OMOI-KOMI - 我流の作法 -

For Ordinary Business People

現代日本の開化 (私の個人主義(夏目漱石))

2005-07-31 22:44:54 | 本と雑誌

(p62より引用) 我々の遣っている事は内発的ではない、外発的である。これを一言にしていえば現代日本の開化は皮相上滑りの開化であるということに帰着するのである。・・・今言った現代日本が置かれたる特殊の状況によって吾々の開化が機械的に変化を余儀なくされるためにただ上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか、誠に言語道断の窮状に陥ったものであります。

 本講演は明治44年(1911年)に行なわれました。この明治末期の日本は、先の日清・日露戦争で勝利し、欧州列強と肩を並べたという自信を感じていたころです。
 そういった時代背景の中で、漱石は、

(p61より引用) 自分はまだ煙草を喫っても碌に味さえ分からない子供のくせに、煙草を喫ってさも旨そうな風をしたら生意気でしょう。それを敢えてしなければ立ち行かない日本人は随分悲酸な国民といわなければならない。・・・西洋人と交際する以上、日本本位ではどうしても旨く行きません。交際しなくとも宜いといえばそれまでであるが情けないかな交際しなければいられないのが日本の現状でありましょう。

 と覚めた目で論評しています。

(p66より引用) ではどうしてこの急場を切り抜けるかと質問されても、前申した通り私には名案は何もない。ただ出来るだけ神経衰弱に罹らない程度において、内発的に変化して行くが好かろうというような体裁の好いことを言うより外に仕方がない。

 この後、日本は欧米列強との張り合いを強め、第一次世界大戦・第二次世界大戦に飛び込んでいくのです。
 外発を源とした上滑りの西欧化を日本の実力と錯覚した悲劇です。

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基本は「紙芝居」

2005-07-30 23:08:31 | ブログ

 最近のプレゼンテーションはPowerPoint等のツールを使ったスライドを見せながら行なうことがほとんどです。

 そうなるとスライドの1枚1枚が聞き手の目に映る基本単位になります。このスライド1枚を紙芝居の1枚だと考えて、1枚ごとの内容と全体の構成を考えます。

 全体の構成は説明の順序をたどることになるので、通常は「現状把握→課題抽出→対策検討」という流れが基本です。すなわち、根拠を示して結論を導くというストーリーです。

 ただ、場合によっては、まず「結論」を話す方が効果的なケースがあります。たとえば、検討した結論が聞き手の予想とは逆である場合です。
  「前提」や「理由」を説明した後、「結論」を述べるより、まず、「結論」をはっきり提示して、その後、(結論に至る)プロセスを説明する方が言いたいことがよく分かるものです。
 これは、最初に「到達点」を示すことにより、後の説明はその方向に向かったものだということを聞き手に意識させているからです。

 いずれにしても、紙芝居の1枚1枚の紙を作ることが基本で、それをストーリにあわせて順序を並びかえ、細かな体裁を整え直すのです。
 このような構成ページを独立させておいてそれを組み合わせるスタイルをベースにしておくと、結構、類似の案件のプレゼンテーションへの使い回しが効きます。
 身近なナレッジマネジメントです。

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道楽と職業 (私の個人主義(夏目漱石))

2005-07-29 23:54:10 | 本と雑誌

 今から20年以上前の学生時代に読んだ本です。今までも何度か読み直したいと思っていたのですが、ようやくリバイバルです。

(p19より引用) 自分のためにする事はすなわち人のためにすることだ。・・・それをちょっと数学的に言い現わしますと、己のためにする仕事の分量はひとのためにする仕事の分量と同じであるという方程式が立つのであります。・・・人のためになる仕事を余計すればするほど、それだけ己のためになるのもまた明らかな因縁であります。

 漱石によると「職業」とは「人のためにやる仕事」ということになります。
 そうすっきりと割り切ってしまえば、日々の仕事も楽になるかもしれません。仕事を「自己実現の場」と考えると、思い通りにいかずフラストレーションがたまったり幻滅したりするのです。仕事は人のためにやるものだ、だから自分の思い通りにいくとは限らないんだと思えばいいのです。

 「職業」の対極は「道楽」で、これは「己のためにする仕事」です。
 科学者・哲学者・芸術家がその代表で、「自己本位でなければ到底成功できない」と論じています。これは漱石一流の「近代個人主義思想」と軌を一にするものです。

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「総合力」商社

2005-07-28 23:44:42 | ブログ

 数ヶ月前に開催されたEA(Enterprise Architecture)フォーラムでの三井物産CIOのお話の中に出てきたフレーズです。

 最近流行の「○○力」の類かと思ったのですが、ちょっと調べてみると結構前、2001年から使われているキャッチコピーでした。

 当時言われ始めたITやインターネットの急速な進展による「中抜きの時代」「商社不要論」に対し、その厳しい環境下で生き抜いて行く三井物産の回答として「旧来の総合商社」から「総合力商社」へ進化してゆくことを社内外に向けてアピールしたのでした。
 ラーメンから人工衛星まであらゆるものを商材として扱う「総合」商社ではなく、広範かつ専門的な力(スキル・ノウハウ等)をintegrateした「総合力」をもった商社となることを目指すものでした。

 ここでいう「総合力」をもう少し具体的に言うと、「総合」商社ならではのあらゆる分野で培ってきた情報力・ノウハウ・高い専門性・信用力等を統合することで生まれる「問題解決力」とのことです。

 最近、いろいろな業界でいろいろな会社が「顧客にソリューションを提供する」とうたっていますが、生半可なノウハウの寄せ集めでは底力のある商社と伍してやっていくのはなかなか厳しそうです。

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前提の説得力 (論理ノート)

2005-07-26 23:36:55 | 本と雑誌

(「論理ノート」p108より引用) すべての前提が直接かつ効果的に結論を支持する場合でも、それを全部使うのは望ましくありません。前提の数を絞れば、論証の焦点が絞り込まれ、より大きな影響力を持つようになります。もう1つ注意すべき点があります。前提(結論を受け入れる理由)の中には、ある特定の聞き手だけに重い意味を持つものがあります。したがってそうした聞き手に対しては、まさにそのような前提を使うべきです。

 「論理ノート」という本は、「論理学」をベースにした実践入門書ですが、上記の記述はプレゼンテーションにも十分当てはまることです。

 プレゼンテーションは、聞く人を論理的に「完璧に」納得させる必要はありません。こちらの訴えたい点に「共感」させればいいのです。

 したがって、聞き手の腹に落ちさえすれば、これでもかと根拠を無理やり食べさせる必要はありません。すべての根拠を列挙する生真面目さよりも、聞き手が満足しさえすればいいという「合目的的」な割り切りが大事です。

 また、プレゼンテーションは聞き手にプレゼントするわけですから、聞き手が好きなものを贈らねばなりません。
 その点からも、聞き手が関心をもっていることに絞って根拠を開陳する(プレゼントする)ことは理にかなっていると言えるのです。

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プレゼンテーションは「プレゼント」

2005-07-24 19:57:02 | ブログ

 これも妹尾堅一郎教授の言われるプレゼンテーションの極意のひとつです。

 プレゼンテーションは、相手への「プレゼント」です。
 「プレゼント」するときは、相手の好みを考えて贈り物を選ぶはずです。決して「自分が好きなもの」を贈るのではありません。

 したがって、プレゼンテーションは、「自分が話したいこと」ではなく「相手が聞きたいこと」を話さなくてはなりません。相手に気に入ってもらわなければ何の意味もありません。

 繰り返しになりますが、「プレゼンテーションは聞く人のため」です。あくまでも「聞く人が主役」です。
 とすると、「プレゼンテーションは相手に合わせ」なくてはなりません。たとえば、相手の態度を見ながら説明のポイント・テンポ・話し振り等を変える必要があります。

 特に気をつけるのは聞き手の視線です。プレゼンテータは、プレゼンテーション中に、常に、聞き手の「キーマンの視線」に気を配らねばなりません。

 実際のプレゼンテーションは、スクリーンにスライドを写しながら行いますが、しばしば説明用スライドをコピーしたものを聞き手に配布する場合があります。
 この場合、プレゼンテーション中に、聞き手が「資料の先のページ」をめくっていたら要注意です。この場合は、何がしかの部分でプレゼンテーションの進め方を変えなくてはなりません。
 なぜなら、相手が資料の先を見ているというのは、そのとき説明している内容には集中していないということだからです。

 すなわち、

  • 「①そのページは理解した」か、
  • 「②そのページに、関心がない」か、
  • 「③プレゼンテーション自体に興味がない」か、

のいずれかなのです。

 ①②の場合であれば、サッサとそのスライド(ページ)の説明は切り上げて次のスライドに移ります。
 ただ、③の場合はどうすればいいでしょう?

 この場合は、ともかく以降の説明はメリハリをつけてポイントだけを話し、早めに切り上げることです。
 聞きたくない話を延々と続けられると、相手は間違いなくイライラしてきます。こういう不満が高まると、相手に対して決定的に悪印象を植え付けてしまいます。

 そのときのプレゼンテーションは失敗だったとさっぱりと諦めて、次回のチャンスのためにマイナス印象を少しでも減らしておくのが得策です。

 プレゼンテーションは、自分のペースで話し切って自己満足しても、相手に気に入られなければ全く無意味なのです。

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似て非なる・・・

2005-07-23 19:36:15 | 日記・エッセイ・コラム

 つい最近、私の友人から聞いた話です。

 同じ仕事を2~3年程度やっていると、人は「この仕事は、○○さんにしかできない」といって、その専門性を称えてくれるようになります。

 でも、同じ仕事を7年も8年もそれ以上やっていると、人は「○○さんは、この仕事しかできない」と言うようになるとのことです。(彼は同じ仕事を11年間も担当していました)

 「・・・しかできない」というのは同じですが、言葉の順序が替わるだけで意味は天地ほど違ってしまいます。
 人ごととは思えません。私もまさにそんな状況でした。

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トヨタモデル

2005-07-20 23:30:11 | 本と雑誌

 自分で書けもしないのに批判じみたことは決して言うべきではないのですが、久しぶりに乾いた本を読んでしまいました。

 たまたま手近にあったので読んだのですが・・・。トヨタの年表か紳士録を読んでいるような感じでした。

 事実を書いているのでノンフィクション本なのでしょうが、私の頭の中には、ノンフィクションといえばはるか昔に結構集中して読んだ吉村昭氏や柳田邦男氏の本がいの一番にイメージされるので(ある種ノンフィクションのミーハーですが)、今回は何か本の紙そのものを食べているような気分になりました。

 特にこのところ本田宗一郎氏ものをいくつか読んだあとだったこともあり、ますますホンダとトヨタの違いが際立ちました。

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論証について (論理ノート)

2005-07-19 23:22:35 | 本と雑誌

(「論理ノート」p76より引用) 論証を健全なものにするには、その素材(内容)も枠組み(構造)も健全でなければなりません。

 通常よく使われる三段論法の基本形は、以下の形です。

  • すべてのAはBだ(大前提)
  • すべてのCはAだ(小前提)
  • ゆえに、すべてのCはBだ(結論)

 具体的には、たとえば、

  • すべてのリーガ・エスパニョーラの選手はサッカー選手だ
  • ロナウジーニョはリーガ・エスパニョーラの選手だ
  • ゆえにロナウジーニョはサッカー選手だ

という感じです。

 素材(内容)が健全でない例は、たとえば、

  • すべてのリーガ・エスパニョーラの選手はスペイン人だ
  • ロナウジーニョはリーガ・エスパニョーラの選手だ
  • ゆえにロナウジーニョはスペイン人だ

 これは、1番目の大前提の内容が「偽」です。
 したがって、たとえ論証の枠組み(構造)が健全でも結論(ロナウジーニョはスペイン人)は「偽」にしかなりません。

 他方、枠組み(構造)が健全でない例は、たとえば、

  • すべてのリーガ・エスパニョーラの選手はサッカー選手だ
  • 久保竜彦はサッカー選手だ
  • ゆえに久保竜彦はリーガ・エスパニョーラの選手だ

 これは、二つの前提を結び付けるものとしてそれぞれの述語部分をもってきているという構造の誤りです。

 上記のような分かりやすい例のばあいは、その誤りが明々白々ですが、現実世界では結構2つの論証の誤謬がまかり通っています。
 まわりを注意するとともに、自分自身もそういう誤りを犯さないように自戒しなくてはなりません。

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100調べて、10にまとめて、3しゃべる

2005-07-18 00:35:02 | ブログ

 プレゼンテーションの基本として、妹尾堅一郎教授が常々言われている心得です。

 この心得の全く逆さまのようなプレゼンテーションにも時折お目にかかりますね。すなわち、「3しか本当に調べていないことを10ぐらいに膨らませて書いて、しゃべるときには関係の無いことまで縷々話して結局何も残らない」というものです。

 妹尾教授の心得を下敷きに私なりにもう少し肉付けをしましょう。

 まずは、「書いてあること全てをしゃべってはダメ」ということです。

 プレゼンのスライド(最近はPowerPointがデフォルトですね)の1枚目から一言一句もらさず「読まれ始める」と、大半の聞き手はそれだけでうんざりして失望します。
 書いてあることは「読めば分かる」のです。スライドのエッセンス部分を取り出して、「箇条書き」的に話すだけでずっとスマートに聞こえます。

 かといって、資料から全く離れたことばかり説明してもダメです。これでは、一体何のためのスライドかということになってしまいます。(目的と手段のアンマッチは、話し手の論理的思考力の欠如と映ります)

 また、プレゼンする場合は、「総論・結論」と「各論・根拠」のメリハリをきちんとつけることです。

 自分の手元には、「本編資料」・「参考資料」・「手持ち資料」の3つの資料を準備しておきます、スライド本体は「本編資料」と「参考資料」の構成にしておきます。しかし、基本的には「参考資料」は説明しません。「10にまとめて、3しゃべる」のルールです。
 参考資料は、プレゼンが終った後の質疑応答の時や、話していて「どうもここは分かっていないな」とか「ここは結構関心がありそうだな」と感じたときに、そのスライドにジャンプして使います。

 「結論」と「根拠」の説明はプレゼンテーションのコアです。したがって慣れない人はこの部分になると気分が高揚して自分の世界にのめり込んでしまいます。ついつい必要以上にくどい説明になってしまいます。
 しかし、ここはガマンです。スライド資料に複数の根拠を記述していても、聞く人が「結論」を理解したと思えば、全ての根拠を説明する必要はありません。理解してもらえばいいのです。その目的さえ達成できれば、準備したものを全て話す必要はありません。ここでも「10にまとめて、3しゃべる」です。

 プレゼンテーション全体のイメージは、

  • 書いてあることを「3割」ぐらいなぞりながら、
  • 書いていないことをちょっと補足しながら、
  • 「(ここで)言いたいこと」(結論・根拠・事実・ロジック等)をゆっくり話す

という感じです。

 それでは、「最初の100」はどこへ行ったのかということですが、これは聞いている人にははっきり分かります。
 100調べている人のプレゼンテーションには余裕があります。話ぶりはゆったりとしていて、それでいて、何でも聞いて来いという攻めの姿勢が感じられるものです。

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知の職人たち (紀田 順一郎)

2005-07-17 00:22:37 | 本と雑誌

 私の友人(大学教授)が、新入生に薦める本の1冊として紹介していたのでオンラインの古本屋さんから購入しました。
 世の中にあるいくつかの著名な辞書の誕生にまつわる編者の努力を紹介したものです。

 私は、辞書というものは、そのボリュームから考えて当然のごとく多くの人の分業により編集されたものとばかり思っていました。が、実際は、ひとりの編者が膨大な歳月と想像を絶する精力を傾けて産み出した知的創造物だったのです。
 辞書は、没個性的なデータバンクなどではなく、ひとりの編者の強烈な想いがこもった「極めて個性的な著作物」と言えます。
 さらには、当時はワープロもなかったのですから、その著述作業はすべて手書きであったわけです。その物理的な労力を想うだけでも現代人の常識を遥かに超えるものがあります。

 この本のなかで新村出氏による「広辞苑」編纂の在り様が紹介されていました。

 もう20年ぐらい前でしょうか、彼(友人の大学教授)の結婚披露宴の引出物が「広辞苑」だったのを思い出しました。
 そのときは、大学に残って研究者を志す人はやっぱりちょっと違うのかしらと思った程度でした。が、この本の発行が彼の結婚の数年前なのを考えると、この本の「広辞苑(新村出)」の章の印象が殊の外強かったのかもしれません。

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実数と比率

2005-07-15 23:57:20 | ブログ

 数値で現象を分析する際の注意です。

 分析する際には、よく販売シェアとか構成比とか増減率とかという「比率(割合)」で傾向を分析することがあります。比率は一見傾向を分かりやすく表しているように感じますが、「一見分かりやすい」というものには、必ず落とし穴があります。

(「価値組」未来企業へのシナリオ(監修:島田 精一)p84より引用) 消費地として急成長を遂げる中国市場では、決して平均値で市場を測ってはいけない・・・。中国市場では10%でも日本市場と同じ顧客規模になる。・・・携帯電話の加入数を見ても・・・普及率に換算すると大きな差があるが、絶対数ではすでに中国市場のほうが大きいという現実がある。

 「率」は割り算の結果でしかないので、実態として些細なことが大きな変動の値(率)として表されたり、逆に、実数としては大きな動きであっても率にすると大したことに見えなくなったりすることがあります。

 分析の用途によりますが、「率」は常に「実数」とセットで考えないとミスリードする恐れがあるのです。

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データ(情報)の使いわけ

2005-07-14 23:01:04 | ブログ

 他の人にレポートする場合のデータの扱いについてです。

 データにはいろいろなタイプがあります。たとえば企業等での経営管理に用いられる報告の場合は、通常「速報値」と「確報値」があります。

 そのうち、管理会計は経営の舵取りにタイムリーに資するためのものなので、ゆっくりと「結果、こうでした」と報告されても後の祭りということがあります。
 したがって、管理会計の場合は「速報」が重要です。「速い」ことに最大の意味があるのです。問題点の兆しが分かればいいので、その精度についてはある程度許されます。
 最近では、速さとともに正確さも求める動きも出てきました。Real-Time Managementを志向する企業もあり、リアルタイムの販売状況や数時間前の各種経営数値をレポートしている例もあります。(どの程度それがその迅速さと同等のレベルのアクションに結びついているかは?ですが・・・)

 他方、財務会計・税務会計は「確報」です。数値の正確性に意味があります。しかしながら、最近は財務会計(決算)についても迅速性が求められるようになりました。米国証券取引委員会(SEC)の方針投資家への情報提供(IR:Investor Relations)の充実の観点から決算の早期化が求められているのです。

 いずれにしても、データ(情報)はその用途によって求められる性格が異なります。そこのところをキチンと意識して送り手は発信しなくてはなりません。
 また、受け手も、そこのところをキチンと理解して活用しなくてはなりません。

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真面目な車内放送

2005-07-11 23:48:04 | 日記・エッセイ・コラム

 今読んでいる本(東京路上探検記)の影響から、このところ日常の中でのちょっとしたことに意識して気を配ってみようと心がけています。

 そんな折、今日会社に行く途中、神田駅で乗ったJR山の手線でこんな車内放送がありました。
 「ただいま9号車の冷房が故障しております。お手持ちの扇子・団扇・下敷きをご活用ください。」
 一瞬不意打ちを食らった感覚で、真面目なアナウンスなのかジョークなのか判別がつきませんでした。
 ただ、次の東京駅でも、
 「ただいま9号車の冷房が故障しております。他の車両にお移りになるか、お手持ちの扇子・団扇・下敷きをご活用ください。」
とアナウンスしていたので、おそらく真面目なのだと思います。

 堂々と「お手持ちの扇子・団扇・下敷きをご活用ください。」とアドバイスするその内容にも驚きましたが、「下敷き」とまで言われて本心ウケけました。
 すらすらと放送していたので、ひょっとするとJRのアナウンスのマニュアルに記載されているのでしょうか?だとするとそれを考えた人もすごいものです。「扇子」「団扇」までは思いつくとしても「下敷き」まで思いつくのは並大抵のセンスではありません。(そもそも、ここまで言う必要があるのかは???ですが、)
 また、それを公式のマニュアルに採用したのだとしたら、その判断した人もすごいです。(冗談でマニュアル化しないでしょうから、心底真面目に考えたのでしょう・・・)

 もし、(公式マニュアルではなく、)車掌さんのアドリブだとしたら、これまた「座布団1枚!」ものだと思います。おそらくその車掌さんは、学生時代、冷房の入っていない教室で、下敷きで扇ぎながら(退屈な授業を)耐えていたのでしょう。

 ただ・・・、車内放送が流れてもまわりに乗っていた人は全く動揺?していなかったので、ひょっとすると???と感じたのは私だけで、世間一般的にはおかしなアナウンスではなかったのかもしれません・・・

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わが友 本田宗一郎 (井深 大)

2005-07-10 23:10:10 | 本と雑誌

(p24より引用) 私も本田さんも、この技術があるから、それを生かして何かしようなどということは、まずしませんでした。最初にあるのは、こういうものをこしらえたい、という目的、目標なのです。・・・この目標があって、さあ、それを実現するためにどうしたらいいか、ということになります。・・・すでにある技術や手法にはこだわらず、とにかく目標に合ったものを探してゆく-そんなやり方を、私も本田さんもしていました。・・・“素人”がこうして、ひとつひとつ苦労して自分自身の手でつくり上げていくからこそ、人真似でないものができるし、人が真似できないものがつくれるのです。

 SONYの井深氏とHONDAの本田氏は、それぞれの会社が今のような大企業になる前からの知り合いだったようです。
 性格は正反対といってもいいほど対照的ですが、コアの部分で強く共感しあっていたのです。

 引用の中で二人に共通するのが、「まず目標ありき」という姿勢です。このブログの最近のテーマである「What」です。「What」があって「How」はその後です。決して「How」から考えない、その姿勢が独創性の源です。

 そういう創業者の基本姿勢がそれぞれの企業のDNAとしてかろうじて残っているのでしょう・・・。

 NONDAはかつてのCVCCエンジンのような並外れたépoch-màkingな開発はないものの、未だにHONDAらしさが感じられる車を作り続けています。(この点、異論があるかもしれませんが・・・)

 SONYはといえば、最近Network Walkmanが好調のようですが、果たしてこれが独創的といえるかどうか?デザインはそれなりのSONYらしさは見せていますが、iPodの二番煎じとの声がもっぱらです。
 しかしご存知の方がどのくらいいるか分かりませんが、SONYはもう何年も前からNetwork Walkmanを販売しています。ただ当初のものは独自仕様が多く、また、ちょうど携帯型MDプレーヤが出始めて、使い易さから多くの顧客はそちらに流れてしまったのです。(ちなみに、私は、初期のNetwork WalkmanとiPod shuffleを併用しています)

 私は今でも、SONYにも井深氏のDNAは息づいていると思っています。


わが友 本田宗一郎
井深 大
ごま書房新社

 

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