飄(つむじ風)

純粋な理知をブログに注ぐ。

聖書について!②

2008-01-27 07:18:01 | 聖書について

聖書について、書かなければならないのは......。

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 クリスチャンでもない私が、何故書こうと思ったか。? それは、イエスが実在したことと、その教えが汚されつつあると感じたからだ。
 イエスは、キリストであると確信している。キリストとは救世主のことである。救世主は、別名メシアとも呼ばれる。あるいは贖い主、助け主とも言う。グル(教師)であり、神の化身でもあると思う。要するに、イエスは、肉体人間として(と言うと、本物?のクリスチャンからは、抗議が来るかも知れないが、.....)生まれたことは確かであるが、その御魂において、偉大なる魂であることは間違いがなく、その御魂を通じて精霊が宿り、父なる存在(創造の意志)を顕したのである。
 御魂と精霊と神(父なる存在)が一体化した存在こそが、キリストであり、メシアであり、グルと言うものである。一体化しているからこそ、神の化身と言われる。イエスは肉体は人間であるが、霊においては、
神(父なる存在)でもある。魂と精霊とによって神(父なる存在)なのである。

 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。ヨハネによる福音書 / 14章 8節』との問いに、イエスはこう答えておられる。
 『イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。
 どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。
 父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。ヨハネによる福音書 / 14章 9節~11節


 これは、物質的限界ではとうてい解り難いことである。精霊も
神(父なる存在)も目に見えず、触る事も出来ないからだ。その意味では、空気も電気も赤外線・紫外線も似たようなものである。最近でこそ、機器を通じて、素粒子まで感知することが出来るようになったが、それまではあり得ざるものであった。
 
 神の化身であるイエスは、実在の神を説いたのであるが、パリサイ人(ファリサイ人とも言う。ユダヤ教のグループ)や、サドカイ人(ユダヤ教の唯物論者グループ)は、理解しないばかりか、既存権力を守るために、イエスを攻撃した。

 その構図は、いまも全く同じである。理解しないのは、致し方がないとしても、毀損することは大いなる罪である。何故毀損するか。? イエスが言う三位一体の権威が真実であると、都合が悪いのである。 イエスが説いた教え、イエスが為した業(わざ)と、毀損したがる連中の思い、行動がことごとく反するからに他ならない。イエスが善としたら、彼らは偽善である。

 聖書を、素直に読むとよく解る。

 
偽善者は、語ることにおいて、神の代弁者のごとく語る。思いはまったく別である。自己中心であり、尊大である。神の子であることを拒否して、自らが神のごとくあるとする。且つ、狡猾である。偽りを畏れず、縦横に駆使して、自らの益に利することを彼らの善としている。ウソ偽りの常習犯である。詐欺師であり、ペテン師である。秘密を保持し、闇で謀る。欲で行動し、他の犠牲を誇る。富を尊び、自己を愛す。女性を酷使し、子供を狂わす。支配を望み、闇の帝王を奉る。

 挙げれば、きりがない。聖書にそのようなことは一つも言ってない。仮に、
聖書が永い時代を経て、変遷を経たことを差っ引いても、書かれた聖句は今にして、輝ける聖句である。

『人をさばくな。自分がさばかれないためである。なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(うつばり)を認めないのか。自分の目には梁(うつばり)があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁(うつばり)を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。マタイによる福音書 / 7章 1節~5節

 最後に、聖書を読むにあたって、肝心なことは霊を認めなくてはならない。人間はこの世限りのものではないと言うことを認識する必要がある。霊的存在であることを認識しないでは、聖書は単なる倫理書にすぎず、これほど退屈な書物はないと言うことである。
 霊的存在であると言うことは、人間は神の一部であると言うことである。生ける神がイエスをしてキリストと成ったごとく、イエスを通じて、人間は神の子として成ると言うことである。イエスを通じてと言ったが、これには理由がある。 

『よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。』

 先にも書いたことであるが、私は正式なクリスチャンではないのでイエスに拘っているのではない。しかし、イエスを信じる。キリストとして信ずる。であるから、ここでは広義に『救世主=グル』を通じて、人間は神の子として成ると言い換える。要は、人間が霊的存在であるとして、子が親から生まれるように、魂の親が『救世主=グル』であるとの義を行うことが、神の子たる所以であるというのである。それは当然の事である。

 聖書を読むにあたっては、イエスは紛れもなく、キリストである。サイババの教えを読むにあたっては、サイババは紛れもなく『グル』である。そこには一点の矛盾がない。そして、私は一介の神の子であり、一介の神の化身であることを認識し、幸いを味わう。