すなわち、ペットボトルのリサイクルは、それにかかるすべてのコストを考えると、そもそもの「環境保護」という目的とは逆行するものだとの主張です。

 その他「水素自動車」の議論も面白いものがありました。

 「水素」自体はクリーンなエネルギー源であることは間違いありません。

 しかしながら、地球上のどこに「水素」があるのでしょう。
 地球には大海がある、水は無尽蔵に近い資源だ、水は「水素と酸素の化合物」なので、水を原料にすると「水素」はいくらでも得られる・・・といった説明がまことしやかにされていますが、これに対して武田氏は以下のように指摘します。

 水を分解して「水素」を作り出す方法は何か?
 電気分解するにもエネルギーが必要だ、そのエネルギーはどうやって得るのか?
 結局は今問題になっている貴重な資源を使うことになるだろう・・・

 「森林保護」についても、こんな感じです。

 森林は、二酸化炭素を吸収してくれるので地球温暖化防止に貢献していると言われるが本当か?
 木もいつかは枯れる、枯れて腐ると二酸化炭素が発生するのだ。

 武田氏が本書で提示した「環境問題の誤謬」の実体すべてが正しいかどうかは、私の知識では分かりません。
 この本だけで判断するのはそれこそ俯瞰的な見方を否定することになります。
 本書に対する反論の書があれば、そちらも読んで考えたいと思います。

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軍艦島-眠りのなかの覚醒 (雑賀 雄二)

2007-08-14 19:36:15 | 本と雑誌

Gunkan_jima  「軍艦島」。
 長崎半島の南西海上に浮かぶ端島の別名です。

 端島では1810年(文化7年)石炭が発見され、明治に入り海底炭坑の開発が本格化しました。
 1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋高層アパートが建築されたのをはじめ、50年代には周囲1kmほどの島に炭鉱関係者や家族ら5000人以上が暮らし活況を呈しました。
 狭い島内に続々と高層アパートが立ち並び、島の外観が戦艦「土佐」に似ているということで軍艦島とも呼ばれるようになりました。

 その軍艦島は1974年(昭和49年)に閉山、無人島となったのです。

 本書は、軍艦島が無人島となって10年後、再び島を訪れた著者がその廃墟の風景を撮り集めた写真集です。

 本書本編の写真集も淡々と原風景を切り取った感じで面白いものですが、巻末の雑賀氏によるエッセイも(予想外といっては失礼ですが)しっかりしたものでした。

 閉山し人々が島を離れる3ヶ月あまりの期間、頻繁に島を訪れその折の人々の姿を書き残していきます。

 そういった3月のある日、泊めてもらった家のご主人のことばです。

(p119より引用) 「端島に来る報道関係者は色眼鏡で島を見ている。第三者が見れば炭坑労働者は悲惨な生活をしている、仕事が辛いだろうというふうに見えるかも知れないが、決してそうではない。・・・炭坑は端で見るよりもずっと暮らしやすいところだ。
 今までゆき過ぎた報道が多過ぎる。上野英信にしても、土門拳にしてもそうだ。悲惨な面ばかり追いかけて、また創り出している。本当の炭鉱の姿を見てほしい。・・・」

 雑賀氏は閉山して10年後の1984年7月、再び島を訪れます。

 本書の「追記」の中で雑賀氏は、「この写真集は無人島となって10年後から、感傷とは無縁の新たな眼で撮り始めたものである」と語ります。

(p133より引用) 写真を撮ることは見ることだ。見ることは考えることだ。・・・写真は個人の目の記録である。・・・
 情緒に溺れた眼から、現実はますます遠ざかる。押し寄せる感情を押しとどめ、まっさらな心で目の前のものに向かい合うことだ。そのとき人は新たな視線を手に入れ、既成の概念(思い込み)を過去へ葬る。見慣れた姿や既知の意味を追認するのではなく。・・・今のぼくにできるのは、知っていると思わないこと。知識と経験は時として見ることの邪魔をする。

 とはいえ、閉山当時の時間をまさに共にしたという雑賀氏ならではの想いは、新たな視線とは別に残っているような気がします。

 それは決して邪魔なものではありません。

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発売日:2003-03


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伝える力 (池上 彰)

2007-08-13 19:47:02 | 本と雑誌

 著者の池上彰氏は、元NHKの記者・キャスターの方です。
 まさに本書のテーマの「伝える」という点ではプロフェッショナルです。

 本書は、「伝えるプロ」である池上氏が、コミュニケーションの基本である3つ(「話す」「書く」「聞く」)の能力について、その向上のための秘訣を開陳したものです。

 説明そのものは、著者自身の経験に基づく多くの実例を示しながら、平易な言葉でわかりやすく進められます。

 たとえば、「この言葉・表現は使わない」という章では、ものを書いたり話したりするときのちょっとしたアドバイスをいくつか紹介しています。

 こんな感じです。

(p179より引用) 「いずれにしても」「いずれにしましても」は、絶対に使ってはいけません。
 「いずれにしても」は、その直前まで書いていたことの論理に関係なく話を無理にまとめる行為です。場合によっては、それまでの論理の流れを否定しかねません。

 著者は、本書のターゲット層を40歳代以前のビジネスピープルと言っています。
 ですが、仮に30歳代の社会人がこの本を読んで、初めて「なるほど、そうか」と感じるようでは、正直なところ情けないものがあります。

 書かれているアドバイスはどれももっともで、その内容を否定するものではありません。が、全く新たな切り口からの気づきは、残念ながら本書からは見つけられませんでした。

伝える力 伝える力
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発売日:2007-04-19


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クルマの渋滞 アリの行列 -渋滞学が教える「混雑」の真相- (西成 活裕)

2007-08-12 21:01:23 | 本と雑誌

Ant  いつも読書の参考にさせていただいている「ふとっちょパパさん」が、以前、「渋滞学」という本を紹介されていました。
 そのときから読んでみようと思っていたのですが、今回、同じ著者の西成氏が同じテーマでさらに素人向けの本を出したので、そちらを手にとってみました。

 著者の西成氏の専門は、「非線形動力学の数理と応用」という物理学の分野らしいのですが、本書において、「渋滞学」という新たな学問ジャンル?にチャレンジしています。

 西成氏が対象とする「渋滞」は「クルマの渋滞」に止まりません。
 「スーパーのレジや銀行のATMの待ち行列」「朝の満員電車」といった人がらみのものから「アリの行列」や「サカナやトリの群」といった動物の行動等にも及んでいます。

 さて、西成氏によると、「渋滞」の研究は、従来の物理学の流れとは異なる新たな視点を提起するものだと意味づけられます。

 その考察の出発点は「自己駆動粒子」という概念です。

(p13より引用) 渋滞を起こす主人公は、すべて一種の「粒子」と考えることができる。ただしその粒子は、さまざまな個性や大きさを持っていて、いろいろな決まりに従って、ときには勝手に動いている。・・・
 渋滞学では、このような新しい粒子のことを「自己駆動粒子」と呼んでいる。

 ニュートン以来300年の伝統をもつ物理学では、自分の意志では動かないものばかりを扱ってきました。それとの対比で、渋滞学が扱う「自己駆動」という概念は、新たな視点からの研究だということになるのです。

 西成氏は、「自己駆動粒子」による「渋滞」のメカニズムを、「セルオートマトン法」を用いた単純なモデルで示し、解明して行きます。

 本書で採り上げられた「自己駆動」という概念は、中央からのトップダウン型集中制御とは相容れない概念です。

 西成氏は、この「自己駆動」が引き起こす集団の特性として「創発」というキーワードを紹介しています。

(p165より引用) 社会心理学の定義では、
創発とは、部分が集まってできた全体が、単なる部分の総和とは質的に異なる、高度なシステムになる現象のこと
となっている

 この「創発」という概念は、個々の粒子の自立的活動を基本としているという点で、非常に興味深いものがあります。

(p173より引用) 信号機を自己駆動粒子として考え、そのサイクルを最適化するボトムアップ方式はたいへん魅力ある研究だ。
 そしてこれが渋滞学で提案している、トップダウンからボトムアップへの移行、つまり「創発的アプローチによる渋滞解消」なのだ。

 「自己駆動粒子」の動きが全体を動的に最適化するという仕掛けは、交通渋滞の緩和に止まらず、集団の自律的な行動の様々なシーンに応用・展開できる楽しみなスキームだと思います。

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小林秀雄の「批評」 (人生の鍛錬-小林秀雄の言葉(新潮社編))

2007-08-11 17:07:28 | 本と雑誌

 小林秀雄氏は、日本の近代批評の創始者とも言われます。

 47歳の作「文化について」において、小林氏自らが語った「批評精神」についての言葉です。

(p132より引用) 与えられた対象を、批評精神は、先ず破壊する事から始める。よろしい、対象は消えた。しかし自分は何かの立場に立って対象を破壊したに過ぎなかったのではあるまいか、と批評して見給え。今度はその立場を破壊したくなるだろう。立場が消える。かようにして批評精神の赴くところ、消えないものはないと悟るだろう。最後には、諸君の最後の拠りどころ、諸君自身さえ、諸君の強い批評精神は消して了うでしょう。そういうところまで来て、批評の危険を経験するのです。自分にとって危険であると悟るのです。・・・しかし大多数の人が中途半端のところで安心している様に思われてなりません。批評は他人には危険かも知れないが、自分自身には少しも危険ではない、そういう批評を安心してやっている。だから批評の為の批評しか出来上らぬ。

 「批評」に対峙し自らを律する小林氏自身の厳しい覚悟が伝わってくる言葉です。

 小林氏の批評の対象は文芸に限ったものではありませんでした。
 音楽や美術等、幅広いジャンルに及びました。

 そういう遍歴を経て、まさに小林氏の「批評」についての神髄を表した言葉です。
 62歳の作「批評」から。

(p211より引用) 自分の仕事の具体例を顧ると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。

 さて、最後にご紹介するのは、小林氏56歳の作「国語という大河」から「悪文」についてのフレーズです。

(p179より引用) あるとき、娘が国語の試験問題を見せて、何だかちっともわからない文章だという。読んでみると、なるほど悪文である。こんなもの、意味がどうもこうもあるもんか、わかりませんと書いておけばいいのだ、と答えたら、娘は笑い出した。だって、この問題は、お父さんの本からとったんだって先生がおっしゃった、といった。

 まさに私も、高校・大学のころは小林氏の文章にはホトホト参った口です。
 とはいえ、そのころから30年ほど経って、また再び小林氏の文章に触れようとしているわけですから、ちょっと不思議です。どうやら、小林氏の文章は、私にとってはトラウマのように、何とか組みついていきたいという気持ちを抱かせる対象のようです。(そういう読み方は邪道だとは思いますが・・・)

 ちょうど手元に、学生時代に買った小林氏の文庫本「考えるヒント」があります。
 おおよそ30年ぶりに読みなおしてみることにしましょう。

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「らしい」言葉、「らしくない」言葉 (人生の鍛錬-小林秀雄の言葉(新潮社編))

2007-08-10 22:31:34 | 本と雑誌

 この本には、小林秀雄氏の数々の著作から厳選された416のフレーズがその発表順に紹介されています。

 その中には、いかにも小林氏「らしい」言葉もあれば、「らしくない」と感じられる言葉もあります。
(「らしい」「らしくない」といっても、そこには、私が勝手に抱いている「小林秀雄像」があるのですが・・・)

 その両者を織り交ぜて、印象に残ったフレーズを私自身の覚えとしつつご紹介します。

 まずは、小林氏29歳の作「文芸月評Ⅰ」から「柔軟な心」について。

(p27より引用) どうか、柔軟な心という言葉を誤解しない様に。これは、確固たる意志と決して抵触するものじゃない。

 柔軟な心をもつこと、柔軟な心でいることは、「意志」によるものだということです。
 いうまでもないことですが、柔軟な心は「優柔不断」とは全く異質のものです。
 このあたりの感覚はいかにも小林氏らしい感じがします。

 次は、日中戦争が勃発し日本が再び三度、戦争への道を進み始めたころ、35歳の作「戦争について」から「歴史の教訓」についての言葉です。

(p62より引用) 歴史は将来を大まかに予知する事を教える。だがそれと同時に、明確な予見というものがいかに危険なものであるかも教える。・・・歴史の最大の教訓は、将来に関する予見を盲信せず、現在だけに精力的な愛着を持った人だけがまさしく歴史を創って来たという事を学ぶ処にあるのだ。

 戦争という大きな社会の転換点において、「過去」や「将来」よりも「今」を尊ぶ姿勢です。

 さて、小林氏は、文芸であろうと美術であろうと音楽であろうと、その対象に向かう姿勢は同く自然でした。

 このあたり、48歳の作「偶像崇拝」から。

(p153より引用) 絵を見るとは一種の練習である。・・・絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。

 対象を総体として一途に「見る」のです。
 音楽なら努めて「耳を澄ます」のです。

 最後に、2フレーズ。

 49歳の作「政治と文学」から「弱点に乗じた思想」について。

(p159より引用) 空虚な精神が饒舌であり、勇気を欠くものが喧嘩を好むが如く、自足する喜びを蔵しない思想は、相手の弱点や欠点に乗じて生きようとする。

 そして、46歳の作「『罪と罰』についてⅡ」から「真実と絶望」について。

(p127より引用) 口に出せば嘘としかならない様な真実があるかも知れぬ、滑稽となって現れる他はない様な深い絶望もあるかも知れぬ。

 小林氏にしては珍しい激しい心中の吐露の言葉のです。

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小林秀雄の「考えること」 (人生の鍛錬‐小林秀雄の言葉(新潮社編))

2007-08-09 00:04:11 | 本と雑誌

 小林秀雄氏のベストセラーに「考えるヒント」という著作があります。
 小林氏は、その他多くの著作において「考える」ということに正面から取り組みました。

 本書で紹介されているその営みの一端です。

 まずは、38歳の作「文芸月評XIX」から「現代人の考え方」についての言葉です。

(p90より引用) 現代人は例えばAばかりを考えあぐねた末に反対のBを得るという風な努力をしない。そういう迂路と言えば迂路を辿る精神の努力だけが本当に考えるという仕事なのだが、そういう能力を次第に失い、始めからAとBと両方を考える、従ってもはや考えない。

 現代人(といってもちょうど第二次世界大戦期ですが)の「考える」態度に対する不満と、その裏返しともいうべき、自らの愚直とも見える真摯な姿勢の表明です。

 次は、20年を経た小林氏57歳の作「良心」の中で、同じく「考える」について触れているフレーズです。

(p191より引用) 考えるとは、合理的に考える事だ。・・・現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が到る処に見える。・・・考えれば考えるほどわからなくなるというのも、物を合理的に究めようとする人には、極めて正常な事である。だが、これは、能率的に考えている人には異常な事だろう。

 ここでも、考えるということに対する敬虔な姿勢が表れているようです。
 小林氏は、「考える」という行為に「手抜き」を認めません。

 考え切った思索の末に築かれた「強い思想」が「常識」となるのです。

(p67より引用) 非常時の政策というものはあるが、非常時の思想というものは実はないのである。強い思想は、いつも尋常時に尋常に考え上げられた思想なのであって、それが非常時に当っても一番有効に働くのだ。いやそれを働かせねばならぬのだ。常識というものは、人々が尋常時に永い事かかって慎重に築き上げた思想である。

 小林氏36歳の時、「支那より還りて」からの言葉です。

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問いの発明 (人生の鍛錬‐小林秀雄の言葉(新潮社編))

2007-08-07 21:51:51 | 本と雑誌

Bergson  小林氏の思索は観念的なものではありません。
 現実・事実に立脚しそれを蔑ろにはしません。

(p186より引用) 善とは何かと考えるより、善を得ることが大事なのである。善を求める心は、各人にあり、自ら省みて、この心の傾向をかすかにでも感じたなら、それは心のうちに厳存することを素直に容認すべきであり、この傾向を積極的に育てるべきである。

 これは、56歳の作「論語」から「善を得る」についての言葉です。
 頭による「理解」より「実感」や「実行/実践」を重んじているように思います。

 また、58歳の作「無私の精神」の中で、小林氏は「実行家」についてこう語ります。

(p194より引用) 実行家として成功する人は、自己を押し通す人、強く自己を主張する人と見られ勝ちだが、実は、反対に、彼には一種の無私がある。・・・有能な実行家は、いつも自己主張より物の動きの方を尊重しているものだ。現実の新しい動きが看破されれば、直ちに古い解釈や知識を捨てる用意のある人だ。物の動きに順じて自己を日に新たにするとは一種の無私である。

 ところで、「実行」の小林氏の考え方は、氏が31歳の時の作「作家志望者への助言」においても垣間見ることができます。

(p37より引用) 心掛け次第で明日からでも実行が出来、実行した以上必ず実益がある、そういう言葉を、本当の助言というのである。・・・
 実行をはなれて助言はない。そこで実行となれば、人間にとって元来洒落た実行もひねくれた実行もない、ことごとく実行とは平凡なものだ。平凡こそ実行の持つ最大の性格なのだ。だからこそ名助言はすべて平凡に見えるのだ。

 実行できない助言は助言とはなり得ません。実行できなければ結果の実体がないからです。結果を生まない言は、空ろ言に過ぎません。

 小林氏が評価するのは、前へ前へと掘り進めていく思索です。
 それは、過去に提示された課題の解決ではなく、新たな問題の提示です。

 63歳の作、著名な数学者岡潔氏との対談をまとめた「人間の建設〈対談〉」においての小林氏の言です。

(p215より引用) ベルグソンは若いころにこういうことを言ってます。問題を出すということが一番大事なことだ。うまく出す。問題をうまく出せば即ちそれが答えだと。この考え方はたいへんおもしろいと思いましたね。いま文化の問題でも、何の問題でもいいが、物を考えている人がうまく問題を出そうとしませんね。答えばかり出そうとあせっている。

 これと同じ趣旨のことを、78歳の作「本居宣長補記Ⅰ」においても語っています。
 こちらでのワーディングは「問いの発明」です。

(p236より引用) 答えを予想しない問いはなかろう。あれば出鱈目な問いである。・・・取戻さなければならないのは、問いの発明であって、正しい答えなどではない。今日の学問に必要なのは師友ではない、師友を頼まず、独り「自反」し、新たな問いを心中に蓄える人である。

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発売日:2007-04


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