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再び、ソクラテス (プラトンの哲学(藤沢 令夫))

2006-11-30 01:11:12 | 本と雑誌

Sokrates_2  以前、「ソクラテスの弁明」「ソクラテス以前以後」といった本を読んで見ました。しかしながら、哲学に疎い私にはほとんど理解できなかったので、今回は、その手の哲学の入門書だという本書を手に取りました。

 ご存知のとおりプラトン(Platon 前428頃~前347頃)は、西洋哲学に極めて大きな影響を残した古代ギリシャの哲学者です。

 本書は、そのプラトンの哲学を、現存する彼の著作を辿ることにより歪みなく明らかにしようとした解説書です。

 まずは、プラトンの師であるソクラテスの有名な「無知の知」のおさらいです。
 プラトンにとって、ソクラテスの「無知の知」は彼の哲学にとっての原点でした。

(p43より引用) プラトンは、ソクラテスによるこの知のとらえ方こそ、「哲学」(philo-sophia=知の愛求)の確かな出発点であり、立脚点であると見てとったにちがいない。なぜなら「無知の知」とは、還元すれば、
 -自分が何事かを知っていると思いこむ以前の状態に、つねに自分を置くことへのたえざる習熟
ということである。自分がすでに知っていると思いこんでいる状態からは、知への欲求は発動しようがなく、知らないことを痛感してこそ、知りたいと希求することになるという平明な意味において、これは哲学つまり求知の不可欠の出発点にほかならない。

 それだけに、「知」を追求する姿勢は極めて厳しいものでした。
 「知」に反する「行動」はなく、「知」は「行動」に先立つものでした。

(p44より引用) プラトンが理解したソクラテスの「知」のとらえ方のきびしさとは何よりも、「知」(知る)とはその人の行為の隅々まで支配する力をもつはずだ、そうでなければほんとうの「知」とはいえない、という「知」への要求のきびしさである。
 例えば、あることがよいことだと「知って」いながら行わない、というようなことは、ソクラテスにとってはそもそもありえないことであった。それは要するに、ほんとうに「知って」いないのである。同様に、悪いことと「知って」(わかって)はいるがやめられない、という言い方には、「知る」(わかる)ということのルーズはとらえ方に寄りかかった甘えがある。やめられないのは、ほんとうに「知って」(わかって)いないからだとソクラテスは指摘して、その甘えを禁止する。

 ソクラテスは「無知の知」を究極の瞬間まで堅持し続けました。
 「知らない」ことに対しては何の評価もできません。「知らない」ことには、何の感情も湧かない、湧くはずもないのです。
 刑死を前にしたソクラテスの態度表明です。

(p53より引用) 「死を恐れるということは、諸君、知がないのに知をもっていると思うこと以外の何ものでもありません。それは、知らないということを知っていると思うことなのですから。・・・」
 よいものか悪いものかわからないからこそ、不気味で怖いというのがふつうの人の反応であろう。逆に、よいか悪いかわからないがゆえに、それに対する感情の発動が自然に停止されるというのは、ソクラテスの「無知の知」の構えが並大抵のものでないことを告げている。

 このように藤原氏は、プラトン(ソクラテス)の哲学を丁寧に解説していきます。(いくら丁寧であっても、残念ながら私の理解力では1割もついていけないのですが・・・)

 本書のあとがきで、藤原氏は、この道の専門家ならではの悩みを吐露しています。

(p226より引用) 多岐にわたるプラトン哲学のすべての面を書くのは、はじめからできない相談だから、全体を貫く中心的な哲学思想の発展の動きを、前期から後期に至る著作に残されたその軌跡にもとづいて、できるだけ明晰な姿で再現することに努めるという方針を取った。
 “専門家”の哀しい性ゆえのいちばんの不安は、すでにその「軌跡」のとらえ方が研究者の間で千差万別といってよい状況にあるのに、自分が再現したプラトン哲学の動きが事実オリジナルのそれであることを裏づけるための証拠提出の手続き-ギリシア原文の読みの確定、古代から累積され近来はとみに量産される諸解釈の入念な吟味検討など-を、一切省かなければならないことであった。

 一流の研究者としての正直で謙虚な姿勢は敬服に値します。

プラトンの哲学 プラトンの哲学
価格:¥ 777(税込)
発売日:1998-01

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他諺の空似 (米原 万里)

2006-11-27 23:26:13 | 本と雑誌

Zou  米原万理さんの本を手にとるのは、実は初めてです。

 私がよく拝見しているBlogの主の「ふとっちょパパさん」がお気に入りの作家だということと、「他諺の空似」というタイトルに魅かれて読んでみました。

 読み始める前に勝手に想像していたような内容ではありませんでしたが、これはこれで非常に刺激的でした。
 世界のあちこちの諺を自在に操った米原さん一流の辛口のフレーズが、次から次へと襲いかかってくる感じです。

 諺は、先人の経験が凝縮された貴重な箴言です。
 世界各地に同じような諺が残っているということは、それが他所から伝えられたものであっても、まったく関わりなくそれぞれ独自に生まれたものであっても、教訓の元となる人の営みや行動が、「普遍的な要素」をもっているという証左と言えます。

 たとえば、「自業自得」「因果応報」などは代表的な例です。

(p150より引用) 自分の行為は結局自分に返って来る、悪いことをすると、何倍にもなって自分に跳ね返ってくると説く諺は世界各地に無尽蔵にある。

 ただ、具体的なフレーズになると、世界各地、その土地柄が出てきます。
 このあたりは非常に面白いです。

 米原さんは、持ち前の博識と経験でバラエティに富んだ各地の諺を紹介していきます。
 たとえば、一石二鳥。コートジボアールでは、「象は水を飲むとき同時に長い鼻の掃除もする」というのだそうです。

 そのほか、私の興味を惹いた「他諺の空似」をいくつかご紹介してみましょう。

  • やぶ蛇 : ハイエナの相撲を羊は見に行かない(セネガル)
  • 寄らば大樹の陰 : 良い木に近づけば、良い日陰(コスタリカ)
  • 鶏口となるも牛後となるなかれ : チョウザメの尻尾でいるぐらいなら、カマスの頭になる方がまし(ロシア)
  • 隣の花は赤い : 他人のアヒルは七面鳥に見える(トルコ)
  • 甘い言葉には裏がある : 甘い蜂蜜には蜜蜂(タジキスタン)
  • 一難去ってまた一難 : 象から逃れて虎に出会い、虎から逃れて鰐に出会う(ラオス)

 同じような教訓を伝えていますが、それぞれ、お国柄が出ていて面白いです。

 米原万理さんは、今年(2006年)の5月にお亡くなりになったとのこと。
 図らずも本書が遺作になったわけですが、この本で発揮された溢れんばかりのバイタリティからは、ちょっと思い測ることはできません。

他諺の空似   ことわざ人類学 他諺の空似 ことわざ人類学
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2006-08-24

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日本以外全部沈没 (筒井 康隆)

2006-11-26 14:18:38 | 本と雑誌

Nihon_igai  筒井康隆氏による「日本沈没」のパロディです。

 この前、「日本沈没」の映画のリメイク版につられて「日本沈没第二部」を読んだのですが、今回もその流れです。

 遥か昔、私が中学生のころSF、ショート・ショートが一世を風靡していました。そのころ文庫本でよく読んだのが、星新一氏と筒井康隆氏の作品でした。

 星新一氏の作品は、どの作品も、洗練されたユーモアと予想だにしない意外な結末で、これはちょっとかなわないなという感じでした。

 他方、筒井康隆氏の方といえば、ドタバタ・ナンセンス、ブラック・ユーモアの作風で、それはそれで(やはり)到底かなわないと思った記憶があります。

 さて、今回読んだ「日本以外全部沈没」ですが、巻末の解説によると1962年から1976年に書かれた11の短編が収められているとのこと。
 どの作品も、まさに初期の筒井ワールド満開です。

 ただ、今、読んでみると、私には少々きついものがありました。
 筒井氏一流のブラック・ユーモアなのですが、素直に受け入れられないところがそこここにありました。
 私の感性の許容度や遊びが、昔に比べて狭まってきたのかもしれません。

日本以外全部沈没―パニック短篇集 日本以外全部沈没―パニック短篇集
価格:¥ 580(税込)
発売日:2006-06

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岸朝子のお気に入り お酒はおいしゅうございます (岸 朝子)

2006-11-25 15:01:56 | 本と雑誌

Tukasabotan_2   最近は普通の居酒屋さんに行っても、お酒の銘柄が数多く取り揃えられています。
 私自身は、自分の舌に全く自信がなく、いろいろな種類の銘柄を飲んでも味の違いが分かるわけではありません。こういうものは、文字で理解するものではないのでしょうが、とはいえ、やはりちょっとは違いが分からないと、せっかくの楽しみも半減してしまいます。

 この本は、「料理記者歴50年」という肩書きと「おいしゅうございます」という決め台詞で有名な岸朝子さんが、紹介するお酒と酒肴のカタログです。

 本書の冒頭、岸さんのお酒に対するポリシーが示されます。

(p6より引用) 時代によってお酒にも流行がありますが、私の信念は「酒はあくまでも料理とともに味わうものであって、酔うものではない」ということです。

 これは私もそのとおりだと思います。
 ただ、なかなかそういう機会には恵まれません。最近の宴会メニューは、ほとんど「飲み放題パック」です。まあ、そもそも「宴会」というシチュエーション自体、お酒と料理を楽しむものではありませんから・・・。

(p8より引用) 「白玉の歯にしみとほる秋の夜の
酒はしづかに飲むべかりけり」

 浪漫的作風で旅と酒を好んだといわれる歌人、若山牧水の歌です。

 これからの季節、忘年会ではなく、こういう贅沢にも浸ってみたいものです。

 この本は、それぞれのお酒ごとに岸さんの短いコメントがついていて、そこには、そのお酒に合うその地方の酒肴も紹介されています。

 たとえば、四国は高知の「秀麗 司牡丹」ではこんな感じです。

(p35より引用) 青葉の5月、春カツオはおいしいお酒といただきたいですね。余分な脂がなく、キリッとした赤身のおいしさは格別です。カツオのたたきは、塩をまぶして、表面を一気に焼き上げます。切ったとき表面から2mm.火を通す焼き加減が最高。

岸朝子のお気に入り お酒はおいしゅうございます―日本全国お取り寄せ 岸朝子のお気に入り お酒はおいしゅうございます―日本全国お取り寄せ
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2005-12

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自由訳 イマジン (ジョン・レノン&オノ・ヨーコ)

2006-11-24 21:31:30 | 本と雑誌

Imagine  この前読んだ、オノ・ヨーコさんの「グレープフルーツ・ジュース」がジョン・レノンの名曲「イマジン」のベースになったとのこと。
 で、今回は、その「イマジン」です。

 1962年、「ビートルズ」としてレコードデビューしたジョン・レノンは、1969年に前衛芸術家のオノ・ヨーコと結婚しました。1970年にはビートルズ解散、その翌年「イマジン」が発表されました。

 この本は、その「イマジン」の歌詞を、作家・作詞作曲家・写真家等いくつもの顔をもつ新井満氏がそのメッセージを汲み取って訳出したものです。

 新井氏によると、その際、2つの制約を自らに課したといいます。

 ひとつは、「原作詞のコンセプトは絶対厳守すること」、もうひとつは、「できる限りわかりやすい日本語で表現すること」でした。

(p5より引用)
イマジン
イメージすること
心の中で想い描いてみること
そして
現実の向こう側に隠れている
真実の姿を
見きわめること

 「グレープフルーツ」は「命令形」でした。
 「Imagine」も命令形ではありますが、「想像する」という行為は、「一人ひとりの想いの自由な広がり」を連想させます。

(p16より引用)
だから
イマジン
ぼくは
イメージすることにしたんだ
・・・
そうしたら
心が自由になって
新しい世界が見え始めたんだ
最初はむずかしそうだったけど
やってみたら
意外にかんたんなんだよ

 「詩と写真のコラボレーション」という点では、先のオノ・ヨーコさんの「グレープフルーツ・ジュース」と同じです。
 が、こちらの本は、優しいことばに、直感的にイメージできる写真が添えられていて、誰が読んでも「イマジン」にこめられたメッセージを素直に感じることができます。

(原作詞より引用)
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will live as one

自由訳 イマジン 自由訳 イマジン
価格:¥ 1,050(税込)
発売日:2006-08

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会社がイヤになった (菊入 みゆき)

2006-11-23 14:59:07 | 本と雑誌

 最近多くの企業で、社員のメンタルヘルスの問題がクローズアップされています。

 私も、その観点から、以前「こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから」という本を読んだりしました。
 この本も同じ根の問題意識から手に取ったものです。

 「やる気が起こらない」「意欲が湧かない」「モチベーションが低下している」・・・、こういった状態は、メンタルヘルスの危険信号です。

 この本は、どこの会社でもありそうなケースを短いドラマ仕立てのストーリーで示し、それを材料に「モチベーション」という切り口から解説を加えていきます。
 20代から60代の7つのライフステージを舞台にした「7つの物語」で構成されています。読者はいずれかのストーリーに何がしかの親近感を覚えるはずです。

 解説の中で著者は、「職務特性理論」における「満足感を生む5つの要因」を紹介しています。

(p75より引用) 職務特性理論の中では、次の五つの要素が、職務満足を生むとする。「使う能力の多様性」「仕事の最初から最後までに携わっているという一貫性」「仕事のやり方などについて任されているという自律性」「仕事を意味のあるものだと感じられる有意義感」「仕事の結果を知ることができるフィードバック」。

 逆にいうと、これら5つの要素が欠けていると「モチベーション」の低下につながるということです。気をつけなくてはなりません。

 また、著者は「モチベーションには年齢的なピークがある」ことを紹介しています。

(p173より引用) 二十代は経験が不足しているため、仕事の中身に深く関わることがむずかしい。三十代は知識も能力も高まるが、まだ組織内での立場が確立していない場合もある。四十代は、プレイヤーとして職務を遂行する能力にも秀で、しかも立場の重要度が高まる。五十代では、さらに高みに上る人もいるだろうが、職務遂行能力が低下したり、役職を離れたり、というケースもあるだろう。
 複数の企業でみられる、男性では四十代前半がモチベーションのピークという現象には、以上のような背景が考えられる。

 一般的にはそうかとも思いますが、最近はこういったパターンに当てはまらない状況が目立ってきていると感じます。
 「モチベーション」=「やる気」だとすると、「やる気」は、どの年代にもあります。「やる気の素」「やる気を支えるもの」がその人のライフステージによって変わるのでしょう。それが、「やる気」の(外からの)見え方の違いにつながります。

 また、年代によって(人によって)、「やる気」が削がれた場合の「耐性」や「反応」が大きく異なってきています。
 耐性が弱く、反応が内に向くとメンタルの危険度が急速に増加します。

 メンタル的問題を抱えるに至る要因は、まさに様々だと思いますが、直接の原因もしくは背景に「モチベーション(やる気・意欲)」があるのは間違いありません。

会社がイヤになった やる気を取り戻す7つの物語 会社がイヤになった やる気を取り戻す7つの物語
価格:¥ 756(税込)
発売日:2004-06-18

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カレーを作れる子は算数もできる (木幡 寛)

2006-11-20 22:11:44 | 本と雑誌

Sansu  最近流行の「タイトルの奇抜さ」で目を引く類の本・・・かと思いました。が、内容は、思いの外充実しています。
 著者木幡氏の「現代の数学教育における問題に真摯に取り組んでいる姿勢」が見て取れます。

 氏によると、「基本=How to=方法」と「基礎=why=なぜ」は車の両輪だとされます。
 隂山英男氏の「百ます計算」に代表される計算の操作すなわちHow to重視の指導方法は、数学教育としては十分ではないとの考えに立っています。

 数学的な基礎・基本について、木幡氏は、数学者の秋山仁氏の主張を紹介しています。

(p5より引用) 「数学を理解する能力というのは、日常生活を支障なく過ごす能力と同じものだ」と規定し、次の四点を挙げている。・・・
① 靴箱に靴を揃えて入れることができる。
② 料理の本を見て、作ったことのない料理を作ることができる。
③ 知らない単語を辞書で引くことができる。
④ 家から学校までの地図を描くことができる。

 この4つの能力について、ひとつひとつユニークな問題を示しながら、その習得方法を示していきます。

 ①は、算数の基礎を学ぶ練習。
 ②は、筋道を立てて考える練習。
 ③は、物の仕組みを知る練習。
 最後の④は、具体物を抽象化する練習です。

 それぞれの章に収録されている練習は、「算数」の問題というよりも、「理科」の実験であったり、実際手を動かす「工作」であったりと様々です。
 子供の好奇心を刺激して、「なぜ?」「どうして?」という疑問を抱かせ、さらにその理由を考えさせるための楽しい工夫に満ちています。

 この本を読んでも、ストレートに(現在の)小学校の「算数」がよくできるようになるわけではないでしょう。

 この本のメッセージは、「数学」の「意味づけ」にあります。
 算数を、単なる「数の操作」ではなく、諸々の学問に取り組むにあたっての、「知識としての基本」「考え方としての基礎」であると意味づけているのです。

カレーを作れる子は算数もできる カレーを作れる子は算数もできる
価格:¥ 735(税込)
発売日:2006-10-21

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大人の仕事術 (中島 孝志)

2006-11-19 13:11:42 | 本と雑誌

Eisenhower  中島氏の言う「大人の仕事」とは「考えた仕事」のことです。

 氏によると、その「大人の仕事」は3種類あると言います。

  • まずは、①「こなす仕事」。 これは、自分の力で処理する仕事です。
  • 次に、②「さばく仕事」。 これは、自分以外の人(上司・部下等の適任者)に任せる仕事です。
  • 最後は、③「つくる仕事」。 これは、前2つとはちょっと質が異なります。自分で生み出す仕事です。何も新規ビジネスとは限りません。広く、あれこれと創意工夫する仕事だと言います。

 さらに、中島氏は、この「つくる仕事」の2類型を示します。

  • 一つは、make better=improve。改善・改革・改良といったものです。
  • もうひとつは、make new=innovate。革新です。

 本書は、「大人の仕事」の具体例や、「大人の仕事」に近づくヒントが豊富に示されています。
 たとえば、「段取り」についての理化学研究所代表の大河内博士と部下の逸話です。

(p40より引用) ある時、博士はある若い男性にポットにお湯を満タンにして持ってきなさい、と命じた。すると、その男はこんなことをしたのだ。
 まず最初にポットに水を入れる。・・・
満タンになると、今度はそれをやかんに移し替える。そして、やかんの水が沸騰すると、それをポットに入れた。

 また、「不可能」についての以下のような整理も、その「不可能」を「可能」にするアクションのヒントとして役に立ちます。

(p152より引用) 不可能といった時、そこには次の三つの理由しかない。

  1. 一人ではできない。
  2. いますぐにはできない。
  3. いままでのやり方(方法、構造、仕組み、システム)ではできない。

 不可能を可能にするためには、当然ですが、人並みはずれたエネルギーが必要です。
 ここぞという時の「集中力」です。

(p157より引用) 集中力とはいったいなにか?
「やるべき時にやるべきことをきちんとやりきる能力」と定義しておこう。集中力はタイミングを外したら、なんの効果もない。

 本書は、中島氏の経験にもとづくノウハウが非常に分かりやすく開陳されています。
 ある部分、表層的なところもありますが、シンプルかつストレートに本質を突いているところも、また、あります。

 たとえば、第34代合衆国大統領アイゼンハワー氏の言葉として紹介されている「急ぎの仕事が重要であることはめったになく、重要な仕事が急ぎであることもめったにない」というフレーズは、私も全くそのとおりだと思います。

 また、

(p29より引用) とくに「上司になればなるほど叱られる」ということも気分がよかった。・・・セールスという仕事では上に行けば行くほど責任をきつく追及される。それがフェアな感じがして、部下は安心して働けるのだ。

というコメントは、心しなくてはなりません。

大人の仕事術 大人の仕事術
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2004-07

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事実は理論に依存する (新しい科学論(村上 陽一郎))

2006-11-18 16:43:56 | 本と雑誌

Copernicus  村上氏は、本書で「データの客観性」についても論じています。

 通常の常識からは、「データ」といえるものは、誰が見ても(聞いても、計測しても・・・)同じもの(結果)でなくてはなりません。
 しかしながら、氏は、観察されたデータは「主観的なもの」だと言います。あくまでも「観察者」に依存するものであり、観察者が変わるとそこで事実として把握される内容も変わるのです。

(p151より引用) 今わたくしどもが、天然自然の姿として認め、知っているものは、たまたま、わたくしどもが、今のわたくしども程度の大きさをもち、わたくしどもの感覚器官が、今の程度の分別能力をもっていることに結果としてのものなのであって、それらの条件が変われば、自ずからそれにつれて、外界の有様も変わる、ということは認めなければなりますまい。

 確かに、人が見る外界と、イヌが見る外界と、コウモリが見る(聞く?)外界とは、同じものを見ても全く異なって見えるはずです。それぞれの感覚器官の能力が違うのですから。

 そうなると「事実から理論」という帰納的アプローチはその拠って立つ礎が不安定になってしまいます。

(p181より引用) 科学についての常識的な考え方に従えば、理論は、データから、帰納によって造られることになっていました。しかし、ここに到って事態は完全に逆転したからです。「事実」が科学理論によって造られる ものと考えられることになりました。

 氏の立論では、「『前提となる理論を共有している人々の間』で『事実』が認められる」ということになるのです。

 従来の常識では、それまで正しいとされていたある理論に対し、それに反する「事実」が見出されることが、新たな理論構築のきっかけになると考えられていました。

 しかし、「事実は理論に依存する」となると、そうは言えなくなります。

 客体である「事実」をトリガとしないで科学理論が変化するということは、主観側に、その要因を求めることになります。すなわち、「人間の意識構造の変化」です。

 この考え方の例示として、氏は、自然科学的な「原子論」の現出を挙げています。
 ボイルやニュートンに代表される原子論が唱えられ始めた16から17世紀にかけてのヨーロッパでは、まさに「近代の個我の成立」「自由主義の萌芽」が見られました。

(p193より引用) 17世紀ヨーロッパ社会が底流としてもっていた基本的な考え方と、自然科学的な「原子論」の確立との間には、単なる現象面での同型性以上に強い関係があると考えてよいでしょう。

 「個人」と「原子」のアナロジーです。

 氏は、「『自然科学』が一人歩きする」ということはおかしな話だと言います。

(p194より引用) 科学理論の変換の起こる過程は、単に特定の科学理論の場面だけでの操作が関与しているのではなく、それを組み込んでいる全体的な世界像や自然観などとの有機的な構造の総体が関与している、ということだけはいえると思います。

 当然ですが、「科学はもともと人間の営み」です。

新しい科学論―事実は理論をたおせるか 新しい科学論―事実は理論をたおせるか
価格:¥ 861(税込)
発売日:1979-01

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新しい科学論 (村上 陽一郎)

2006-11-17 21:32:02 | 本と雑誌

Galileo  タイトルに「新しい科学論」とありますが、科学に対する基本認識を改めるもしくは再確認するには、まさに最適の本だと思います。

 著者の村上氏は、科学史・科学哲学の重鎮です。本書は、その氏がまだ40代のころに著したものです。

 まず、以下のような氏のメッセージが示されます。

(p30より引用) 科学は「客観的真理」から成り立っており、それはだれが、どんな人が発見したとしても、その人間のあり方とは無関係に成立する、という考え方です。わたしは、この考え方は最終的には正しくないと考える・・・

 本書の前半部分は、これまで広く常識的に信じられてきた科学観を概観します。
 たとえば、ガリレオの宗教裁判のように「キリスト教的先入観」が自然科学の進歩を阻害してきたといった考え方です。

 本書の後半部分では、それらの常識的?な科学観を次々と壊していきます。
 コペルニクス・ニュートン・ケプラー・ガリレオ・・・について。

(p111より引用) 少なくとも彼らは、キリスト教的偏見を捨て、宗教的迷妄から解放されてありのままの自然を見たから「自然科学的真理」に到達することができたのではなくて、この世界を創造主である神が合理的に造り上げたというキリスト教的偏見をもっていたからこそ、「自然科学的真理」を得ることができたといえるのではないでしょうか。

 現在の「常識的?科学観」は、むしろ、18世紀の啓蒙主義者が従来の科学から「キリスト教的信仰」を邪魔物として取り払ってしまったことにより変質してしまったものだと言います。

(p118より引用) 科学に対する今日の常識的な考え方の大部分は、・・・啓蒙主義的「偏見」や「先入観」の上に形づくられていることにもなるわけです。

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心の平静について (人生の短さについて(セネカ))

2006-11-16 23:55:53 | 本と雑誌

 セネカは「心の平静について」の中で、事にあたる場合の「三箇条」を示しています。

(p83より引用) われわれがまず第一に吟味すべきは自分自身であり、次は、今から始めようとする仕事であり、またその次は、仕事の相手とか仕事の仲間ということになろう。

 まず、主体である「自分」を知るということです。
 最も分かっているつもりで、実は多くの場合誤解しているのがこの「自分自身」です。

(p83より引用) このうち、なかんずく大切なことは自分自身の性質を正しく検討することである。というのは、得てして自分は自分を実力以上に買い被るものだからである。

 次に、「対象」の見極めです。
 このあたりは、孫子の「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」に通じる普遍的箴言です。

(p83より引用) 次には、今から始めようとする仕事そのものの内容を正しく検討すべきである。そしてわれわれの力量と、今企てようとしている仕事とを比較検討すべきである。行為者の力量のほうが、仕事の内容を常に上回らねばならぬからである。運搬人の力に余る重荷が当人を圧しつぶすことは必定である。

 さらにセネカは、その仕事に関わる「人」にも着目します。
 セネカは、「周りの人間」を「自己の時間」への干渉物と捉えているようです。

(p84より引用) また、特に人間を選ばねばならぬ。果して彼らはわれわれの生活の一部を費すに値する人間であろうか。あるいは、われわれの時間の犠牲が彼らには分かっているであろうか。中にはわれわれの親切を自分勝手にわれわれの負債にしてしまう人間もあるからである。

 相手次第で、自己の時間の価値が倍増したり、逆に時間が浪費されたりするのです。

 ただ、そういう中でも、「周りの人間」に係る別の価値である「友情」にも言及しています。

(p85より引用) しかし、何と言っても、心に喜びを与えてくれるのは、真実な楽しい友情に較ぶべきはないであろう。・・・言うまでもなく、われわれはできる限り、利己心のない人を選ぼう。

 真の友との付き合いは、自らの「心の平静」に導いてくれます。

 逆に「心の平静」を乱すものは最大の原因は「財産」だと言います。
 セネカは一説には莫大な富を築いたとも伝えられています。そのセネカの言です。

(p87より引用) 次に財産のことに移ろう。それは人間の苦難をもたらす最大の原因である。・・・財産を持たないほうが、失うよりもどれほど苦痛が軽いか。貧乏には失う原因が少ないだけ、それだけ苦悩も少ないことを知らねばならぬ。

 「心の平静について」の最後でセネカが薦めている示唆は、2000年近くを経た現在でもまさにそのまま受容できます。

(p115より引用) 心はいつも同じ緊張のうちに抑え付けておくべきではなく、時には娯楽に興ずるもよい。・・・カトーは公務に疲れた心を酒で和らげた。・・・心は休養によって、前よりも一層よき鋭さを増すであろう。・・・心が休みなく働くことから生ずるものは、或る種の無気力と倦怠感である。

 セネカの「ワークライフバランス」です。

人生の短さについて 他二篇 人生の短さについて 他二篇
価格:¥ 1,050(税込)
発売日:1991-06

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人生の短さについて (セネカ)

2006-11-15 23:33:30 | 本と雑誌

Nero  セネカ(Lucius Annaeus Seneca 前4?~後65)はローマの劇作家・政治家であり、ストア派の代表的な哲学者でもありました。
 32年ごろ政界入りして卓越した弁論でたちまち頭角を現し、49年には法務官に任命されます。このころ、クラウディウス帝の養子であるネロ(写真)の個人教師に任命されますが、後年、そのネロから謀反に加担したと疑われ,自殺を命じられるのです。

 まず、表題作である「人生の短さについて」において、セネカはこう断言します。

(p9より引用) われわれは短い時間をもっているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費されるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。

 しかし多くの人々は、そのことに気づきません。

(p10より引用) 結局最後になって否応なしに気付かされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。・・・われわれは短い人生を受けているのではなく、われわれがそれを短くしているのである。

 他方、賢者は、時間を我が物として活用します。
 賢者は、過去・現在・未来を「今」に集約します。

(p46より引用) あらゆる世紀が、あたかも紙に仕えるごとく賢者に仕える。時は過去になったのか。賢者はこれを回想によって摑まえる。時は現在にあるのか。賢者はこれを活用する。時は未来にあるのか。賢者はこれを予知する。あらゆる時を一つに集めることによって、賢者の生命は永続せしめられる。

 セネカは、時間の貴重さを説きます。その意味で、今を大事にせよと言います。

(p28より引用) 生きることの最大の障害は期待をもつということであるが、それは明日に依存して今日を失うことである。

 その他、本書には、「心の平静について」「幸福な人生について」という2編も併せて収録されています。

 「幸福な人生について」とは大上段に構えたテーマですが、抽象的な思索というより、身近な心得といった内容が説かれています。

 まず、冒頭、人生の目標について以下のような問いかけをします。

(p121より引用) まず念頭におくべきことは、一体われわれの努力すべき目標は何か、ということである。次に、よくよく考えねばならぬのは、どんな道を通ることによって、われわれはこの目標に最も早く進んで行くことができるかということである。

 セネカの回答は、自分で考えた道を進むことでした。

(p122より引用) 何よりも大切なことは、羊の群のように、先を行く群の後に付いて行くような真似はしないことである。

 他者の追従は、害悪に至るとの考えです。

(p122より引用) 我々を害悪に巻き込むことの最も甚だしいのは、多数者の賛成によって承認されたことを最善と考えて世論に同調することであり、また沢山のことをわれわれの先例として、道理に従って生きるのではなく模倣に従って生きることである。

 さらに、もっとストレートに断言します。

(p123より引用) われわれは他人の轍を踏むことによって滅びる。

 セネカは「自由」な精神を重んじました。他者の追従は、自らの自由の放棄と捉えていたのかもしれません。

(p129より引用) 幸福な人生の基は、自由な心であり、また高潔な、不屈にして強固な心であって、恐怖や欲望の圏外にある。

人生の短さについて 他二篇 人生の短さについて 他二篇
価格:¥ 1,050(税込)
発売日:1991-06

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日本沈没第二部 (小松左京/谷甲州)

2006-11-14 23:46:17 | 本と雑誌

Nihon_rettou  1973年に出版されて大ベストセラーになった小松左京氏の「日本沈没」。

 当時、私は中学生だったのですが、ユーラシアプレート・太平洋プレート・フィリピンプレートが重なり合ってマリアナ海溝に沈みこんでいる図は、30数年経った今でも、未だに強く記憶に残っています。

 今年、そのリメイク版の映画も公開され、再度ちょっとしたブームになりました。
 それに合わせて出版された本書は、私にとっては、思っていたものと少々イメージが違っていました。

 ディーテイルの設定や描写はかなりしっかりしています。その点では力作だと思います。
 また、地球規模の環境予測システムである「気象シミュレータ」なるものが国家の安全保障の核になるという着想も慧眼です。
 ただ、小説のストーリー立てとしては、際立った主人公が不在で、登場人物間の絡みも今ひとつ、最初から終わりまで平板な感じは否めません。
 正直なところ、発想の奇抜さや構想のスケールといった点では、前作とはやはり大きな差があると思います。

 国際政治をテーマにしていると見ることもできますが、そうだとすると(全くタイプは違いますが、)たとえば、トム・クランシーのようなフィクションの中にリアリティやエンターテイメント性をこれでもかと盛り込んだ作品には敵いません。

 期待が大きかっただけに、少々残念です。

日本沈没 第二部 日本沈没 第二部
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:2006-07-07

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嫌われた日本 (高島 秀之)

2006-11-12 13:52:20 | 本と雑誌

Galbraith  アメリカの雑誌「フォーチュン」は1930年代から40年代にかけて3回、日本特集号を発行しました。

 本書は、それら3つの特集記事を比較しつつ読み解くことで、戦時におけるジャーナリズムのひとつの姿を浮き彫りにしています。

 当時のフォーチュンの編集や執筆に加わっていたのは、ピーター・F・ドラッカー、ジョン・K・ガルブレイズ、ダニエル・ベル、アルビン・トフラーなどの錚々たるメンバでした。もちろん、彼らも若く、何人かはまだ駆け出しの記者レベルでした。

 本書を読んで改めて思ったことは、よく言われるジャーナリズムによる世論の誘導は、「知らせること」と同じく「知らせないこと」によっても為され得るということでした。

(p111より引用) 大新聞がファシズムへ傾斜して行く中、海軍少佐石丸藤太の『一九三六年』が上梓された。・・・その中で石丸は、「凡そ今日の世界に於て、日本ほど広く憎まれているものはない。その憎まれ方は第一次大戦中のドイツ以上かもしれない。ただその世間に知れないのは、新聞がこれを黙殺するからである」と述べている。

Genshi_bakudan  「知らせない」という点では、原子爆弾に関する報道も検閲の対象になったと言います。
 原爆投下直後の惨状を写した写真のネガは、長く倉庫に納められたままでした。

(p194より引用) アメリカ空軍撮影の「きのこ雲」は、その威力を知らしめる映像として広く喧伝されたが、世界が「きのこ雲」の下の地獄の映像を知るには、さらに七年の歳月を要した。一九五二年、講和条約発効によってGHQの検閲が終わってから、初めて被爆直後の写真が『ライフ』に掲載された。

 「フォーチュン」「タイム」「ライフ」を刊行するタイム社の社主ヘンリー・R・ルース氏は、大の日本嫌いでした。特に「タイム」「ライフ」にはその考えが顕著に表れていました。
 しかし、1950年以降、変化が見られます。

(p199より引用) それ以後、ルースは、日本を共産主義の防波堤と考え、アメリカの友として扱い、日米同盟の重要性を訴えるようになる。『ライフ』は「奥ゆかしく、美しい文化を持つ日本」を特集し、茶道や京都の寺院をカラーグラビアで紹介し始めた。

 ちなみに、本書の著者の高島秀之氏は、35年間NHKに勤務、放送部長・編成部長・放送局長等の要職を歴任、主に、NHKスペシャル・中学生日記・市民大学講座などのドキュメンタリー・教養/教育番組に従事した方です。

嫌われた日本―戦時ジャーナリズムの検証 嫌われた日本―戦時ジャーナリズムの検証
価格:¥ 840(税込)
発売日:2006-08

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吉田松陰と現代 (加藤 周一)

2006-11-11 14:19:53 | 本と雑誌

Yoshida_shoin  吉田松陰(よしだしょういん 1830~59)は、長州藩出身の幕末の思想家です。

 1839年、9歳にして藩校明倫館で山鹿流兵学を講義し、翌年には藩主に「武教全書」を講義するなど、早くから才能を認められていました。その後、江戸で佐久間象山の門下に入り密航失敗。投獄されますが、自宅謹慎中の1855年、長州の萩城下東郊に私塾を開きました。有名な松下村塾です。
 この塾で松陰が講じたのはわずか数年間ですが、その間、久坂玄瑞・木戸孝允・高杉晋作・伊藤博文・山県有朋・前原一誠らの幕末・維新期に活躍した多くの志士を育てました。

(p10より引用) 松陰に象徴される下級武士層の青年たちは、批判精神と正義感があったのです。万事はそこからはじまったといえるでしょう。

 なぜ、萩という小さな地方都市の「松下村塾」からこれほどの維新期の人材が輩出されたのでしょう。そもそも、なぜ「松下村塾」にこれほどの人材が集まったのでしょう。
 その中心にいた吉田松陰の魅力とは、一体何だったのでしょうか。

 松陰の人間的魅力の源泉として加藤氏は以下の2点を挙げています。

 第一には、その人格です。

(p15より引用) 思想の枠組みは大勢の人と同じようなものです。しかし松陰の場合には、それがほとんど人格の全体に浸透していて、弟子たちや周りからみると彼が言った改革の要求が、青年層の政治への参加要求の象徴みたいなものになった。あるいはその人格化みたいなものにみえたのでしょう。ヨーロッパ語でいえば personification、濃厚に人格化された存在になった。

 第二は、思想の中身です。

 当時は、「開国」か「鎖国」か、また、「佐幕」か「尊王」かという対立政策に「攘夷」という別概念が混ざり込んでいました。
 松陰は、「開国」と「攘夷」の組み合わせを選びました。

 ただし、加藤氏によると、松陰のいう「攘夷」には注釈が必要だと言います。

(p19より引用) 彼の考えた「攘夷」とはいますぐ外国人を追い払うというのではなく、・・・何とかして、少しでも独立の言い分を通す工夫を重ねようという意味です。

 松陰の魅力は、理性的な認識と情熱的な活動だといえそうです。

(p20より引用) 松下村塾の松陰になぜ魅力があったのか。
 それは政治的情熱の肉体化したものだから、運動の中心的象徴になったから魅力があったと先ほど言いましたけれど、それだけではない。政策のプランを持っていた。その時期では比較的少数意見でしたが、最も現実的な考え方でした。

 本書は、2004年10月、萩市民館にて行なわれた加藤氏の講演内容を整理し加筆したものです。
 講演のテーマの「吉田松陰と現代」という点に関して、加藤氏は「現代にも通じる松陰の姿勢」として以下の点を指摘しています。

(p33より引用) 独立の精神であるとか、突拍子もない空想的なことを言うのではなくて現実的にどういう可能なプログラムがありうるかということを執拗に追求することとか、しかもそれを勇気を持ってやるというようなことは、いまでもそのまま通用することではないでしょうか。

吉田松陰と現代 吉田松陰と現代
価格:¥ 630(税込)
発売日:2005-09

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