飄(つむじ風)

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聖書について

2008-01-23 07:07:28 | 聖書について

聖書について

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 もとより正式なクリスチャンではない。ましてやカトリックでもない。しかし、聖書は読む。読むほどに聖句は心に染み渡る。これは実感であって、誇張でも何でもない。
 そもそも聖書になれそめは、高校時代、ギデオン協会(?)の英対訳新約聖書の寄贈を受けたことに始まる。最初は、いわば英語の勉強を兼ねた読書に過ぎなかった。少々古い英語で辞書にもない単語が多く、閉口する部分もあったが、簡潔な文体で素直に親しむことが出来た。ずいぶん長く、座右の書の一つであった。

 それが何時の頃か、舊(きゅう=旧)新約聖書(日本聖書協会発行)に変わった。いわゆる文語訳の聖書である。最近は、これに親しんでいるものだから、口語訳の聖書は、少しこそばゆい感じがする。
 『元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり 地は定型(かたち)なく曠空(むなし)くして黒暗淵(やみわだ)の面(おもて)あり神の霊水(れいみづ)の面(おもて)を覆(おほひ)たりき....』で始まる聖書である。引用するにも一苦労する。もちろん仮名振りはしてある。そうでなければ、とうてい読むことを、とうに諦めたであろう。

 読み慣れると、これが非常にいい。文語と言うだけあって、目から音楽のように入り込んでくる。韻があるというか、調子よく流れるように文字を追っている自分が不思議な思いがする。そこは口語訳では味わえない何かがある。

 この聖書に出会ったのも、ひょんなきっかけである。ある時、洗礼について論議したことがある。論議というか、話題にしたぐらいだが、友人が『あの水をちょこっと頭に降り注ぐのは、本当の洗礼じゃあない。本物は全身をザブリと水に浸さなければならない。』と言った。それじゃ体験してみようと思って、体験した。友人はクリスチャンである。友人の親しんでいる牧師に頼んで、その洗礼を受けた。その時、この聖書を入手した。
 洗礼を受けたと言う意味では、クリスチャンなのかもしれない。しかし、その教会には洗礼を体験することが、狙いみたいだったので、数回、説教を聴きに行ったが、その後とんとご無沙汰している。
 洗礼は受けたが、寺には参るし、神社にも賽銭を投げる。友人は決してそういうことはしなかった。むしろ避けた。その意味では、私は決してクリスチャンではない。

 とはいえ、神の実在を信じている。しばしば臨在を感じる。臨在と言っても、神なのかそうでないのかは判らない。上(カミ)なる存在なのかもしれない。いわゆるハイアーセルフ(高次元の自己)と言うやつだ。しかし、そういうことはどうでも良いことである。生かされているという実感があるということは、少なくとも大いなる幸いと思っている。
 聖書は、大きく変遷をしてきたとも言われる。そうであろう。マリアの処女懐胎などはどうもあり得ないと思う。それも聖書の読みようである。マタイ伝の第一章などはアブラハムから延々と続くイエスまでの系譜を辿っている。そして、マリアの夫ヨセフをもってイエスに続く系譜としている点、あれは何のための記述かと思う。肉体の系譜であるから今風に言えばDNAの系譜である。
 それから唐突にイエスの誕生の下りになると、『その母マリア、ヨセフの許嫁(いいなづけ)したるのみにて、未だ偕(とも)にならざりしに、精霊によりて孕(みごも)り、その孕(みごも)りたること顕れたり。.....』となる。そこで、マリアの処女懐胎となるのであろうが、正式なクリスチャンではない者として、自由に読むとこうである。
 霊と肉は別であって、肉は生物学的原理により発生し、系譜が続いて当然である。別に何ら不都合はない。霊は、精霊は降臨による。イエスの御霊は、降臨によるモノで肉体の系譜とは無関係であると言っているに過ぎない。

 それは、別の下りでそう読み取れる。(これからやっかいなので原文引用はやめる。)

【聖書口語訳引用開始】「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。【聖書口語訳引用終了】

 分かり易く言うと、イエスという名前で生まれたキリストは、肉体はダビデの系譜、すなわち子である。しかし、その魂は、すなわちダビデが主と呼んだキリスト(救世主)であるから、ダビデの子であろうはずがない。ここは肉体と霊とは別だとしないと、とうてい、このことは理解できない。
 身近で言うと、肉親で親子でも魂は別であると言うことだ。縁あって今生、親子として肉体を持って生まれ合わせたことを意味している。そして、その子がその親より魂が大きい場合もあると言うことだ。

 こんな聖書読みが、クリスチャンで大人しく居られる訳がなかろう。